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2021/03/08

はじめての「禅問答」 自分を打ち破るために読め! 山田 史生 <2>

<1>からつづく

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はじ めての「禅問答」 自分を打ち破るために読め! <2>
山田 史生 (著) 2013/02 出版社 : 光文社 新書 : 222ページ 
★★★★★ 

1)貸し出し期間が過ぎたので返却しようとチラッと見たら、あれ、ちょっと待てよ。

2)中国の禅は、実質的に馬祖から始まった。禅をもって仏教の帰結とする理念が明確な自覚として宣明されたからであり、しかもそのじかくが、教義の解釈や研究という形でなしに、具体的な日常の営為の中で実践的に形成され体認されたものだったからである。(入江義高へん「馬祖の語録」「序」禅文化研究所)  p12 孫引き

3)数ある禅語録であるが、なんとか足がかりをつけていこうとすれば、まずは馬祖を中心とした視点や地歩を獲得しなければならない。OSHOで言えば、「空っぽの鏡」だ。まずは、ここを起点とする視座を獲得する必要がある。

4)そして、馬祖に対置されるべき存在として、当時は石頭が存在した。OSHOの講話の中で、具体的な肉体を持った石頭の生まれ変わりとして、禅 マスター・ニシクリアが登場する。決して、肉体を持った禅マスター・バソは登場しない。この辺に何かの手がかりがある。

5)馬祖道一は709~788に活躍した人。日本で言えば奈良時代710~794に対応する。中国の歴史で言えば唐代618~907のもっとも華やかな中核の部分である。最澄767~822、空海774~835に先立つ時代を背景にしており、両国における仏教のあり方も、大きくちがっていた。

6)馬祖、石頭、共に六祖慧能の孫弟子にあたる。馬祖の弟子筋には臨済が登場し、石頭の系譜にはやがて道元が出現する。

7)5)龐居士(ほう こじ)が馬祖にたずねる。「一切の存在とのかかわりをもたないものとは、どういう人間でしょうか」
 「おまえが西江の水を一口で飲み切ったら、そいつを教えてやろう」p110

8)そうそう、馬祖の視点があれば、当ブログの流れでいえば、龐居士(ほう こじ)の視点もある。馬祖、龐居士(ほう こじ) の視点を縦横にして、全体を見ていくのも悪くない。

9)Osho最後のZENシリーズ目次  によれば、27冊中、 「空っぽの鏡・馬祖」 は12冊目。対して、「道元」 は6冊目。馬祖の弟子筋となる「臨在録」 は16冊目になる。 登場順でいえば、道元→馬祖→臨済、となる。禅となれば、やはり石頭の系譜につらなる道元が先にきて、問答の馬祖がその後ろとなり、臨在はさらにその後ろということになるのか。

10)前のほうが重要なのか、後ろのほうが価値があるのか、ここでは判断できない。されど、OSHOの周囲のサニヤシンたちにとっては、只管打坐の道元のほうが、まずはわかりやすいのは当然な気がする。

11)OSHOにおいては、禅「問答」は必ずしも、禅の本筋だとは思われていないが、禅師たちの足跡を訪ねるには、その「問答集」に頼らざるを得ない。

12)漠然と乱雑に散らばっていた、数珠たちが、一本の糸に少しづつ通されていく。

つづく・・・・かも

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