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2023/05/27

瞑想する人の食事

https://www.osho.com/ja/read/featured-articles/body-dharma/meditators-diet?fbclid=IwAR05_QoyUDd_HvVvE9i8FKMLNHGEpFPVRrU8JTtMBkmx7FHdaXCpDdpnJ4k

 

瞑想する人の食事





 人間はその食事が予測できない唯一の種だ。他のすべての動物の食事は一定している。彼らの基本的な肉体的要求と彼らの本質が、何を食べなければならないのか、そして何を食べてはいけないのかを決める――どれくらい食べなければいけないのか、どれくらい食べてはいけないのか、いつ食べるべきで、いつ食べるのをやめるべきなのか。だが、人間はまったく予測がつかない。まったく一定していない。何を食べるべきかを彼の本質が教えることもなければ、どれだけ食べなければならないかを彼の気づきが教えることもないし、いつ食べるのをやめるべきかを彼の理解が教えることもない。

 人間のこれらの質のどれひとつとして予測がつかないために、人間の生はどこかひじょうに不安定な方向に入り込んでしまった。だが、少しでも理解があれば――人間が少しでも知性をもって、少しでも思慮深さをもって、少しでも目を開いて生き始めたら――そのときは正しい食事に変えることは少しもむずかしくない。ひじょうに簡単だ。これ以上簡単なものは他にない。正しい食事を理解するために、私たちはそれをふたつの部分に分けることができる。

 第一のこと――人間は何を食べるべきで、何を食べるべきではないのか?

 人間の体は化学元素でできている。体の全プロセスがひじょうに化学的だ。もし人間にアルコールを入れたら、その体は化学作用によって影響を受けるだろう――酔ってしまう、無意識になる。その人がいかに健康であろうと、いかに穏やかであろうと、酔いの化学作用が彼の体に影響を及ぼす。いかに聖人のような人であろうとも、もし毒を盛られたら、死んでしまう。

 人間をどのような種類であろうと無意識へと、どのような種類であろうと興奮へと、どのような種類であろうと極端へと、どのような種類であろうと動揺へと入り込ませる食べ物は有害だ。そして、もっとも深い、究極の害は、これらがへそに届き始めたときだ。

 おそらくあなたは気づいていないかもしれないが、世界中の自然療法では体を癒すために泥パック、菜食、あっさりした食べ物、水に浸した布きれ、そして入浴が使われている。だが、どの自然療法も、水に浸した布きれ、泥パック、あるいは入浴の体への効果がそれだけあるのは、それらの特質のせいではなく、それらがへそのセンターにどう影響するかにあるという点をまだ理解していない。そして、へそのセンターは、次に体の他の部分に影響を及ぼす。これらすべてのこと――泥、水、入浴――は、へそのセンターで眠っているエネルギーに影響を及ぼし、このエネルギーが立ち上がったとき、その人の生に健康が生じ始める。

 だが、自然療法はまだこれに気づいていない。自然療法は、これらの有益な効果は泥パックや入浴や腹の上の濡れた布きれから来ているのだろうと思っている! それらには確かに利点がある。だが、ほんとうの利点は、へそのセンターで眠っているエネルギーが目覚めたことから来ている。

 もし、へそのセンターが酷使されたら、間違った食事、間違った食べ物が使われたら、そのときはゆっくり、ゆっくりと、へそのセンターは活発さを失い、そのエネルギーは弱くなっていく。ゆっくり、ゆっくりと、そのセンターは眠りについてしまう。ついには、ほとんど眠ってしまう。そうなったら、私たちは何らかのセンターとしてそれに気づくことすらない。

 そうなったら、私たちはふたつのセンターにしか気づかない。ひとつは、思考が絶えず動いている脳、そしてもうひとつは、感情が動いている、少しだけハートの部分だ。これより深いところとは、私たちはどのようなものともまったく接触がない。だから、食べ物はあっさりしていればいるほど、体を重くすることがなく、あなたの内面の旅の始まりにとって、より貴重で意義のあるものになる。

 正しい食事にとって、覚えておく最初のことは、それが興奮を生み出してはならない、酔わせるものではあってはならない、もたれるものであってはならないということだ。正しく食べた後に、重さと眠気を感じてはならない。だが、おそらく、私たちはみな、食事の後で重さと眠気を感じるだろう――そうだとしたら、私たちは間違った食べ方をしているのだと知るべきだ。

 充分な食事が摂れないので病気になる人もいれば、食事を摂り過ぎて病気になる人もいる。餓死する人もいれば、過食で死ぬ人もいる。そして、過食で死ぬ人の数は、餓死する人よりこれまでつねに多かった。餓死する人はひじょうに少ない。たとえ飢えたままでいたくても、少なくとも3か月は死ぬことはあり得ない。どんな人でも、食べ物なしで3か月は生きられる。だが、3か月間食べ過ぎたら、生存の可能性はない。

 食べ物への私たちの間違った姿勢は、私たちにとって危険なものになりつつある。それには大きな犠牲が伴うことがわかってきた。それは私たちを、なんとか生き延びているだけという地点に連れてきた。私たちの食べ物は、私たちの中に健康を生み出すようには思えない。病気を生み出すように思える。食べ物が私たちを病気にさせ始めるとは、驚くべき状況だ。それは、まるで朝に昇る太陽が暗闇を生むようなものだ。これは起こるにしては、同じように驚くべきで奇妙なことだろう。だが、世界の医師たちはみな、人間の病気のほとんどは人間の間違った食事に原因があるという意見をもっている。

 だから、第一のことは、ひとりひとりが自分の食事にしっかりと気づき、意識していなければならないということだ。そして、私はこれを、とくに瞑想する人のために言っている。瞑想する人にとって、自分は何を食べるのか、どれくらい食べるのか、そして自分の体へのその影響はどうなのかということに絶えず気づいていることが必要だ。もし人が数か月間、気づきをもって試してみれば、どれが自分にとって正しい食べ物なのか、どの食べ物が自分に静けさ、安らぎ、そして健康をもたらしてくれるのかが確実にわかるだろう。現実的なむずかしさは何もないが、私たちが食べ物にまったく注意を払わないために、私たちは正しい食べ物をけっして見つけることができないのだ。
 

Osho, The Inner JourneyTalk #3 

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