1)このところ、夢に母が出てくることが多い。母に限らず、老いるにつれて、かつての身内や親戚の夢を見ることが多のだが、そのほとんどはすでに亡くなった者たちだ。そして、最近よくみるのが母の夢である。
2)かつて20を過ぎて道に迷った時、あの時もまた、母が夢に出てきた。まだ生きていたし、まだまだ若い母であった。そほ風景はこうである。草原に交差する太い道が2本。その十字路に立って、母は私に向かって、手招きをしていた。あとで考えてみれば、それはまるで十字架上のキリストのようでもあり、またその姿は、マリア像でもあるかのようであった。あの夢の翌朝、私は、振り出しに戻るかのように、母が住まう家に帰った。
3)最近見る母の夢は、あの情景とはちょっと違う。最近見る母の夢は、どちらかというと、困った老人のような姿の母である。駄々をこねていたり、意味不明に言葉を呟いていたり、時には艶かしく自分の息子に擦り寄ってくる。夢の中では実にリアルな母の姿である。目を覚まして、あれ、あれは夢であったか、と、すでにこの世の人間ではないことを、思い出す。
4)大正、昭和、平成、そして令和と、長年の人生を生き抜いた母だった。思えば大変な人生であった。大家族の中に生まれながら、戦争時代に青春を過ごし、嫁いだ夫に先立たれ、婚家の家業に精を出しながら、私たち3人の子供を育ててくれた。それに付随する様々な人生模様を、子供ながら、私も薄々知っていたし、また、一言も漏らさず、姿に表さず、あの世に持っていってしまったエピソードも数々あったに違いない。
5)最近私に夢に出てくる母は、どちらかというと、それら生前にはぶちまけることのできなかった愚痴や無念の思い、恨み言を、一気に吐き出しているかに見える。いやそれは、私の持っているイメージだ。母の人生はあのようなものでよかったのか。あれはこうあればよかったのではないか。時代が時代であれば、こうなるはずだったのではないか。色々な思いが頭をよぎる。
6)されど、母の人生としては、それらはすでに完結してしまったことなのだ。今更修正などできない。ましてや、今やそれらは、私のこころの中の出来事でしかない。私の中の母が、最も母らしく、安らかに過ごしてもらうには、私が、そのような環境を作ってやるしかないのである。それはまた、わたしの、私個人の日々の暮らしの安らかさに通じてくるはずなのである。
7)夢の中の母は、私の生き方の鏡に映った姿である。どうすれば、内も外も、穏やかに、安らかになるのか。母は、その道を指し示すために。夢として、しばしば私の心の中に映し出されているかのようである。
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