1)12月2日、何を語ろうかな? 構想は色々あるが、想いを巡らしているうちに、漏れが出てくるかもしれないので、メモしておく。語る時間も十分じゃないだろうし、来場者の雰囲気にもよるだろう。
2)成人して、波に乗ってからの彼については、来場者の皆さんにとって、すでに十分にご存じのことが多いだろう。私の役割は、おそらく子供時代や10代の彼についてのエピソードであろう。
3)小中学校の同級生、という触れ込みだが、実は9年間の間、本当の同級生だったのは、中学校1年の時の一年間しかない。だから、私は他の友人たちより彼を多くを知っているわけではない。むしろ、小学校時代は親しく話したことは少なかった。
4)一番最初に彼を意識したのは、小学校3年の時の学芸会。練習の最初の日に集まった時、主役に選ばれていたはずだった(と思い込んでいた)私は、2回目に練習した時には、村の子供3になっていて、新しく主役に選ばれたのは、彼だったのである。
5)この時の彼のクラスの担任は、越前千恵子先生と言って、山形大学を卒業したばかりの新任の先生だった。彼は図工の時間に、人形を作ったのだが、決して上手とは言えなかった。ところが、クラスのみんなが作った人形を組み合わせて物語を作ったところ、大受けしたという。その時、越前先生は、あなたは大きくなったらシナリオライターになったらいいわね、と褒めてくれたらしい。そのことが彼の人生を決定づけたと言える。
6)小学校5・6の時には、彼の書いたシナリオが昼休みの時間に、学校放送で校内に流れたというが、残念ながら私は覚えていない。しかし、彼は徐々にその自分の才能に目覚めて、自信を深めていったのだと思う。
7)この頃の彼の友人に、大山明くんというのがいて、放課後、二人して彼の家に行って漫画本を読んでいるらしかった。私はその風景を羨ましく見送っていた記憶がある。大山くんは現在、外科クリニックの院長をしている。
8)中学校になって、初めて同じクラスになった。1966年、ビートルズが日本に初来日して、大きなニュースになったった頃だった。大友ももこ先生の習字の時間、隣の席の彼に、何か一緒に面白いことしようと、と話しかけた。それがきっかけとなって、ワラ版紙に手書きで書いた漫画や小説などを綴じた雑誌を作ることになった。タイトルは「ボーイズ・ファイター」。当時のティーンエイジャー向け雑誌「ボーイズ・ライフ」にちなんだものだった。
9)さてこの辺で、何時ごろから彼はニュートンと呼ばれることになったのかということだが、私の記憶する限り、すでに小学低学年から、そうニックネームがついていたはずだ。彼が語ったエピソードに、クラスメイトの林信夫くんがニュートンと叫んだのがきっかけだった。
10)中学校1年の時、自衛隊の飛行機の整備士だった彼のお父さんの計らいで、航空祭の時、ヘリコプターに乗せてもらう好運に恵まれた。彼と二人で乗せてもらい、飛行場を飛び立ち、山並みを見ながら阿武隈川まで行き、回旋して海岸線を北上、広瀬川まで行って、戻ってきた。その時、初めて空から自分たちの街を見ることが出来た。13歳当時に私たちにとっては、銀河鉄道の旅のような素晴らしい旅の始まりだった。
11)進級して、クラスは別だったが、私たちは新聞部というつながりがあり、謄写版で学級新聞を競い合って作っていたこともあった。彼の新聞のタイトルは「1+1=3」というもの。私の方は、「MPC」という除草剤ゆかりの名前だった。
12)高校生になった私たちを待っていたのは、俗に68/69と言われたり、70年安保と言われた政治の時代であり、学生運動や若者文化の盛んな時代だった。彼を一番最初に演劇に誘ったのは私の方で、夜行館という荷車を引きながら、全国公演を旅するというアングラ芝居だった。その後、演劇シアター68/69、いわゆる黒テントや、状況劇場の紅テントなど、たくさんの芝居を一緒に見た。
13)高校生の私たちに大きな転機をもたらしたのは、朝日ジャーナルのミニコミ特集1971年春のことだった。お互いが個人ミニコミを作っていたので、全国リストを募集しているので、送ってみよう、と私が誘った。取り扱いはとても小さかったのだが、その反響は凄まじいものがあった。実名と自宅住所が記されていたものだったから、全国から問い合わせやら、宣伝やらが押し寄せてやってきたのである。
14)その中には、東京キッドブラザーズやら、天井桟敷や、岩波映画やら、たくさんの誘いがあり、これが縁で彼は、東由多加やら寺山修司やらと会うことになった。彼の演劇熱はますます深まって、学校内で、独自の演劇集団「座敷童子」を立ち上げ、文化祭で初公演することになった。
15)高校生卒業後、私たちは進学も就職もしない、いわゆるドロップアウトの道を選び、アルバイトで生活費を稼ぎながら、みんなで共同生活をし、それぞれの道を歩むことになった。私は雑誌編集の道を、彼は演劇の道をひた走ることになった。当時の彼の決意は、みんなで発行していたミニコミ誌にも表れている。
16)彼の芝居団は、決して演劇志望の若人を勧誘したものではなく、とにかく周囲にいた友人たちを演劇の世界に巻き込んでいくスタイルだった。だから敢えて言うならど素人集団。演劇や芝居という形から大きくはみ出るような活動だった。私もシルクスクリーンでポスターを作ったり、謄写版でチケットを作ったりして手伝った。
17)そんな中でも、彼は演劇志向のコアな仲間を発見し、やがて新しく洪洋社という新しい演劇集団を形成していった。私は雑誌編集の過程で、スピリチュアルな道を求め始め、インドへと旅立つことになった。彼は私の旅の送別会を、洪洋社の稽古場で開いてくれた。ここから以降については、サキくんの方が詳しい。
18)最近もよく思うことは、彼のことを語る場合、その後の十月劇場やオクトパスだけが語られることが多く、それ以前のことにも注目してほしいな、と思う。
19)最後に、一つだけエピソード。彼との最期の接触は、電話だった。サキくんの治療院で二人でコーヒータイムをくつろいでいた時、彼から突然電話が来た。入院することになった。したがって保証人はセイコウに決めたから、というもの。ええ? それは大変、じゃぁ今から行くから、というと、いいや大丈夫、代筆でもOKらしい、という。ほう、このコンプライアンス時代に珍しい。じゃぁ印鑑を持っていくよ、というと、いや、母印でいいらしい、俺が自分の指で押しておく、と彼は言った。
20)これが最期の別れとなった。彼は、最期の最後、私になりすまして、三途の川を渡り天国に行ったのだと思うと、不思議にも思うし、彼の演劇人生の最期の演劇だな、と、大いに笑える。
21)語るべきことは他に山ほどあるが、時間もスペースにも限りがある。他は、彼の著述なり、私のブログなりを参照していただきたい。今年は私たち同学年生にとって、70歳、古来希なると言われる古希の年です。このタイミングで、仙台文学館で石川裕人展が企画されたことを大変意義深く感じます。関係諸氏に深く感謝いたします。
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