「法然」京都・宗祖の旅
左方 郁子 (著) 1990/10 出版社: 淡交社 単行本: 141ページ
No.4412 ★★★★★
この京都・宗祖の旅シリーズはコンパクトでしかも身びいきにならず、客観的にに突き放して書いてあるところもなかなか好感が持てる。ここまで、「道元」、「親鸞」と読んできたわけだが、そもそもZENとなれば道元でしょう、という早とちりの中、それに対峙するところの親鸞も、う~ん、これでいいのかなぁ、というため息が出て来る。
そして、この法然を読んだところで、なるほど、法然がいなければ親鸞はいなかったのだ、という遅まきながらの気づきで、一時はレインボー評価を心の中では一度はしたものの、結局全体としての小冊子としてのダイジェスト性ゆえに、★5の評価にとどまった。
法然を理解するには、平家が滅亡し、武家社会が活躍し始まるという時代背景をしっかりとらえなくてはならないし、また、全体評価として親鸞より下回っていそうだ、ということを納得するには、当時の法然の自己アピールにこだわらない、真摯な人生姿勢に目を配らなければならない。
逆に言えば、親鸞は、長生きし、かつ雑多な資料やエピソードを多く残したがゆえに親鸞ファンを多く作ったようにも見え、浄土教における浄土宗そしてそこから浄土真宗という新品種を生み出したかのようでもある。
いずれにせよ、法然もまた、決して俗に媚びず、宗派などといわず、仏道の大道に帰依しようとしたのであり、また、時代背景的に、身の回りにいる庶民の生活がどうしても目が離れなかったのであろう。そこが眼目であった。西方浄土、専修念仏による極楽往生こそが、仏道の救いなのだ、と覚ったわけだ。
この他力本願に対して、道元などの禪が武士に受け入れられたのも、その時代や大衆性、支持者によって大いに脈動してきたのだ、ということも分かった。
はてさて、今は21世紀。AIとパンデミックが激しく対立し、グローバル社会と環境問題が大きくクローズアップされる現代である。私たち現代人は、道元でよし、と早合点するわけにもいかず、さりとて、親鸞、法然に逆戻りするわけにもいかない。修正や翻案だけでごまかすワケにもいかず、私たちには私たちなりのスピリチュアリティが求められるのである。
さて、このシリーズ、他にも何人かのいわゆる宗祖と仰がれる宗教人が取り上げられている。最澄、空海にいたっては、それなりの予備知識はあるが、このシリーズのなかで、日蓮はどう語られているのだろう。あるいは、そうそう禅宗といえば、栄西だって、もうすこし把握しておかなければならないのでは、と思えてくる。
最澄、空海、栄西、日蓮、法然、親鸞、道元、と、同量のダイジェストの中で、全体的に捉えた場合、何がいったいどうなっているのか、を理解する必要性を感じるようになった。決して、京都の観光ガイドブックとしてこのシリーズを使い捨ててはなるまい。
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