和尚
1)最近、知人が亡くなった。享年75歳。会社員暮らしをし、退職後は、ゴルフとカメラに興じたごく普通の快活な老後だった。最後は、内臓に生じた癌で、苦しみながら亡くなったという。冥福を祈ります。合掌
2)私はこの3月で満70歳になった。中身はそれほど変わらないのに、やはり70歳という年齢には、それなりの重さを感じる。75歳といえば、私にとっては、あと5年後のことだ。5年前の自分のブログを読んでみて、ほとんど心境としては変化がないように思う。ほとんど、人間としての考え方や、生活様式、瞑想法も、大きな変化がない。
3)あるとするならば、かつて自分で名付けた素晴楽堂把不住沙門という法名がいささか窮屈になってきた、というところあたりだろうか。サニヤシンだから沙門でいいだろうと思ってきた。居士ではないだろうと思ってきた。居士として葬られるのではなく、せめて沙門として、人生を終えたいと思ってきた。
4)しかし、ここにきて、何やらむくむくと、何かが動き出している。私は自分の法名を、素晴楽堂把不住和尚、に変えようと思う。おそらく仏道を歩んでこられた方々が70歳を迎えられる頃には、大和尚とか、老師とか呼ばれる頃合いになっておられることだろう。私は、そのニュアンスとは、やや違った形で、自らを和尚と呼びたい。
5)寺もなく、まともな修行プロセスを経ることもなく、自らを何事かの役職名で語ることは、不遜なことで、できれば避けるべきであろうとは思う。誤解も生じることであろう。しかし、70歳の私には、自らをそう呼ぶことは、大きなチャレンジで意味あることに思える。
6)私はOSHOのサニヤシンであった。だから沙門も決して遠い表現ではなかった。自覚としてそうであった。そしてまた、ある時から私はOSHOの友人でもあった。マイトレーヤーの時代においては、私は、光明を得た存在の友人の席に招待されたのである。いささか気後れするが、それはそうでなくてはならない。
7) 古希にして和尚と名づく春かしらん 把不住
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