ダダカン氏 逝去 101歳
1)https://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200608180000/
2)http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/1973-sanpo-peop.html
3)ダダカンこと糸井寛ニ氏が亡くなった。101歳。ご冥福をお祈りいたします。
4)当ブログとして.氏に触れているのは大きくは上の記事二つだが、いま読み返してみると、ちょっとボカし過ぎだな、と思うので、少々追記しておく。
5)1973年の夏頃、当時の私たちは、宮城県県庁前の勾当台公園に付帯してある野外ステージで、「雀の森の音楽会」を開催していた。もちろんシロートばかりの、いささか垢抜けないイベントではあったが、メンバーの一人、れおん君がギターを持って演奏中に、黒いコートを着て傘を持った若い男性が、ステージに上がってきて、なにかを騒ぎ始めた。
6)危険を感じた私は、裏方として飛び出し、規制した。その時、肉体の接触があったかもしれない。殴るとか、ハガイジメにするとか。細かいことは忘れたが、その時の若い男性が、Kと記してある金田一氏である。下の名前は知らない。岩手県出身であることは聞いたが、高名な言語学者の親戚かどうかなどの話題もあったが、確かなことは知らない。当時20代中ごろ。現在なら70数歳であろう。
7)彼はその時の私たちの対応に不服ということで、後日、抗議的主張を持って、当時の旭ヶ丘にあった私たちの共同生活の場である「雀の森」にやってきた。この時対応したのは私一人。経緯は忘れたが、印象深く覚えている事が二点ある。
8)まず一点は、やはり黒コートを着て長い蝙蝠傘をステッキがわりに部屋の中まで持ってきて、その先端を、お互いが座っている畳に、垂直に突き刺したことである。1973年当時、時代はまだまだ不穏当な空気の流れている時代ではあったが、このような振る舞いは稀であった。つまり、私はこの男は、何をするかわからない、暴力的な男だな、と身構えた。当時私は20歳くらい。
9)ややあって、数日後、私は彼から招待される形で、彼の住まいを訪れる形になった。確かあれは仙台駅の南東方向、新寺小路とか、荒町方面であっただろう。頑丈な鉄筋の数階建、古い廃業した病院跡だった。彼の部屋はそれなりに大きく、しかし、病院跡特有の、なんとも言えない、匂いとも、妖気ともいえないものを感じた。
10)もう50年前のことなので、正確ではないし、万が一、記憶間違いであったら、関係者には、ごめんなさいm(__)m。ただ、私がここで記しておきたいのは、この青年に対し、私は畏怖の念、恐怖の念を持つと共に、不思議な磁力のような、魅力を感じたのである。でなければ、わざわざ彼の住まいまで訪ねては行かなかっただろうし、今日まで記憶しているはずがない。
11)二つ目の記憶とはそのことである。彼は演劇青年で、その集まりを「贋造人間研究所」と称する、と自称した。私は、そのような印刷物を見たことないので、実在したのか、この表現はこの漢字でいいのかどうか、確かめようがない。ただ、その集まりは、どうやらある人物に関わりがあり、その人物とはダダカンと称する糸井貫ニ氏のことだったのだ。金田一青年は、ダダカンを師と仰いでいた。
12)青年によれば、ダダカンは、初対面の人とは必ず素っ裸で会うという。なんと摩訶不思議なことであったが、これは、それから20数年後に、彼を訪問した際に、私たちも体験することになった。
13)そして、金田一青年の自室で拝見したものは、一つの小さなダダカンの作品だった。小さな一本のタバコである。当時は、シンセイとかピースとか、ゴールデンバットとかの、フィルターのついていない、両切りのタバコが主流であった。そのタバコも両切りであった。ただ、異様な雰囲気に包まれていたのは、そのタバコは、細く裁断された一万円札で美しく巻かれていたことだった。小学生の悪戯のようなものではない。キチッとした精緻な作品である。当時では一万円札は、現在の10倍も価値があったはず。持ち慣れない一万円札という存在にも惹かれるが、その紙幣が、タバコとして、数分のうちにケムリになってしまう、という連想に身震いした。
14)もちろん、貨幣を改ざんするなど、ややもすれば罪に問われる行いである。常人はそんなことはしない。あるいはできない。高卒の当時の私の月給は3万数千円であった。度肝を抜かれた私は、不思議な魅力に惹かれつつも、この人物達や、グループには、決して容易には近づいてはならないのだと、判断した。
15)長くなるが、ついでだから、1989年当時のことを書いておく。世は中国天安門事件が勃発する寸前の時代。私は一人の、霊能者との噂があった諸口正輝氏の車に乗っていた。私の自宅から、名取川を越えて、市内を横切りつつ、県北部の東和町の彼が所有している農場に向かう予定であった。諸口氏の車は、建築の現場や、農作業に使うこともあり、決してピカピカの新車というわけにはいかなかった。どうかすると。エンコしたり、ハンドル捌きによってはまっすぐ走らなかったりする。表現が不味かったりしたら、ごめんなさいm(__)m。
16)今の太子堂駅付近は、当時は現在とはかなり違った風景だった。国鉄の貨物列車操作場があり、長い長い跨線橋があった。当時から周辺は太子堂とよばれていたが、その太子堂という施設は付近には見当たらなかった。そのかわり、ここから仙台、と言わんばかりに、大きな数十メートルもあるようなコケシのモニュメントがあった。
17)北に向かっていたはずの諸口氏の車が、突然、西に左折した。埼玉県人の氏は仙台の地理には詳しくはない。ましてや当時は便利なナビシステムなどない。だからこそ地元の私が道案内していたわけだが、私はそのような指示は出していなかった。おや? 諸口氏は、すぐに自分の運転の異常さに気がついた。ははん、私のクルマでは、たまにこんなことが起きるんだよね。と言いつつ、氏はバックすることもなく、半径500メートルぐらいの道のりを、「の」の字のように回転して元の位置に戻り、目的のコースを走りなおしながら、そして言った。今、回転してきた中に、すごい人がいる。後で調べてみるといいよ。
18)諸口氏の言説には普段から、私たち無能人にしてみれば、やや不思議なことが織り込まれており、そのことだけを記憶したわけじゃないが、やたらとその言葉が引っかかった。その結果が、上の記事のどこかに書いてあることと繋がってくるのには、さらに10年の歳月がかかった。
19)2004年当時、だから、ダダカン氏は84歳。自宅を訪問した際、いくつかの断片が記憶に残っているので、記しておく。氏はそもそも東京の大きな企業の役員の父親の元に生まれた。現在までの彼の仙台の居宅はこの父親がダダカンのために建ててくれたものだという。青年時代、つまり戦争時代かその前には、ダダカンは徒手体操の選手であったという。非常に身が軽かったので、国体の選手に選ばれて出場したのだとか。彼が後にストリーキングなどのパフォーマンスを編み出したのは、元々自分の肉体に自信があったからだと思う。金田一氏について、話題に出してみると、よく知っていて、雰囲気としては弟子の第一人者的な立場か?と思えた。訪問当時、京都に住んでいて、互いに音信はあるらしかった。
20)私たちも彼のパフォーマンスの洗礼を受けたわけだが、84歳にしてこの肉体美。そんじょそこらの常人はには思いもつけない、やろうとしてもできないアートである。それとここでまた不思議なことであるが、彼の住まいのどこを写してもいいよ、と言われてパチパチとったはずの私のカメラだったが、ミスショットばかりでまともに写っていなかったのだ。その中でかすかに残ったうちの一枚が、下↓の写真である。
21)氏は、瀬戸内寂聴氏や私の母親と同世代である。そういう意味でも、私の中では、不思議な親近感を持って縁をつくっていただいたと思う。未だに理解も共感も、何もできない私ではあるが、日本のハプニングアートの鼻祖と仰がれる存在が身近にいらっしゃったことに感謝します。鼻祖、と歌われる人を私はこの方しか知らないが、伝統の、全くの最初の最初、という意味らしい。
寒空や地球を突き刺すコケシ塔 把不住
ご冥福をお祈りいたします。合掌
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