2023年7月
2023/07/31
2023/07/30
2023/07/29
2023/07/28
2023/07/26
2023/07/25
試乗
1)赤Gというものは存在しないらしい。ならマスタードの黄だ。黄G。今日の3択は、赤Z、黄G、銀X。コスパなら銀Xとはいうものの、銀はいいけど、ナビをつけると、黄Gに限りなく近づいてしまう。それにあのてっちんホィールがいただけない。そこまでプリウスにこだわる理由が、どこにあるか。
2)赤GならPHEVのパノラマルーフで、という手しか残ってないが、青天井の資金が潤沢にあるわけでもない。黄Gに本命を移そうかとも思うが、それだってやっぱり300後半の勝負。そもそも車種選びで失敗している感が否めない。何をうろうろ悩んでいるのやら。
3)じゃぁ、必須条件は何か。新車、パノラマビュー、1.5L、アルミ、バックカメラ、200万、ぐらいの条件なのかな。でなければ、現状20で十分、ということになる。中古に乗るなら、現状20でいいじゃん。別にでかい車じゃなくてもいい。パノラマあればいいが、必須ではない。200でも大きな出費。そこまで出すなら、もうちょっと手を伸ばしたくなる。
4)スピード出すわけじゃない。ピカピカ光らせたいわけじゃない。世界の先端でウキウキしたいわけじゃない。買い物に行って、近所ドライブして、畑に行って汚れ物積めればいい。その程度だ。何を今更欲出して悩んでいるのかね。現状全ては満たされている。
5)どうしても乗りたい車はあるかね、と聞かれれば、一つくらいは解を持っていたい。赤MX5も何となく終わったな。60も、いずれ終わる時が来るだろう。老いさらばえて、手練れ花魁にうつつを抜かしている時ではあるまい。
6)吾唯足知、と行きたいところだ。静まれ我が魂よ。戦地で兵器を欲しがる兵隊さん。おもちゃを欲しくて駄々をこねる子供。盛りのついた野良犬。血迷い行き場を失った巨大マネー。
7)試乗はしたけど、だから、どうした。
2023/07/24
2023/07/23
「高い、結構かかっている」車の維持費19万円>タクシー代250回分 高齢者は免許返納で車手放してもいままで通りの生活できる?―静岡・熱海警察署が調査
1)車の維持費、年間、19万は当たっている。当社の集計もほぼ同等だ。だがしかし、三日に一回、1,5キロのお買い物往復をタクシーで、と言うわけにはいかない。そのような生活になれば、免許返納もあるだろう。
2)我が身がそうなるのは、どのような状態だろう。まず、仕事はしていない。車がなければ、仕事にはならない。時には憂さ晴らしで遠乗りしたい。家族の送り迎えも頻繁だ。そのようなことが一切なくなれば、と言う話である。
3)考えてみれば、我が住まいは、交通の要所にある。JR、バス、タクシー会社も付近に数社あり、車なしでも十分暮らせる環境にある。ひょっとすると、仕事だってこの環境下でできないはずはない。
4)これから、急上昇していく身ではない。やがて衰えて、老いさらばえていく見ではないか。うちの奥さんなどは、免許がありながら、この10数年、一切運転していない。それで暮らせるのである。
5)年間19万ということは、月に1.5万。考えてみれば結構な負担である。加えて、新車購入となれば、300➗10➗12🟰2.5万が、黙ってのしかかってくる。これでは年金生活なら、結構な負担となる。
6)まして後期高齢者となれば、実感として身にしみることであろう。そういう予感があるからこそ、60に目がいくのであろう。最後のあがきというか、未練というか、執着というか。
7)現在、車に関わる仕事をしているとしても。そもそもは決してカーキチでも走り屋でもなかった。基本モータリゼーションの異常な発達には反対だったではないか。早めに車と決別する生活もあっていいと思う。
2023/07/22
一択
1)別なディーラーの別な営業マンと、Gに試乗してみる。納期はやはり半年から1年超。これは誰に聞いたってわからないのだ。確定はできない。されどわかることは①9月の車検には間に合わない。斜面を取ったら、最速次の車を発注しておかなければならない、と言うこと。少なくとも、1年後、1.8Lの場合なら、来年の今頃までには、発注完了したいところ。
2)しかしまぁ、そこまで卑屈になって夢中になるほどの車なのか。Gに比較したって、20もまだまだいける。ポンコツではあるが、車としての基本性能は満たしている。経済性、実用性、趣味性をクリアしているだろう。それぞれ90%、80%、60%、というレベルではあるが。
3)蔦屋で紙雑誌プリウスを買ってきた。掲載されている記事はおざなりなところだが、まぁネットだけじゃぁ残らない、信憑性の高い記事を残しておく意義もある。
4)今日の一択、Xナビシルバーメタリック、2年後納車。いつもにディーラーのいつもの営業マン。資金計画は、それに間に合わせよう。そこからが、ライフプランとの大きな関わりが起きてくる。
5)実際、何歳まで車を運転できるか。老後資金をいくら残せるか。病気はしないか、体力は衰えないか。家族環境は変わらないか。仕事は順調か。あるいは否か。新しい好ましい車種は登場しないか。友人たちはどうしているか。
6)20のリペアが進んでいない。材料は調達したのに、細かい作業をやる気力が出てこない。洗車して、配線し直して、器具類を再設置して、室内清掃。車検費用の工面も必要だ。
7)G試乗して、率直これもいいと思う。されど、20に戻ってみてば、これもよし。乗り味なんてそんなに変わらない。ただ、飽きちゃってるだけなんだな。
3択
1)営業マンに電話を入れてみた。車検の予約を入れるのはちょっと早いが、新車納期等の情報収集。2Lは相変わらず2年待ちと。つまり、今予約しないと2年後にはGさえ乗れないことになる。そんなの、ありか?
2)Uなら2ヶ月でも納車できるという。計算してみると、実に割高で、自由が利かない。窮屈だな。結果、高いし。Xなら半年待ち、と。これなら。後一年待って、ゆっくり発注できる。しかし、だ。
3)せっかく赤があるなら、G赤もありでは? あれだけ赤MX5に心振るわせたのだから、それもありかも。でもなぁ。次から次と、ああでもない、こうでもないと、心はどこまでも、うろつく。
4)原因は何か。①車は生活上、仕事上、必須アイテムである。②現状20が13年になって、車検を迎える。まぁ、ここまでは順当な理由だ。ここからが、複雑骨折している。三つ目は、あえていうなら③新型プリウスが出た、ということだ。
5)①②だけなら、何とか乗り越えることができた。だって乗りたい車がないんだから。そう自分に言いわけができた。古くたって20が好きなんだ。そう笑って余裕を見せることができた。しかし。
6)本当に60はいい車だろうか。自分に合っているだろうか。サイズ、資金、用途。サイズは少し大きすぎ。資金は多少(いや、圧倒的に)たらない。用途は少し曖昧。
7)本日の1択。20温存。
2023/07/21
実感
1)ここで実感を書いておこう。いわゆるあのビッグモーターとやらの不正請求問題が出てから、私もちょっと心配にあってきたことがある。B店には一度だけMX5探しの途中に立ち寄ったことがある。このコロナ禍の間に急激に拡大していた店舗があったからである。それまで印象的なテレビCMは知っていたが、全く目に入らなかった。
2)対応してくれた店員は、B店は日本一ですと言った。ふー〜ん、ガリバーじゃないのか。そう思った程度だった。今回分かったことは、B店は、G店の派生だったのだ。山口かどこかのG店が独立して、全国に拡大して行った。時流もあったのだろうが、経営者の独自のテツガクもあったのだろう。そこに協力した損保業界も、悪い。
3)ここ何度か、車検や点検のたびに、車の調子がおかしい。古くなっているから仕方ない、と言えば言えるが、ちょっとタイミングが気になる。①点検直後に子バッテリーが干上がった。確かに古くはなっていたが、そん時、指摘してくれよ。②点検の後に、ウォーターポンプが赤ランプ。これも年季ということで快く交換はしたが、なぜに点検時に指摘しない? ③点検後にラジオが断線した。新品交換で10万だという。ネットで自分で探したら中古部品で、修理込みで1万。④前回ブレーキパットが交換時期としていたにも関わらず、今回は指摘なし。その代わり点検後にキューキュー鳴り出した。⑤バックカメラの配線がおかしいと前は直してくれたのに、今回は出来ませんと言ってきた。⑥店頭に行っても、こちらの名前も覚えていないし、お茶も出さない。⑦プリウスの見積もりをもらいに行ったのに、カローラを勧めてくる。おかしいことが色々ある。
4)この30年ほど、車検や点検は、ディラー任せだ。多少高いのかも知れないが、いざという時に動かないのでは商売にならない。信頼してそのまま預けっぱなしだ。それでいいと思う。前のリッターカーやワンボックスも、それなりに付き合ってくれた。そんなものだろう。普段からの手入れだって、とても褒められたものじゃない。
5)過剰な期待は禁物。信号無視とシートベルトで2回捕まったが、大きな事故はなし。ここまでドライブライフを過ごしてきたのだから、あまり苦情ばかりをいうのもやめておこう。感謝の気持ちも必要じゃ。人間に完全はない。人間万事塞翁が馬🐎。これからいいこともあるだろう。
6)ここまできて、何だか、2年待つのが億劫になってきた。営業マンの彼に電話してみようかな。
7)M計画は不備だらけだが、後2年を待つ気力が、私には残っているか? 潮時か? 年貢の払い時か?
2023/07/20
3択
1)今日の3択は、Zか、Gか、Xか、の検討である。経済性で言えば、当然Xだが、趣味性で言えばZだろう。実用性なら、Gというしかないかな。今回の車検は、迷いを断ち切るために、早めに予約しよう。しかし2年後に、15年を経過した20を見て、さらにまた2年、という気持ちになるだろうか。2年も経過すれば、評価も安定するし、M計画も落ち着くだろう。人生最後の車、という切迫感も強まってくるだろう。
2)Xも悪くはないが、鉄チンにホイールキャップというのがイカさない。結局ナビもつけるのであれば、もうちょっとすればGに手が届いてしまうのだ。色はシルバーメタリックでいいのだが、いまいち割り切り感に悲壮さが漂う。仮に30万の違いとして10年乗れば、年に3万、月に数千円の違いだ。それが大きいか小さいかは、その年代になってみないと分からないこともある。
3)現実を全く無視して趣味性に走るなら、それはZでしょう。PHEVでパノラマルーフ付き。色も、黄色かアッシュか、珍しい色を選ぼう。しかしだな、あのパノラマルーフは必須じゃない。ちょっとカッコはいいが、チャチイな。もちろん資金計画は天井しらず。2年後になれば、経費的にも余裕が出てくる可能性もあるが、当然逆の場合もありうる。
4)この3択、どうなるだろう。状況が悪化すれば、20の16年目、20年目だってありうる。可能だろうが、そんなポンコツを乗り継ぐ必要はあるだろうか。それならいっそ軽の中古もありうるだろう。まぁ、それも甘受しなければならないだろう。とにかく車は必要だ。何であれ、いずれ人生最後の車という概念は存在する。
5)しかしまぁ、Zまで趣味性をのばす必要はないだろう。PHEVだって、道半ばの代物だ。色だって、こだわりはない。あのパノラマルーフとやらも、ネーミングほどではない。必須アイテムとは言い難い。そもそも同価格帯なら、もっともっと選択肢が出てくるに違いない。確かに趣味性に走っているかに見えて、無駄の塊だ、少なくとも、老齢に私には。
6)かと言って300超まで出すのに、鉄ちんアルミキャップはないだろう。そこまで差をつけるのかい。どっちみち冬タイヤを買うのだから、そっちに鉄ちんをはめて、夏タイヤはアルミフォイールにする手もある。しかしこれから10年は乗ろうという新車に、その心配りが必要、というところに侘しさがある。それを上回る走りや所有満足度があるのか? ナビなし、って選択もあるのか?
7)今日のところは、Zまで伸ばさなくともGでいいじゃん、という結論。ナビは8インチでいいが純正が欲しい。足回りもかっこいい方がいい。でも、無駄に2Lというのもいかがなものか。燃費も1.8に比べれば悪い。となると、Gも安泰ではない。長所も欠点に見えてくる。3択に結論は出ない。2年後を待とう。
2023/07/19
2023/07/18
人生最後の
1)そもそも、人生最初の車とは、何だっただろう。一番最初に風呂場用の石炭を積んできたのは、クロガネの三輪車だった。運動会でアイスキャンディー屋が持ち込んでいたのは、ミゼットだった。我が家に最初にやってきたのはコニーだった。その次はホンダTN360。自分の最初の車になったのはスズキフロンテ。
2)中学時代から、無免許で、自宅の敷地や農地をはしっていた。でも自分で免許を散ったのは、22歳になってから。そもそも、モータリゼーションには、反感を持っている方だった。決してカーキチではなかったのだ。
3)だから、特段に人生最後の車なんて大騒ぎすることもない。いいじゃないか、なんでも。もうこだわるのは、やめよう。今夜はかなりいい加減な気分。
4)中学校の時、となりのイナカワシュウヤと、よくカーデザインのデッサンを比べっこしたものだった。あの頃、ワゴン車も書いたが、結局はスポーツカーのサイドビューだった。ニュートンだって、結局は、V8とかいう車漫画を書いていた。
5)流峰はバイク気狂いだった。あいつからバイクをとったら、羽をもがれたトンボのような状態だった。
6)ひっちはいくで、日本を旅した。もし、あれがじぶんのじゅるまだったら、どうだったのだろう。
7)わからん。
2023/07/17
三要素
1)何度も繰り返しているシュミレーションだが、クルマには、実用性、経済性、趣味性、の三要素が求められる。しかるに、MX5には、大きく実用性の不足がある。60Zには、経済性の破綻がある。20EXには、趣味性が求められなくなっている。いずれもが、不均衡になっているのである。
2)まずMX5は趣味性に特化しているが、実用を考えれば2台持ちが必要となる。60Zは、実用性はともかくとして、スカイルーフなしPHEVなしのグレードダウンが必須となる。しからば20EXは、ちょっとふるめで、肩身が狭くなっている、というところが本当だ。
3)赤いオープン2シーターは、とりあえず、諦めよう。冗漫なラージサイズ車も、まぁ不要である。となると、やっぱり20EX温存となるのだが、毎回のどの結論がちょっと寂しい。
4)実用性とは何か。市内や時には県内を動き回り、年数回程度は数百キロのロングドライブを楽しみたい。経済性としては、2〜3YYKが限界で、これだって決して楽ではない。趣味性としては贅沢は言わないが、1500以上、軽は嫌じゃ。SUVとかハイトワゴンは不要。セダンからややスポーツに振ったあたりか。
5)となると結局、リッターカーやコンパクトカーあたりが見えてくるのだが、車種もかぎられ、お眼鏡にかなう車がない。中古も嫌じゃとなれば、ないものねだりしている子供でしかない。
6)ここは趣味性に欠けるとは言え、20EX温存しかないことは重々理解しているのである。分かってはいるのだが、他に道はないのか、と心がそぞろになる。60Xしかり、MX5NCしかり、20リストアしかり。
7)困ったものである。
仕事
1)さて仕事に掛かろうか。概ね、内容は分かった。我がブログにある、渡辺眸関連リストの中から、特に、
1977/11 「こころある旅 インド」 エイプリル出版
1978/07 「やさしいかくめい1」 リアリティ プラサード書店
1978/12 「カメラ毎日」 小屋ーインドのアシュラム 毎日新聞社
1979/01 「カメラ毎日」 毎日新聞社
1979/1/19「アサヒグラフ」インド瞑想法の大導師 バグワン・シュリ・ラジニーシを訪ねて 朝日新聞社
1979/05 「アサヒカメラ」 特集・精神世界への旅1「アシュラム」 朝日新聞社
の時代性に、光を当てよう、という試みだ。特に中心になるのは、
1979/1/19「アサヒグラフ」インド瞑想法の大導師 バグワン・シュリ・ラジニーシを訪ねて 朝日新聞社
1979/05 「アサヒカメラ」 特集・精神世界への旅1「アシュラム」 朝日新聞社
の2冊。
2)この雑誌に掲載された写真と時代性を語ることが私の仕事と見える。彼女の生涯から考えると、この業績は、割と初期の時代となる。また、当時バグワン・シュリ・ラジニーシとして知られ始まった人物においても、いわゆる「プーナ1」とのちに名付けられた時代である。この二つの存在の出会いを、それこそこの一時期に限って評するのは、相当にリスキーである。そして、かなり面白くもあるだろう。
3)私が知る限り、彼女がアシュラムを訪問したのは、1978年3月だと推測する。当時の仲間は、彼女のことを記憶している。共通の話題のように語られる事がある。しかし、私には彼女の記憶はない。彼女にも私の記憶はないであろう。なぜなら、私はこの時期に、インド滞在のビザが切れ、いきなり、当時、日本山妙法寺の藤井日達上人が滞在しておられたスリランカ仏足山に飛んでいたからである。
4)1ヶ月後にプーナに戻った時、彼女たちのツアーは日本へ帰国した後だった。それから半年して、仙台に帰った私は、瞑想センター設立の準備にとりかかりつつ、農業大学校に入寮してしまった。彼女の業績を知るには、かなりの距離が発生していた。私が彼女やその業績を評するに、適任か否かを案ずるのは、そのゆえである。しかし、ご指名だ。もう少しやってみよう。
5)私に与えられているのは、700〜1400文字のいずれか。どうせなら長く書いて、あとは冗漫な部分はカットする方法でいこう。原稿用紙3、4枚程度。この程度は書きたいし、この程度で書けなければ、力量不足となる。
6)さて、この文字数に当て嵌めるのは、OSHOのことだけでいいのか。先年、私はWikipediaのOSHOの項の編集に参加した。知らぬ間にメチャクチャに改竄されていた内容を、サニヤシン達とのネットワークで数ヶ月かかって修正した体験がある。この作業は実に意義深くも大変な難行だった。ましてや、あの項をダイジェストしたり、抜書きしたりすることは、容易ではなかろう。
7)よく依頼文を読んでみれば、「OSHOのことは一般的にネットで調べればわかるだろう。若干OSHOとアシュラムの紹介をいれたら、あとは私自身が語るOSHOとアシュラムのこと、そして彼女の当時のアシュラムについての写真を評してほしい」という内容なのであった。ああ、これでは引用文やダイジェストでは不適格。まして他人や友人に頼むわけにもいかないことになる。
8)そこで思いついたのは、いつか書き始めて完成しないまま、誰かにネットに晒されてしまった文章である。まぁ間違いではない。私目線でありながら、なんとか普遍性を満たせようとした、不思議な文章である。これをベースにしたら、何事かの結果があるやもしれない。そんなことを、考えた。署名記事である。なんとかしよう。なんとかなるだろう。
リライト
1970年代日本における若者文化は、政治の季節を通り過ぎ、新たなる地平を求めて、模索の時代が始まった。全国の若者たちの集まりが、ヒッチハイクの旅や、ミニコミ発行を通じて、ネットワーク化していった。1974年に宮城県鳴子温泉郷に集まった社会活動家・大友映男などを中心としたグループは、翌年、沖縄から北海道まで徒歩で旅をするミルキーウェイ・キャラバンを企画した。 1975年、静岡県富士見仏舎利塔に集合した若者たちは、それぞれにヒッチハイクや徒歩、バイクなどで、約半年をかけて、各地のいわゆるコミューンといわれた生活共同体を繋いでいった。この動きは、後年の西荻窪のほびっと村などの活動に集約されていく。この動きがあった1975年、インドから帰ってきた星川淳が、手書きオフセット印刷のニューズレター「存在の詩」第一号[5]を携えて、このキャラバンに参加したのが、日本におけるOsho活動の最初である。キャラバンに参加していた若者たちが星川淳がリードするOshoダイナミック瞑想などを体験した。
1975年のミルキーウェイ・キャラバンに参加し、その後の星川淳主宰の瞑想会に参加した若者たちの幾人かはやがてインド旅行に旅立ち、Oshoのサニヤシンとなった。1977年、日本からインド・プーナのOshoアシュラムに旅し弟子となった一人の青年に対し、Oshoは帰国後、日本に瞑想センターを創設するようにアドバイスした。
次がその時のOshoと青年の直接面接(ダルシャン)の際の応答である。
「これが新しい名前になる。スバガット。これは歓迎を意味する。私のサニヤスの世界は誰でも歓迎する。カーストや宗教、国家、性別の障壁はない。私のサニヤスは一つの地球と一つの人間性を信じている。すべての宗教は私たちに属するが、私たちはどんな既成宗教にも属さない。だから、あなたの新しい瞑想センターの名前をスバガットとしなさい。」Osho
直接Oshoが瞑想センターの名前を説明する文献は少なく、この記述は現存する日本のOsho瞑想センターとしては最も初期的であり、数少ない唯一と言えるケースとなる。
帰国後1978年にセンター開設、コミュニティ・センターで定期瞑想会スタート、川畑愛義氏の「瞑想のすすめ」など一般出版物にも紹介されるようになる。1982年、商業ビルに常設瞑想スペースを設置。同年07月 瞑想会メンバー約20名で、アメリカ・オレゴン州Oshoコミューン・フィスティバルに参加。国内の瞑想センター統合の動きもあったが、1987年 Oshoがインドに戻ったことを契機に、活動を再開。1990/01/19には Osho肉体を離れた。1993年 「ツクヨミ」誌にて、来歴紹介された。1994年には愛知学院大学宗教社会学者、伊藤雅之氏による日本のORM(Oshoラジニーシ・ムーブメント)調査のフィールド・ワークに協力し感謝される。1995年は、阪神淡路大震災など社会的事件が多発し、活動自粛。2000年、インフォーメンション・センターとして活動を継続、インターネットの世界が広がり情報ネットワークを通じて、より活動が濃密になった。2011/03 東日本大震災にて被災したが、全国からの援助を受け、瞑想センター基盤を整備することができた。 2020年、コロナ・パンデミック禍において、瞑想センターの意義が必要性が再評価されつつある。スピリチュアリティ研究などが専門の教育学者・中川吉晴氏などによれば、Oshoはいまや霊性の師として高く評価されるに至っている。
原稿
私がプーナに辿り着いたのは1977年11月、星川淳主催するツアーでだった。日本列島のヒッチハイクは何度か繰り返していたが、初めての海外旅行のインドは、驚きの一言だった。ましてやOSHOアシュアムは、聞きしに勝る驚きの連続だった。自分でも信じられないが、私は一番最初にアシュラムの門をくぐったとき、肩に三脚をつけた一眼レフカメラを担いでいたのである。そして、最初に結論を書いておこう。結局私は、一枚も写真を撮ることが出来なかったのである。
禁じられた訳でもないし、カメラが故障した訳でもない。私は自分で、この風景を、レンズ越しではなく、自分の網膜に、直かに焼き付けよう、と思った。どうしてそう思ったのか。おそらくカメラマンには強烈なカメラマンマインドが必要なのである。ここでシャッターを押すぞ、という強烈な意志が必要なのである。私にはそれがなかった。私はカメラマンにはなりようがなかった。
後年、渡辺眸さんの一連の作品に触れて、その被写体の見事なシャッターチャンスに驚きながら、もっとも驚くのは、良くぞあそこでこうしてシャッターを押せるものだな、という、その意志についてである。少なくともあの灼熱の中、インドの求道者ばかりか、アメリカや西欧、日本やアジア、アフリカから押し寄せる、ヒッピーや団体旅行者、そして数々のエピソードや事件の中、ひたすらシャッターを押し続けることができるとしたら、それはそれ、そのような宿命を背負った苦行者のようなものではなかろうかと思う。
私は、2011年3月、東日本大震災という未曾有の大災害に遭遇した。幸い内陸部で堅牢な耐震構造ビルにいた私の被害は限定的だったが、沿岸部に展開された風景は、驚愕の連続であった。仕事を挟みながら、私は青森八戸港から車で被災地を南下した。海岸線、漁港、岬、漁村、自宅のある仙台から、追って結局、福島の原発の脇を通り過ぎて、茨城、千葉まで、下った。そしてまた、その実に稀な体験の中で、私は持っていたスマートフォンのカメラに画像を一枚も収めることができなかったのである。
プーナのアシュラムで、一番最初に体験した瞑想と、グループワークは、三日間に渡って「私は誰か」を問い続けるセラピーであった。自己紹介から始め、体験談、幼い時代の思い出、未来への希望などを語ることなど、ある意味半日もあればタネが尽きてしまう。三日間、この禅問答のような考案に直面した私が辿り着いたもの、それは俳人芭蕉の最後の一句と、自分とは、主人公(だけ)がいない一冊のアルバムのようなものなのだ、という、私なりのサトリであった。
幼児だった頃の記憶も結構ある。母がいて、父がいて、兄姉達がいる。ペットのポチがいて、消防車のオモチャがあって、家がある。川もあり、山もあるのに、記憶の中のアルバムには、私だけが写っていない。長じて友人たちがおり、クラブ活動があり、旅の風景がある。一つ一つの風景はハッキリしているのに、記憶の中では、私の顔だけがないのである。いやいや違う。本当の答えは、外界はどう変化しようと、私という意識は、幼くもなく、大きくなるわけでも、老いるわけでもなく、ただそこにいるということである。
こうして改めて我らがカメラウーマンの業績に触れる時、私はまたまた不思議な感慨に襲われる。その風景に私は写っていない。決して親しい誰かが笑いかけてくれているわけじゃない。全体でもなく、部分でもない。そしてその風景が、まったく見知らぬものでもなく、懐かしさも感じながら、私は、そこに写っていない、私の意識というものが、呼び戻され、研ぎ澄まされて行く体験をするのである。そこに写っていない私が、はっきりとここに、いまいるのである。
解説
後年OSHOとして知られたインドの瞑想指導者バグワン・シュリ・ラジニーシは、その独特な瞑想法で世界中の若者たちを虜にした。特に60年代、70年代のカウンターカルチャーの変遷とともに、彼らはあらたなるムーブメントを求めて旅を始め、デカン高原にあったラジニーシ・アシュラムは、地球上の大きなスピリチュアル実験場と化していった。
OSHOは世界中の瞑想法のエッセンスを取り入れ、スーフィー、禅、タントラ、老荘思想、ビパサナ、などに加え、現代的な心理療法の数々を実験的に融合し、若者たちは積極的にそのるつぼの中に参加していった。時に、伝統的立場からは批判され、時には、その反逆的な姿勢が高く評価された。
この写真群が切り取っているのは、後年、プーナ1時代と名づけられた、OSHOムーブメントの最も熱い、若者たちの精神性が沸騰していた時期である。80年代に本拠をアメリカに移し、さらに世界中を旅したあとに、再びたどり着いた、いわゆるプーナ2時代は、もうすこし落ち着いた方向性が見え始めていた。
70年代末のプーナ1の時代を記録した写真は世界的も少ない。ましてや日本のマスコミやジャーナリズムにおいては、極めて少なく、彼女の切り取った写真群は、圧倒的な驚きを持って迎えられた。心の時代や精神世界と名づけられた80年代、クリシュナムルティやグルジェフなどと並び称せられたOSHOだが、日本においては、むしろ、OSHOの講話録を通じて、彼らが紹介され、スピリチュアルな時代性が展開されていったのである。
こうした形で時代を切り開いた渡辺眸のワークは、長くOSHOに関わっている人々の間においても、決して広く知られているわけではない。瞑想の道にありつつ、シャッターを押し続けた彼女のアートは、極めて重要で、その時代の最も先進的な部分を切り取っていった。
め
盟友キコリ氏から、緊急の依頼が 舞い込んだ。必ずしも適任とも言えないし、依頼の背景がよく理解できていないが、まずは試みてみる。
ーーーーーーー
1975年を境に、当時の若者文化や対抗文化として括られていた国内のエネルギーは、海外へ、世界へ、と拡大する。その中でも特に大きな目的地はアメリカの西海岸であり、アジア、特にインドであった。この二大聖地は対極に位置するように見えて、実は深く一体化していたのである。その流れを渡辺眸の「め」は見事に捉えていた。心の時代、精神世界、というキャッチフレーズのもと、内面化して行く表現活動は記録や歴史としては必ずしも十分に残されることはなかった。そんな状況にあって、彼女は自らの心の旅の途上で、当時の貴重な風景を、一瞬一瞬を見事に切り取っていった。外界にも溶け込み、内面に拘泥し過ぎず、個を超えた、あの時間と空間を目撃し続けていたのである。その目は優しく、正確であり、また深さがあった。ドキュメンタリーとしての記録性と、一回性としてのリアリティ、一連の作品は、見るものに立体的な再現性をもたらす。そしてそれらは過ぎ去った風景でありながら、まだ見ぬ未来へのビジョンにすらなっている。
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2023/07/16
3択
1)寝苦しくて目が覚めた。あまり熱くは感じていなかったが、室温は30を超えていた。だんだん暑さに体が慣れて行くのか、麻痺して行くのか。目が覚めたついでに、またまた3択問題に戻る。20EX vs MX5ND vs 60X。現在では正解がでない問題である。されど、当面はこの問題に悩まされ続けることとなる。
2)パッと目には、MX5が正解。一番の理想。あの軽量感がたまらない。されど、その反面、全てを積み込めない問題を抱える。積み残したものを、2台持ちでカバーしなくてはならない。ファミリードライブ、リクライニングシート、駐車場問題。乗り降りの不自由さは乗り込み済み。でも欲しいなぁ。いいなぁ。オープン最高。
3)そこに登場したのは、60X。いいんじゃない。これが正解だろう。問題は、オープンじゃないこと。頭をぶつけること。納期はまぁともかくとして、まだ世情が一定しないこと。もう少し模様眺めが必要だ。ナビは別段高級なものは要らない。ビジネスユースだと割りきれば、スマホコネクトで何ら不自由ない。そうすれば価格的には、MX5 vs 60x 比較はほぼ対等となる。
4)一人で盛り上がったところで庭に降りて我が20EXを見る。これもいいなぁ、素直にかっこいいと思う。好きだなこの車。一番いいところは、完済しているところ。燃費も悪くない。故障も少ない。我が用途にはピッタリだ。多少は古くはなったし、キスマークも増えた。だが税金も安めだし、人生最後の車でも、悪くない。
5)だがしかし、これからのカーライフを考えると、あと10年なんてのは、無理だろう。いつまで乗れるかは神のみぞ知るだが、せめてあと10年は乗る。最長で、あと25年は行く可能性がある。あと1〜2台は必要だろう。微妙なタイミングだ。飽きも来るし、体調の変化もある。当然経済状況も。家族の意見も尊重しておかないといけない。
6)今朝のところの結論は、当面20温存、模様眺め。まもなくやってくる14年目突入の車検は通して、さてそれからが本番。サドンデスには、対応する。メインバッテリー交換20万万も悪くない。更に2年、4年と、車検を重ねることも、可能性としては残る。でもなぁ、ゾルバ・ザ・ブッダの教えもある。切り替える勇気も必要だ。
7)てなわけで、今朝も目が覚め、悩みは続く。ディラー営業マンはカローラのカタログを持ってくる。オリャやだよ。シエンタとかも嫌い。乗りたい車は他にない。座面を下げて、頭を引っ込めながら60ライフも悪くない。本当はサンルーフも欲しいが必須ではない。PHEVも目標ではあったが、ここは諦めよう。いやいやちょと待て、60ZPHEVを目指そうか。気は大きく持とうではないか。
2023/07/14
近況
1)相変わらず多忙である。ただし忙しいと言っても、心を亡くす程でもない。ほどほどにコントロール出来ている。それは今までのことで、最近はどうもスケジュールが重なる。使いやすい日は誰にとっても使いやすいのだ。だから各種団体等のスケジュールが重なる。どっちも出たいが、どっちを優先するか。二つくらいならまだしも、3つ、4つになると、考えてしまう。どこかでオーバーフローしている。
2)自治会の仕事を引き受けたことで、3年前に遠方の畑仕事を諦めた。やりたかったけれど、もともと無理だったのだ、と理解する。畑は近ばにあってこそ意義がある。断りきれなかった自治会も、やってここ10年だろう。適齢期というものがある。成果も上がってきている。やることはいっぱいある。だがやり過ぎは禁物。そもそもボランティアである。自分の日常、仕事が成立した上での甲斐性である。
3)では、自分の日常、仕事とは何か。まず、3つに絞るとすると、まずは換金作業である代理店業務。これは経済的に生活を支えてくれる大きな柱である。現在、私は年金だけでは暮らせない(はず)。これを失ってしまえば、それはそれでなんとかなるのだろうが、そういう想定はしたことがない。生涯現役のつもりである。せめてあと5年、できれば10年、やれる範囲で活動できれば嬉しい。これは、日常の大きな中心である。
4)二つ目は、家族生活。妻がいて、子供たちがいて、孫や、近隣の人々、遠い親戚などが絡んでくる。四年前に母を98でおくったあとは、特に大きな負担はなくなっているが、いつバランスが崩れないとも言えない。そもそもその可能性が高いのは、私自身だ。健康も気をつけなくてはならない。入れ歯の調整、耳垢の清掃、老眼の進化に合わせたメガネ調整。一つ一つが医者絡みだ。
5)三つ目は、瞑想。私はOSHOが大好きなのであり、こここそが私の人生の主目的と言っていい。素晴楽堂把不住沙門、である。と言いつつ、結局は早朝の1時間の瞑想以外に、決まってやるべきことは少ない。月二回の坐禅会は、私に生活に良いリズムを作ってくれている。年末の成道会大接心も楽しみである。読書も大切だとは思うが、近年、目も悪くなったせいか、なかなか進まない。まぁ、この三つがまずはうまく回ってくれることが基本である。
6)畑仕事は余計だが、楽しい。自然に触れる貴重な機会だ。自転車で10分のところに5坪ほどの畑を借りている。自治会活動もちょっと余計だが、全く退会というわけもいかず、程よい距離感で付き合って行く必要がある。家族、家庭の延長と考えれば、無理なくやっていけなくもない。ふるさとガイドや民俗資料館のお手伝いも、良いボケ防止にはなる。文化会館のレセプショニストも、忙しくはないし、少々小遣いが入る。こどもミュージカルとのコラボは、かなり余計だが、年末の公演までは付き合わずにはいられないだろう。
7)とまぁ、これらに付随するさまざまな出来事が派生し、目が回って卒倒するほどではないにせよ、そろそろセーブする必要を感じる。ロードスターにも、新型プリウスにも乗りたい気分はあるが、現状20プリウスで我慢しているように、どこか身の丈にあった生活にもどる必要を感じる。永平寺にも行きたいし(若い時に行ったし)、福井恐竜博物館にも行きたいし、沖縄にも、今のプーナにも行きたいが、まぁまぁ、この辺がちょうどいい諦めどき、と観念することも必要であろう。
2023/07/07
戦争、って何?
1)新しく担当になった女性新人さんと話していて、フロッピーって何ですか、という質問が出た。来たぞー、と思った。USBみたいなモノですか、なるほど〜。傍にいた、10歳くらいに女性上役が、そう、そういうモノがあったのよ、とフォローする。知らないなら見せてあげましょう、と我が事務所ではまだ現役のフロッピーディスクを見せてあげる。へー、そういうモノがあったんですね、感激される。3.11の時はまだ小学5年生だったという。無理もない。
2)では、と、上役女性に聞いてみる。じゃぁ、どうしてフロッピーと言うんでしょう? え?と怪訝そう。3.5インチの前は、5インチフロッピーというのがあったんだよ? へー・・・・。やっぱり知らなそう。5インチの時は、ペナペナしていて、柔らかい、という意味でフロッピーと名付けられたんだよ。説明しながら、俺ももう古いな〜と、なんだか、悲しくなった。私は今や、こういう女性たちに、デジタルやらペーパーレスやら、オンラインやらの教育を受けているのである。
3)ずっと昔、星新一かブラッドベリか、誰かのSF小説を読んだことがある。ある家庭のお母さんが急病で緊急入院してしまった。どうやら最近では非常に珍しい症状で、原因不明という。家で待つ子供たちは不安な一夜を過ごす。しかし、翌朝、お母さんは元気な姿で帰ってきた。よかった。あまりにも珍しい病気で、治療も分からなかったが、ようやく原因がわかったという。その病気とは、風邪だった。ここ何十年もなかった病気だったのだ。
4)未来において、忘れられてしまうことは、たくさんあるだろうな。ねぇねぇお母さん、戦争、って何? と問いかける時代が、いつかやってくるんではないだろうか。え、どうしてたたかうの? どうして人間同士が殺し合うの? それって楽しいの? いや、楽しくはないよ、つまらないから、ずっとずっと昔に、みんながいっぺんに気づいたから、もうそんな事は、誰もしないよ。ずっと昔はあったかもしれないが、今はもうない。あ〜よかった。人間て、昔そんなことをしていたことがあったんだね。
2023/07/06
2023/07/05
2023/07/04
猫背
1)人生大事なことは、という話題になったら、私はまず、健康、という。自分の健康、家族の健康。日日元気で、何事かに取り込むことの気力の源泉、それが健康だ。自分であっても、家族であっても、身近なだれかであっても、やっぱり健康は一番だ。
2)そして2番目は、和、仲の良いことだ。ともすれば、私たちはすぐ喧嘩する。自分が正しいと思う。相手を正してやろうと思う。そこに喧嘩が起きる。自分が欲しいものは、多少争っても自分のものにしたい。その欲を、お互いどのようにコントロールするかだ。
3)ならば、3つ目は、なんだろう。意外とこれがすぐ出てこない。よく福禄寿という。福は仲の良いことであろう。寿とは元気で長生きのことであろう。とすれば、禄は、仕事と捉えることができるだろうか。生活費を稼ぐことであり、日々に張り合いをもたらす趣味であり、わずかでも他者の役に立とうとするボランティア精神のことであろうか。
4)とすると、自分は、まずまず、この福禄寿のスケールの上に立って、自らを測ってみることができるかもしれないと思う。福は、どうだ。まぁ、家族にも見捨てられず、なんとかえ支え合って生きている。孫もいる。友人もある。隣人とも、なんとか挨拶できるくらいの人は、何家族かある。
5)健康も、まぁまぁ BMI上の常備薬は必要だが、今のところ、大崩れしないで済んでいる。もちろんこれらは水ものだ。風邪を引いたり、夫婦喧嘩が勃発したり、仕事上の失敗をしたりする。そんな時は、終局が近づいたように感じる。ガックリくる。しかしながら、翌日になったり、翌週になったりすれば、なんとか修復の傾向が見えてくる。ありがたいことだ。なんとかこれで当面やれそうかな、と思い直す。
6)それでもやっぱり、老いは訪れる。思いがけずに写っていた我が身の背中が、自分で思っているより、はるかに猫背になっている。自分では若いつもりでも、その姿は、年相応の姿だ。誰がみたって、決して若者や壮年の姿ではない。無理はできない。分相応の福禄寿のスケールの上で、我が身を見つめ、日々毎日を生きて行く。
7)健康、平和、仕事。この三本柱が、まずは人生上の、大事なことだろうな。そう思う。
2023/07/03
プロジェクト70
1)プロジェクト567において、14年間放置されてきてしまったのが、車🚗ではないだろうか。
2)レセプショニスト、子供ミュージカル、自治会活動、瞑想センター、ふるさとガイド、民族資料館、坐禅、古木保存、iOSHO 、FP稼業、ランダムにメモするだけでも、これらの姿が浮かび上がってくる。それぞれは相互に関連しているのであり、抜きがたい存在感を示している。
3)この中でも、根幹を占めているのがFP活動であり、究極は瞑想センターへの道のりである。そして、やや義務化しているのは古木保存だ。他のテーマは、自治会活動も含め、オプションとしてON_OFFは可能である。あるいは可能であるはずである。
4)それらを繋ぐものとして、20では、不足か? いや、そうではあるまい。むしろ似合っているとさえ言える。30、40、50、では食指は動かない。60に来て、初めて心が動いた。さてどうするか。資料を持ち出して眺めてみる限り、60は、現在、あまりにリスクが大きい。今は、潜在化させるべきではない。
5)プロジェクト70は、プロジェクト翁、とも名付けるべき動きである。そこまで至る道と考えるなら、一つ一つは抜き難い重要な要素にもみえてくる。さて、どうするか。バランスが必要となる。なんのバランスか。ゼロへのプロセスである。
6)おそらく、これらの活動は、いずれ終息へと向かうだろう。破天荒に拡大し続けて行くことはないだろう。今年は、文学館におけるイベントも待ち構えている。ある意味、積極的に、終止符を打つタイミングを見計らって行く必要がある。
7)鎮まれ、我が魂よ。今ここに。
2023/07/02
プロジェクト567とは?
1)>プロジェクト567は56歳と7ヶ月、を意味しているわけだが、58歳の誕生日を迎えた我が身は、そのプロジェクトをすでに1年と5ヶ月の間、黙々と突き進んで来てしまったことになる。そのベースにエコビレッジを置き、トップに3.11を掲げ、中心には孫たちを置いた。そして、ハイブリッド車や図書館、スマホやホワイトターラー像を、それぞれの位置に配置した。
2)あのプロジェクトは、14年経過して、どうなっただろう。エコビレッジは、結局、市民農園と自治会活動に。3.11はコロナパンデミックに置き換わった。孫たちは五人に増え、20プリウスは13年目を迎えロードスターに脅かされ、図書館は読書ブログ5000冊超で終了し、スマホは当然となり、タブレットや大型テレビの動画となった。ホワイトターラーは、iOshoに進化した。
3)つまり、現在の生活は、孫たちの生活を中心として、wifi動画にまみれ、20プリウスで送迎を繰り返し、ジジイは自治会活動で忙しく、畑を耕したり、瞑想したり。
4)まとめよう。一体これはなんだ? 太陽光パネルは10年を迎え、すでに減価償却した。ごくごく普通の一般生活になっているということではないか。良いか悪いかは、とりあえずここでは判断しない。つまりだな、すでにプロジェクト567は終わっている。当然だが。
5)ここから3つまとめよう。一つは家族であり、一つは瞑想であり、一つは、車である。車は、家族生活に置いて、趣味において、仕事において、中心位置にある。決して無視はできないテーマである。あとは省略できるはずである。省略していかなければならない。
6)こうしてみると、結局リニューアルされていないのは車だけではないか。やっぱり車欲しいなぁ🚗。
7)そして今、新たなる、プロジェクト70、とも名付けるべき何事かがスタートし始めているのではないか。
2023/07/01
① vs ② vs ③
1)①20プリウス、②ロードスター、③新型プリウス、という3択がある場合、何が正しい解なのか。簡単には出てこない。②は長いこと選択肢として存在しながら、現実化しないのは、それなりに重大な欠陥があるからである。
2)ここに新たに③という魅惑的な選択肢が登場したとしても、それはそれなりに、超えられない深い河がある。そして①は①なりに存在感を示しつつ、次第にじかんとともにれっかし、その存在基盤をよわめつるある。
3)まず②対③の場合、いずれが魅力的なのか、にわかには判断をつけにくい。一長一短、単純には比較できない。並べることができるとすれば、初期投資的コストである。無理無理並べることはできる。そして、自分としては合格ラインを超えていると思う。
4)では、機能的にはどうか。実用性では③。趣味性では②。とは言いつつ、両者とも、曖昧である。可もなく不可もなく、というところが正解だ。少なくともベストではない。
5)比して①は盤石な構えである。実用性は半端ない。コスト的にはこれ以上低くは抑えられない。ただ趣味的には、イマイチである。それにいつサドンデスがくるかわからない、というリスクを抱えている。
6)まず、単独②はあり得ない。現実性はかなり薄い。であるが故に趣味性はピカイチである。折衷案としては③はあり得る。①がサドンデスならまず③が来るだろう。しかし、納期が対応しない。即納できないのである。
7)結論として、①が罷り通ることになる。趣味性をふみころし、サドンデスのリスクに怯えつつ、コスパも考慮すると、①しか残らないことになる。本命①、対抗③、穴②、という結論を抱えて、今日も寝る。
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