
「禅問答と悟り」
鈴木 大拙 (著) 新版 2020/09 出版社 : 春秋社 単行本 : 248ページ 初版1990/10 新装版第一刷(2008/06)を読んだ
No.4487★★★★★
1)人間 → 精神世界 → 仏教 → 禅 → 問答 → とくるなら、その次は、→悟り、ということになる。であるなら、ここでDTスズキに問いただすことは、悟り、についてである。
2)薬山惟儼(やくさん・いげん「伝燈録」第14)というは唐代における巨匠である。或る日、院主の請いにまかせて上室した。p32(禅の問答)
3)馬祖道一はシナ禅宗史に一転機を劃した大人物である。その弟子に優位の人材が輩出したので、日本の禅も今日あるを得たといってよい。p39 同上
4)龐蘊(ほうおん「伝燈録」第8)は禅宗初期の大居士であった。シナの維摩である。p70 同上
5)などなど、一般的な予備知識は、もうDTから学ぶことは必要ないだろう。むしろ彼からは、悟りそのものを聞き出さなくてはならない。
6)この悟りというものがなくては、禅というものがないと言っていいのである。悟りは禅のアルファでありオメガであり、悟りのない禅は光と熱のない太陽のようなものである。p86「悟り」
7)悟りの研究をするには、投機の偈というものを見なくてはならぬ。投機の偈というものが悉くの悟りにともなっているということはない。或る人は投機の偈を少しも遺さずにいる。それからまた、投機の偈そのものも頗る多様なものであって一定の定規にははまらぬ。大体のところは、投機の偈は悟りのときの心持を叙述している。p126 同上
8)悟りは禅の中心なのであって、悟りなくては禅の禅たるをえないのである。p157 同上
9)龐居士(ほうこじ)の詩に空(くう)をうたったのがある。訳してみると、
老耄(おいぼれ)の時分には何ら求むるところはない、
空空(くうくう)としてすわるところもない、
部屋の中は空のまた空である、
空の空であるから家財道具など一つもない、
太陽が出ると空の中をあるきまわる、
太陽が入るとまた空の中に寝ころぶ、
空の中にすわり空の歌をうたっている、
うたう歌も空で、これと相和するものもまた空だ。
何もかもそらでは変だと思われもしようが、
空はみな仏のすわられる所だ、
世間の人は空を知らずにいる、
空はしかし宝貨である、
もし空なんていうものが無いものだ、
有るものではないというなら、
そんな人は仏からおとがめを蒙りますぞ。p177 同上
10)ティロパがナロパに与えた「マハムドラーの歌」とまではいかないか。
11)禅寺に入るからには、すぐれた指導者について禅の教示を受けることが大事なことであり、ただ禅寺へ飛び込めばそれでいいというようなわけのものではない。p225 解説
12)悟りといったものが固定的にあるもののように思うと奇怪なことになる。悟りは催眠術にかかったときのような心理状態をいうのではもとよりないのであり、確実な修行体験を通すことなしにはこの悟りは得られるものではない。悟りとは霊性的自覚であるといったらいいかもしれないのであり、仮眠状態にあるような無自覚なものではい。この自覚は自己の本性を徹見するということであり、真実の自己を知るということである。p229 同上
13)禅は悟りを見失っては全く無意味である。禅の結論は悟りである。しかし、この悟りがどんなものであるかを画のようなものにして示すわけにはいかない。p330 同上
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