『修羅ニモマケズ』 作 石川裕人 演出 宿利左紀子(演劇ユニット石川組)
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No.4581★★★★★
1)行けないかな、と、いったん諦めたが、間に合った。ニュートンも亡くなって9年か。9年? ほんと、あっという間だな。
2)ニュートンが遠い人にならず、なんだかいつもそばにいるような気がするのは、彼を愛する人々が、こうして、何回も、何年も、繰り返し彼の作品を、読み返し、論じ、演じてくれるからだ。
3)やっぱり、彼は、風の又三郎、だったな。9年間、同じ学校にいたのに、同じクラスになったのは、中学一年の一年間だけだった。1966年、6月にビートルズが日本にやってきた年。
4)小学校3年までは、全く知らなかったし、意識したことなどなかった。あの年、彼の担任は越前千恵子先生になった。新任の彼女はニュートンに、あなたはシナリオライターになるといいね、と吹き込んだのだ。彼はそこからギアチェンジしてスピードアップしたのだ。
5)お陰で、学芸会の劇の主役に選ばれていた私は、ニュートンに交代させられた。彼はごんぎつね、私は村の子供3に降格された。
6)同じクラスにならなかったし、家も学校から全く反対方向だったので、登下校も全く一緒にならなかった。彼はいつも友達たちに囲まれていたが、途中で、オオヤマ君という外科医の息子の部屋に立ち寄って、漫画本やらを読んだりしているという噂を聞いたことがあった。羨ましかったな。
7)中一の時は、肉筆雑誌「ボーイズファイター」を一緒に発行した。彼が主筆、私が編集長のような立場だった。
8)あの学年の三学期、卒業生たちを送り出す予餞会の時、僕たちは漫才コンビを組んで、クラス代表で演じたのだ。演目は「アルバイト」。なんと、あの時のシナリオは、私が書いたのだ。
9)あれから一緒に旅もしたし、共同生活もしたし、共同のミニコミ誌の編集にも没頭した。でも、あちこちに興味散漫な私に比べ、彼は演劇一筋だった。
10)今になって、残された彼のブログを読み返すと、色々な苦難の時代もあったようだが、演劇の魅力は彼を捉えて離さなかった。彼は、演劇人として、コツコツと自分の人生を積み上げていった。
11)友人の一人として生意気なことを言わせてもらえば、彼は不器用な男だった。もう少し、なんとかならんか、と私なら思うところだが、彼は彼の想いのまま、道なき道を歩み続けた。それが、生涯100本を超えるシナリオ集となり、演劇界のパイオニアの存在として、大成した。
12)ニュートン、元気でいるかな。死んだ男に、元気でいるかな、なんて、変な話だが、私には彼はやっぱり今でも元気だと思える。彼の作品に宿った命は、こうして彼を愛し、シナリオを再読し、ステージで再演し続ける人々の、心に、魂に、その身体に、今でも元気に受け継がれている。
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