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2021/03/25

seven-years-cycle

 

7年のサイクル

 

子どもが自然な可能性を妨げられることなく、成長することを助けるための正しい方法とはなんでしょうか?

 子どもを助けようとするあらゆるやり方が間違っている。助けるという考え方そのものが正しくない。子どもは助けではなくて、あなたの愛情を必要としている。子どもはあなたからの世話を、支えを必要としているが、助けは必要としていない。子どもの自然な可能性が分かってはいないのだから、その自然な可能性を正しく実現させるために彼を助けるという方法というものはない。目的地が分かっていないのに、助けることはできない。ただ邪魔をしないようにすることしかできない。ところが実際には、助けることを口実に、誰もが他人の邪魔をしている。だが、口実が美しいために、誰も反対しようとはしない。

 もちろん子どもはいたいけなく、あなたにすっかり依存しているから、反対することはできない。そしてあなたのまわりの人びとも似たり寄ったりだ――彼らもまたあなたが助けられたのと同じように、両親から助けられた。彼らは自分の自然な可能性を実現しなかったし、あなたもまた実現していない。

 全世界の人びとが両親の、親戚の、隣人の、教師の、聖職者の助けゆえに、とても大切なものを見失っている。じっさい、誰もがこの助けの重荷を背負っており、その重荷の下では……自然な可能性を実現することなど言うまでもなく、不自然な可能性さえ実現することはできない! 人は身動きすることさえできない。誰の肩にもヒマラヤのような重荷がのしかかっている。
 それに、邪魔をしないということは、いちばん難しいことのひとつだ。それは心の自然な性質ではない。心は基本的に、ひっきりなしに、絶え間なく、邪魔をしようという思いに駆られている。それは妨害を糧として生きている。妨害をすることができればできるほど、いっそうあなたは力強さを感じる。

 力はどうやって計られるのか? それは物質的なものではないから、それを計ることはできない――が、それを計り、大きさを計る方法はある。それを計る方法とは、どれだけ多くの人びとの人生をどれだけ妨げることができたかということだ。あなたはアドルフ・ヒトラーではないが、それでも何人かの人びとの人生を妨げることができる……小さな、ミニチュアのアドルフ・ヒトラーだ。
 あなたにできることは愛情深くなり、充分な世話をして、暖かく、受容的になることだ。子どもは未知の可能性を秘めているが、彼が何になるかをあらかじめ知ることはできない。だから「このようにして子どもを助けることができる」という手順を教えることはできない。また、子どもはひとりひとりユニークなのだから、あらゆる子どもに適用されうるような躾けなどというものはない。

 ジュディス・マーティンのような人びとは、あたかも子どもが工場の生産ラインからつくりだされるものであるかのように、あらゆる子どものための基準を提案している。子どもはひとりひとり異なっている。これがなされるべきだという一般化されたプログラムを、どうして提案できるのか? その神経を疑わざるをえない。
 この手の人物がこれまでに世界中の至るところに存在してきた。彼らは何が正しいのかについて、同時代人ばかりか、未来のすべての時代、あらゆる人のための処方、レシピ、躾けというものを提案してきた。彼らはじつに愚かしい――人びとに、宗教、規律、倫理、道徳、行動規範を与えた偉大なる立法者として、知られてはいるけれど。だが私は言いたい、これらの人びとは愚か者であると。愚かな人びとだけが人間についての一般的な通則を考え出すことができる。
 平均的な人間などというものはない。平均人というものに出会うことはない。ところがこの手の権威者たちは、存在してもいない平均的な人間を問題にしている! 平均的な人間は神のようなものだ――至るところに偏在しているが、どこにも見つけることはできない。あなたは子どもを助けるための正しい方法をたずねている。
 いっさい子どもを助けようとしないのが正しい方法だ。あなたにほんとうの勇気があるなら、どうか子どもを助けようとしないでほしい。彼を愛し、充分に彼の世話をするがいい。彼のしたいことをさせるがいい。彼の行きたいところに行かせるがいい。あなたの心は繰り返し邪魔をしたがるだろう、それも立派な口実でもって。心はじつに巧みに合理化をする――「邪魔をしないと危険かもしれない。止めなかったら、子どもは井戸に落ちるかもしれない」と。だが、私は言いたい、彼を助けてだめにしてしまうくらいなら、井戸に落ちたほうがましだと。
 子どもが井戸に落ちるなんてごくまれなことだ――それに落ちたとしても、それで死ぬわけではないだろう。助け出せばよいのだ。それにほんとうに心配しているのだったら、井戸には蓋をすればいい。だが、子どもを助けるべきではないし、子どもの邪魔をしてはならない。井戸は埋めてしまえばいいが、子どもの邪魔をすべきではない。
 あなたがほんとうに心配しなければならないのは、すべての危険を取り除く、ということだ。だが、子どもの妨害をしてはいけない。彼には自分の道を行かせなさい。

 あなたはある意義深い成長のパターンを理解しなければならない。生には7年周期の循環があって、地球が24時間で自転しているように、生は7年の周期で循環している。地球の自転が24時間であって、なぜ25時間ではないのか、なぜ23時間ではないのかという疑問には、誰も答えられない。それはただたんに事実だ。だからなぜ生が7年の周期で巡っているのかとたずねてはいけない。私は知らない。ひとつだけ言えるには、それは7年で循環しているということだ。そしてこの7年の循環を理解するなら、人間の成長について大きな理解を得ることができる。

 最初の7年間は、生命の基盤が形づくられるので、もっとも重要なものだ。あらゆる宗教が子どもたちをすぐさま自分の手の中に収めたがるのはそのためだ。ユダヤ教徒は子どもに割礼の儀式を施す。なんという馬鹿げたことだろう! だが、彼らは子どもにユダヤ教徒の烙印を押しているのだ。それは烙印を押すのと同じように原始的なやり方だ。私たちはいまでも家畜にそれをやっている。
 この7年間にあなたは条件づけをされ、あなたを生涯追いかけまわすことになる、あなたの目を自らの可能性からそむけさせることになる、あなたを堕落させることになる、あなたが明晰にものごとを見られなくなる、ありとあらゆるガラクタが詰め込まれることになる。それらはいつもまるで雲のように目の前にやって来て、あらゆるものを錯誤させてしまう。ものごとは明快であり、明白そのものだ――存在は完全に澄みきっている――が、あなたの目には何層もの塵が積もっている。
 そしてこれらの塵は、あなたが純真無垢な、すべてを信頼する、言われたことはなんでも真実と受け取ってしまう、人生の最初の7年間に集まっている。そして、基盤に入り込んでしまったものを後で見つけだすことは、ひじょうに難しい。それはほとんどあなたの血、骨、髄そのものの一部になってしまう。ほかの無数のことには疑問を抱いても、自らの信念の根本的な基盤には、けっして疑問の目を向けない。

 最初に子どもに与えられるべき愛とは、この最初の7年間、彼をまったく清浄無垢な、条件付けされない状態において、この7年間、彼を野生そのものの、異教徒のままにさせておくということだ。彼をヒンドゥー教や、イスラム教に改宗させるべきではない。誰であれ子どもを改宗させようとする者は慈悲深くはない。彼は無慈悲な心の持ち主だ。新しく到着した、初々しい魂そのものを汚している。質問を発する前から、すでに子どもは既存の哲学、教義、理念による答えを与えられてきた。これはじつに奇妙な情況だ。子どもは神についてたずねてもいないのに、あなたは彼に神について教えつづけている。どうしてそんなに性急になるのか? 待ちなさい!
 子どもがそのうち神について興味を示し、神についてたずねるようになったら、そのときあなたの神の概念だけを教えるのはよくない――なぜなら、誰にもどのような独占権もないからだ。彼にさまざまな時代、さまざまな宗教、文化、文明のなかで、さまざまな人びとに提示されてきたすべての神の概念を示して、このように言いなさい――「おまえはこれらのもののなかから、どれであれ気にいったものを選んでもいいんだよ。あるいはどれも気に入らなかったら、自分独自のものを考えだしてもいい。そのどれにも欠点があるように感じて、自分にはもっといい考えがあるというなら、そのときには自分なりのものを考えだせばいいんだ。あるいは落とし穴なしの考え方を編み出すことはできないと思ったら、すべてをほうり出してしまってもかまわないのだ。どうしても、というものではないのだからね。人間は神なしでも生きることはできるのだから」

 息子が父親の言うことを聞かねばならないという、内なる必然性はない。じつのところ、言うことを聞かないほうがよっぽどましではないか。進歩はそのようにして起こるものだ。子どもがみな父親の言うことを聞いていたら、進歩というものはない。そうなれば、父親もその父親の言うことを聞いていたのだから、誰もが神がアダムとイブをほうり出したときと同じように、裸で、エデンの園の門の外に立っていなければならない。みんなそこにいることになるだろう。息子が父親に、先祖たちに、そのすべての伝統に反旗をひるがえしたからこそ、人間は進歩してきた。この進歩なるものは、過去への絶対的な反逆にほかならない。知性的であればあるほど、あなたは言うことを聞かないだろう。だが、両親はよく言うことを聞く子どもを称賛する。聞き分けのない子どもは非難される。

 7歳まで、子どもが他人の考えによって汚染されることなく、無垢な状態に保たれたなら、彼の目を自らの育ちゆく可能性からそむけさせることはできなくなる。子どもの最初の7年間はもっとも貴重なものだ。だが、彼らは両親の、教師の、聖職者の手の中にある……。
 いかにして子どもたちを両親、教師、聖職者たちから救うかという問題は、あまりにも巨大すぎてその方法を見つけることはほとんど不可能と言っていい。問題は、いかにして子どもたちを助けるかということではない。もしあなたに子どもがいたら、彼をあなた自身から護りなさい。子どもに影響をあたえ得るような他者から護りなさい。少なくとも7歳までは、彼を護るがいい。子どもは小さな植物のようにか弱く、傷つきやすい。ちょっとした強い風でも倒れてしまうし、動物に食べられてしまうかもしれない。まわりに保護柵をつくるのはいいのだが、それは閉じ込めることではなくて、あなたはたんに護っているにすぎない。植物が大きくなったら、柵は取り除かれなければならない。
 子どもが自分自身でいることができるように、あらゆる影響から護るがいい――それもたった7年だけのことだ。なぜなら、そこで最初の円環が完結するからだ。7年もすれば、彼は充分にしっかりとして、地に根づき、たくましくなっている。あなたは7歳の子どもがどれだけ強いものかを知らないかもしれない。それは汚されなかった子どもを見たことがないから、駄目になった子どもしか見ていないからだ。彼らには父親や、母親や、家族から教えられた恐れが、臆病さがある。彼らはほんとうの自分ではない。

 子どもが7年間汚されなかったら……。あなたはそのような子どもに会ったら驚くことだろう。彼はまるで剣のように鋭い。彼の目は澄んでいるし、彼の洞察力は明晰だ。あなたは彼のなかにこの上もない強さを見るが、それは70歳の大人のなかにさえ見つからないものだ。なぜなら彼の基盤が確かなものではないからだ。

 あなたが子どもの親だったら、少なくとも邪魔をしないだけの勇気が必要だ。子どもが探ることができるように、未知の方向への扉を開け放っておきなさい。彼は自分が内になにを持っているのかを知らないし、それは誰にも分からない。彼は暗闇を手さぐりしなければならない。暗闇をおそれさせてはいけないし、失敗を恐れさせてはいけないし、未知なるものを恐れさせてはいけない。彼に援助を惜しまないこと。彼が未知の旅に出かけようとするのなら、あらゆる支援、すべての愛、すべての祝福と共に送りだすがいい。
 彼にあなたの恐れを伝染させてはいけない。あなたには恐れがあっても、それは自分のなかにとどめておきなさい。それは妨げになるから、そういった恐れを子どもに負わせてはいけない。

 7年たつと、7歳から14歳の次の7年間の循環で、生には新しいものがつけ加えられる――初めて子どもの性的なエネルギーがかき立てられる。だが、それはある種のリハーサルにすぎない。
 人の親になるということは難しい仕事であり、だからその仕事を担う準備ができるまでは、子どもをつくってはいけない。人びとは自分のしていることが分からないうちに父親や母親になってしまう。あなたはひとつの生命を誕生させようとしている。この世のあらゆる世話や気配りが必要とされる。
 子どもは性的なリハーサルをして遊ぶようになり、両親はここで最大の妨害をする。なぜなら、彼らも妨害されてきたからだ。彼らの知っているのは自分たちになされたことだけであり、だから彼らはそれと同じことを子どもたちにしつづける。社会は性的なリハーサルを認めなかったし、少なくとも今世紀までは許してこなかった――それはここ2、30年のことであり、それも大いに進歩した国々においてだけだ。いまでは子どもたちは男女共学の学校に通っている。だが、インドのような国では、今日でも共学は大学レベルでしか始まらない。
 7歳の少年と7歳の少女を同じ寄宿学校に入れることはできないというわけだ。だが、この時期にはそういったことが必要だ――危険を冒すことなく、女の子が妊娠をすることなく、家族にいかなる問題も生じさせることがなければ――いまこそ彼らがあらゆる遊びを許されるべき時期なのだ。
 そう、それには性的な色合いがつけ加わることだろうが、それはリハーサルにすぎない。それはほんとうのドラマではない。彼らにリハーサルすら許さずにいて、ある日、急に幕が開いて、ほんとうのドラマが始まったなら……。彼らはなにが起こっているのかさっぱり分からないだろう。彼らになにをしたらいいのかを教える台詞係(プロンプター)すらいないのだ。彼らの一生はめちゃくちゃなものになってしまうだろう。

 この7年間、生の第二の円環はリハーサルとして重要だ。彼らは出会い、混じり合い、遊び、互いと親しむようになる。人類はそれでほとんど90パーセントの倒錯を落とすことができるだろう。7歳から14歳までの子どもたちがいっしょに過ごすことを許されたなら、いっしょに泳ぎ、互いの前で裸になったなら、90パーセントの倒錯と90パーセントのポルノグラフィーはあっさりと消え失せてしまうだろう。誰がそんなものを気にするだろう?
 男の子がたくさんの女の子の裸をしるようになったら、『プレイボーイ』のような雑誌が彼らにとって魅力になりうるだろうか? 女の子がたくさんの男の子の裸を見たなら、私はそこに異性への好奇心が起こってくるとは思えない。そんなものは消えてしまうだろう。殻らは別種の動物のようにではなく、いっしょに自然に成長する。いまのところ彼らはそのようにして育っている――まったく別種の動物たちのように。彼らはひとつの人類に属してはいない。彼らはふたつに分けられている。彼らのあいだには無数の障壁がつくられているので、来るべき性生活のリハーサルをすることなどまったくできない……。
 ちゃんと宿題をすませたなら、スポーツマン精神で自分の性エネルギーと遊んだなら――この年頃には、人はその精神(スピリット)しか持ち合わせていない――あなたは倒錯者にはならないし、同性愛者にはならない。さまざまな種類の異常な妄想は起こってこない。あなたは異性と自然につき合っているし、異性もあなたと自然につき合ってくれるからだ。そこに障害というものはなく、あなたは誰に対しても間違ったことをしていない。誰もあなたになにが正しく、なにが間違っているという善悪の観念を植えつけていないので、あなたの良識は澄みきっている。あるがままの自分でいることができる。

 14歳から21歳のあいだに、あなたの性は成熟する。これはぜがひでも理解しておかなければならないことだ。リハーサルがうまく行ったなら、性が成熟するこの7年間に、あるとても奇妙なことが起こる。あなたは一度もセックスのことを考えないかもしれない。あなたはそのチャンスを与えられなかったから信じられないのだ。第二の7年間には、7歳から14歳までのあいだには、前戯(下稽古)の一瞥が与えられると私は言った。第三の7年間では後戯の一瞥が与えられる。あなたはいまだに男の子か女の子といっしょにいるが、いまやあなたの存在のなかには新しい次元のものが生まれてくる。あなたがたは恋に落ちるようになる。
 それはいまだに生物学的な欲求ではない。あなたは子どもをつくることに興味があるわけではないし、夫や妻になることに興味があるわけでもない。それはロマンチックな戯れの時期だ。あなたは美、愛、詩、彫刻といったものに大きな興味を抱く――それらはロマンチシズムのさまざまな次元だ。

 21歳から28歳までの時期に、彼らは落ちつくようになる。彼らはパートナーを選ぶことができる。彼らはいまなら選ぶことができる。これまでのふたつの循環の経験から、彼らは正しい伴侶を選ぶことができる。あなたの代わりにほかの誰かが選ぶのではない。それは直感のようなものだと言ったほうがいい――数学や、占星術や、手相や、易のようなものではないし、そんなものは役には立たない。
 それは直感のようなものだ――とても多くの人たちと触れ合いを持っているうちに、突然、ほかの誰とも感じなかったようななにかが内側でカチッとゆく。そのカチッとゆくなにかはあまりにも確かなもので説得力があるので、それを疑うことすらできない。たとえ疑ってみようとしても、疑うことはできないし、その手応えはそれほど確かなものだ。このカチリと共にあなたは腰を据える。
 21歳から28歳のあいだのどこかで、なにもかもが私の言ったようにスムーズに行ったなら、他人からの邪魔が入らなかったら、あなたは腰を据える。そして28歳から35歳までに、人生でいちばん楽しい時期が訪れる――もっとも喜びに満ちた、もっとも安らぎと調和に満ちた時期が。それはふたりの人間が溶け合い、互いと混じり合うからだ。

 35歳から42歳までのあいだに、新しい段階、新しい扉が開けてくる。35歳までに深い調和を見いだしていたなら、35歳から42歳までのあいだに、あなたがたはセックスなしで、相手がその瞑想のなかにもっともっと深く入ってゆけるように互いに手助けすることだろう。なぜなら、この時期までにはセックスは子どもっぽい、幼稚なものに見えるようになっているからだ。42歳は、人が正確におのれ自身を知るようになるのにふさわしい時期だ。

 42歳から49歳までに、彼はもっともっと瞑想に深く入ってゆき、もっともっと自分自身のなかに入ってゆくようになり、伴侶をもそのように助ける。彼らは友人どうしになる。もはや夫と妻といったものではない。もはやその時期は過ぎ去っている。それはあなたがたの人生にそれならではの豊かさをもたらした。いまやもっと高いものが、愛より高いものがある。それは友情であり、相手がもっと自分のなかに深く入ってゆき、もっと自立するようになり、もっと独りになるのを助けようとする慈愛に満ちた関係だ――それは2本の高い樹が離れていながらも互いと寄り添っているようなもの、あるいは寺院の2本の柱が同じ屋根を支え合っているようなものだ――それほど近くに寄り添っていても、別々に分かれ、すっかり自立して、完全に独りになっている。

 49歳から56歳までのあいだに、この独りあることがあなたの存在の焦点になる。世の中のあらゆることが意味を失ってしまう。残っている唯一の意味あることはこの独りあることだ。

 56歳から63歳までのあいだに、あなたは自分のなるはずだったものに完全になる。潜在的な可能性が花開く。63歳から70歳までに、あなたは肉体を落とす準備をしはじめる。いまやあなたは自分が肉体ではないことを知っているし、また自分が心ではないことも知っている。35歳頃のある時期に、あなたは肉体が自分とは別のものであることを知った。49歳頃のある時期に、心が自分とは別のものであることを知った。いまや、観照している自己以外のすべてのものが落ちてしまう。ただ純粋な気づき、気づきの焔だけがあなたのもとにとどまり、それが死への準備になる。

 70歳が人間にとっては自然な寿命だ。ものごとがこの自然な道筋をたどったなら、彼はあふれるような歓びと共に、大いなる歓喜と共に、この生は無意味なものではなかった、少なくとも自らのわが家を見つけることができたという、この上もない祝福を感じながら死んでゆく。そしてこの豊かさゆえに、この成就ゆえに、彼は全存在を祝福することができる。
 このような人物が死んでゆく傍らにいることは素晴らしい機会だ。彼が肉体を離れるとき、あなたは目に見えない花々が自分に降りそそいでくるのを感じる。見ることはできないけれど、それを感じることができる。

Osho: From Darkness to Light より抜粋


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