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2022/09/07

思ったこと

 

 

 

 

1)縁あって、この動画をもう一度、見た。貴重な記録であり、存在の詩が、OSHO、とりわけ日本の読者やサニヤシンにとっては、意義深い一冊であることは間違いない。対談者お二人とも、現代日本の精神世界においては、極めて特徴ある活動をされている方達である、という認識は間違いではないだろう。その上で、あえてアトランダムで断片的な印象だが、いつわざる感想をメモしておく。

2)そもそもOSHOは絶妙なバランスで、宗教や組織を否定、宗教性や組織性と言った、微妙な存在様式を生き切った。だから、評価する立場においては、全くの真逆の評価があったりするわけで、それもOSHO自身、読み込み済みである、と推測できることが多い。

3)さて、回りくどい話はこのくらいにして、ズバリ言って、どうも納得できない部分が数々あるので、未整理のままメモしておく。まず、OSHOは徹底的に組織を阻止したので、いずれ疑似組織は解体される運命にあった。特別な後継者など存在せず、全ては一人一人に任された、と言っていい。ウロウロしていれば、プラブッダやシャンタンなど、目立った活動をしていれば、外から見れば、高弟とか幹部とか、表現されそうになる立場にあった。しかし、そうはならなかったし、そうはしなかった。

4)プラブッタは自らを、信者ではなく弟子であり、破門された弟子、という文脈に置いているようである。基本、OSHOには信者という概念はなく、そのような表現は正しくない。弟子という存在も、よくよく読み込んでみれば、すべての弟子は「破門」される運命にある。メタファーだ。固定的に、それぞれの存在を規定することは避けた方がいい。

5)その上で思うのは、彼は破門されたのではない、ということ。おそらくOSHOの文脈において、破門という概念はない。そのような表現をするのは、この人特有の美学である。この単語は、大ぴらには語られていないだろうが、個人的にはそのような表現を、個人的に受け取っている。

6)破門の前に、弟子側からの拒絶があっただろう。70年代における吉福某らの雑音が既に発生しているし、80年代においてはグルイズムとやらの造語と共に、OSHOに対する違和感の表現は、その立場から考えて、一線を越えていた、と考えられる。原因はいろいろある。弟子と言われるその存在形式。そもそも弟子というもののマスター側からの否定。宗教性、というものの本質。

7)今日こそ書こうと思っていたのに、この程度で止まるようだ。いずれ書く。藤田一照氏とやらについては、すぐそばを歩いているようでいて、はるかな距離を感じる。好人物に感じてはいるのだが。

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