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2021/05/03

1)訃報が続く。親戚の叔父さん、同級生の女性、Oshoの秘書を務めた人、翻訳者、歯科医、有名無名、有縁無縁、誰もがこの世を去る。

2)思えば、仮にこの世に80億の生があるとして、これから100年の間に確実に死を迎えるとするなら、1年間に平均8000万の生が死を迎えることになる。とすれば、1日に2~30万人が 亡くなるのである。つまり1時間に1万人。1分間に150人。1秒間に2~3人が、常に亡くなっていく計算になる。

3)死は決して珍しい現象ではない。実にありふれた日常の出来事だ。

4)一人の人間が80億の人間と付き合うことはない。フォロアーがなんぼ、などと、自らの影響力を誇示する向きもあるが、ひとりの人間の物語を司るのは、せいぜい2~300人の人間関係だろうと言われる。自分の年賀状の数を数えてみれば、私も同意する。

5)私は仕事柄、もらう年賀状よりは出す年賀状の方が多いが、それでも家族宛に出す年賀状ゆえ、カップルや家族との付き合いもあり、だいたい年賀状の数に匹敵する。少なくとも数万人との交際があるわけでもなく、数人、数十人に限定されているわけでもない。せいぜい2~300人だろう。

6)この数を、人生80年としてみると、1年間に重要な人間関係の2~3人は確実に減っていく計算になる。もちろん同年輩との付き合いが多ければ、まして高齢域に達しているとすれば、この比率は倍増する。

7)このように死に続ける生に向き合って日常を過ごす人々もいる。例えば、僧侶。彼らにとっては、日々は死との向き合いの連続であろう。火葬場に仕事を得ている人たちもそうであるに違いない。あるいは医療関係者。重症病棟なら、その比率は高まるだろう。

8)逆に、確かに死から目をそむけ続けることもできる。他者との付き合いを拒み、自らの生だけを見つめる。他者のことなんて、どうでもいい。とにかく自分のことだけで精一杯だ。この場合、おそらく80年の人生で死は一回しか直面しないのかも知れない。まれだが、そういう想定も成り立つ。

9)しかし、人は死からは逃れられない。死は必ず訪れるのである。絶対なのである。これ以外に絶対などというものは、ない。唯一絶対といえば、それは、私もまた死ぬ、ということなのだ。

10)死をどう捉えるか、などと哲学しても、死の実態に変化はない。あの人が亡くなって、亡くなる前と、亡くなった後で、世界がまるで変わってしまった、なんてことはない。何事もなかったように、人は風景の中に消えていく。私が亡くなっても、風景に変わりはないだろう。何事もなかったように、私もまた風景の中に消えていく。

11)訃報は訃報である。外からの知らせだ。他者の死だ。他者の死はいくつ重ねても他者の死だ。しかし、それに対し、絶対的に違った死がある。それが、自己の死だ。私が消えれば、風景もまた消える。そもそも風景は存在意義を失う。

12)内なるアラームが鳴り続ける。自らの死は、訃報として聞かれることはない。

 

   笹の音(ね)に聞き耳立てる田の蛙    把不住

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