「禅問答入門」石井清純
「禅問答入門」
石井 清純 (著) 2010/05 出版社 : KADOKAWA角川選書 単行本 : 256ページ
No.4481
1)無作為に我が図書館を検索してみると、禅問答の文言で、何冊かがヒットする。その中に、この一冊があった。いやはやまたまたびっくり。ここにもひょうたんナマズが登場して来るのである。しかも表紙だ。だが、最後まで、この禪画についての説明はない。禅画といえば、ひょうたんナマズがステロタイプとして定番化しているのだろうか
2)この方、私より4歳も若い。しかも10年前の本なのに、駒澤大学の学長と紹介されている。早熟な方なのか、それともこちらがいつの間にかひたすら馬齢を重ねてしまったのか。この方、当ブログの記録では「禅と林檎」スティーブ・ジョブズという生き方(2012/04 宮帯出版社)の監修者として登場している。
3)入門というだけ、わかりやすい。どうも禅問答などと言われるとタジタジしてしまうが、決して難しい本ではない。むしろ、すでに知っている逸話の連続で、ああ、こういうことを禅問答というのか、と思い知る。学生に対する先生なのだから、わかりやすく書いてあるのだろう、か。
4)今の日本仏教の宗派で「禅宗」に分類されるのは、寺院数の多い順に、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の三つとなっています。これらを総称して「日本禅宗三派」と呼びますが、これらの組織が明確に独立し、宗名を名乗るようになったのは、明治9年(1876)からです。p22「禅思想の基本」
5)一般に「一千七百則の公案」などと呼ばれtいますが、この1700とう数字は、じつは公案の数ではなく、公案を残した禅僧の数なのです。具体的には「景徳伝燈録」という禅の歴史書に名を連ねる僧の人数なのです(後略) P32 「代表的な禅問答」
6)石塔希遷は、(略)馬祖道一と同時代の人です。馬祖の禅が、日常生活全般を修行とし、それゆえ「雑貨舗(生活用品を扱う雑貨屋)」と呼ばれていた(略)が、石頭の宗風は、その対角に位置し、本質のみを意識しているという点で、「真金舗(純金だけを扱う店)」と呼ばれています。p84 同上
7)中国の禅僧にも、一言も語らぬ説法をした人がいます。薬山推儼という人です。(略)薬山は、多くの禅僧の中でも、特に坐禅を重視する宗風を持つ人として知られています。立派な伽藍の寺院に住することなく、牛小屋を坐禅堂にして僧を指導した、まさに修行の人として知られています。p87~88 同上
8)龐居士(ほう こじ)とは、龐蘊(ほううん ?~808)という名の在家の禅者です。在家でありながら、深く禅に傾倒し、高い境涯を得た人で、彼地震の言葉を綴った「龐居士語録」という典籍も残されています。(略)石頭希遷と馬祖道一という、唐代に禅を大きく発展させた二大禅者との出会いと、その二人による啓発の様子を伝えた(略)p92 同上
9)あまりに「無」にばかりこだわるのも、スローガンを嫌う禅の思想そのものから遠ざかる危険性をはらんでいる(略) p111 同上
10)洞山良价(とうざん りょうかい、807~69) は、「説くことのできないものを実践し、実践できないものを説くのだ」と述べました。(略)雲居道膺 (うんごどうよう ?~902) は、「実践している時には説法はなく、説くときに実践がなくなる。説きもせず実践もしないときに、どのような方法があるというのか」と、それぞれが表裏の関係にあるとして、両者の意義を最大限に評価しました。p187 同上
11)(「放行(ほうぎょう)」は)師匠が弟子を完全に自由に解き放ち、力量のままに修行させるというものです。その反対が「把定(はじょう)」あるいは「把住(はじゅう)」で、こちらは、弟子の首根っこを押さえつけ、雁字搦めにしながら方向性を見出させるというものです。p212 同上
12)などなど、禅問答全般に対する予備知識が不足している当ブログにおいては、大いに勉強になることが多い。というか、むしろ、これらは常識なのか。これらを踏まえないと、ちょっと面白味にかけるのであろう。
13)で、11)において、把不住、となれば、放行のことなのか、また別な、第三の意味なのか、興味あるところではある。
14)巻末に代表的な公案集などが紹介されている。
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