<1>からつづく

龐居士(ほう こじ)の語録<2>
山田 史生 (著) 2019/04 出版社 : 東方書店 単行本 : 516ページ
★★★★★
1)この本、来たことは来たけど、面白いのかなぁ。この本、まだ出版されてからまだ2年も経過していないのに、私が入手したのは、半値だった。え~、安い! とは思ったが、手放す方も、あまり未練がなかったかもなぁ。
2)よかった点は、いろいろ、それぞれの禅師たちの簡単なプロフィールがついていて、人名別に配列されているところだろうか。この龐居士(ほう こじ)はこの時代の多くの禅師たちと接触しているので、座標を同じくしての各禅師たちの評価が並ぶわけだから、それはそれで楽しい。
3)著者は私より若いので、若い人に道を聞くなんて、とかいう私なりの変なこだわりがあったが、写真をみたり、著書群をみたり、なおプロフィールには尺八の愛好者だということを聞いてからは、なんとなく親しみが沸いて、私の中で、なんとか許しがでたのであった(笑い)
4)さて、本を開いてみれば、これがまるで稚戯に満ちていて、たしかに取っ組みやすいが、はてさて、この本、最後まで読み切ることができるだろうか。著者が師と仰ぐ(?)入矢義高本との比較で読み直す必要があるのだろうか。
5)例の親類筋の彼を、今回敢えてK居士と呼ぶことにしてみた。彼は、こんな本を読んで、ひょっとすると「理論武装」などしているのではなかろうか(笑い)。K居士は、どこかの何かに入門したり、沙門になったりはしないだろう。彼にとっての「師」は道元のようではあるが、かといって私淑の礼をとっているわけでもなさそうだ。
6)そして考えてみるに、OSHOは決して「禅問答」とは言わなかったと思う。ZENなのであって、問答そのものにこだわりを持っていたわけではない。ただし禅師たちの足跡はこのような問答集にこそ残されているので、そこからお人柄を察していくしかないのであろう。
7)それにしても、この本は稚戯にあふれていて、とっつきやすくはあるが、元が元だけに、ますますこんがらかったりする可能性もある。ましてや、もうすこし高踏な世界を求めたい読者には、すぐに半値で売られてしまうような本かもな。
8)K居士なら、この本を容認するかもしれない。されど、彼とて、禅問答にこだわるでもなく、禅門にこだわっているわけではない。視野のなかにこのような本も入れておいてもいいかな、というレベルであろう。
9)そしてだ、最後の疑問として残るのは、このような集団性を、OSHOはなぜに晩年に集中して取り上げたのか、ということだ。少なくとも、この本の山田史生先生レベルに合わせた場合、それが終着地点であっていいのか。
10)最近思うことだが、かりに法輪が一回転するのが2500年だとして、現在がまた再スタートの地点だとした場合、この唐代というのは8世紀前後、ちょうど2500年サイクルの真ん中あたりになっているのではないか。
11)2500年前に、ブッダやギリシャの哲人たちや、老荘などが華やかな時代があって、その時代もやがて過ぎ去ったように、かりに禅林の求道者たちが一大文化を築きあげたとしても、現代の中国に、この文化遺産はどのように残っているだろう。やはり1250年前の文化も、すっかり消え去ってしまっているのではないか。
12)ゴータマ・ブッダの周囲にいた人々が変化していったように、唐代の禅林をささえた人々もまた、いまや消え去ってしまったとするなら、当時の言行録からその人物像を再現し、あれこれ後ろ向きに解釈を試みる、という手法は、いまさらながら、ちょっと時代遅れで、古すぎるのではないか。
13)OSHOの禅シリーズは、決して、入矢本や山田本レベルには、字義ひとつひとつにこだわりを見せることはないし、体系的に仔細にこだわるところを見せない。そして、そのエッセンス部分だけを、現代によみがえらせようとしているのではないか。
14)と、今夜のところは探りを入れておく。まだ4分の1しか目を通していない。もうすこし、ページを進めたら、あらためてメモしよう。
<3>につづく
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