こころの時代 歎異抄にであう 第4回 他力を選ぶ
No4819 星3
1)いつかは親鸞にどっぷり浸かりたい、と思ったことがある。しっかりがっぷり四つに取り組む時が来るかもしれない、と思ったこともある。
2)されど、それはかなり穿った話で、それは、自ら探究するという問題ではなさそうだ。そういう機縁があるかどうか、もうそこを避けては生きていけないどうか、という人生場面に出会わなければ、それは可能ではなかろう。
3)私の親鸞に対する関心は、知に偏り過ぎているきらいがある。こういう言い方が正しいかどうかわからないが、道元が言うところの自力を正しいと感じるならば、それだけで完成しているのであって、あちこちキョロキョロ見る必要はないのである。そこに浸り、成り切れば、それでおわりなのだ。にもかかわらず、親鸞いうところの他力が気になるとするならば、それは何かの具体的な機縁が必要となるだろう。
4)他力本願の念仏に機縁を持って、生ききっている方がおられるとすれば、そのことにとかく関わる必要はないのであろう。
5)ただ、耳に念仏が聞こえてくるような、日常具体があればこそ、思いがそちらにいくのであって、その流れが神学的な整合性ではなく、具象的な出会いがあるはずなのである。
6)私はOSHOの門弟であって、サンニヤシンであって、瞑想をこととする人間であり、具体的には道元という方を好ましいと思っている人間である。その私が親鸞という方にこころ引かれるとすれば、それはそれ、何かきっと何かの機縁があるのだろう。
7)それが何かは、本当のところは、今は全くわかっていない。
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