LIVE ZEN OSHO <2>
「LIVE ZEN」 <2>
OSHO 1988/11 Rebel Publishing House ハードカバー p299 英語
★★★★★ Osho最後のZENシリーズ目次
1)Osho最期のZenシリーズは、この一冊から始まる、とされている。というか、勝手に私が決めつけているだけかもしれない。まぁ、それはそれでいいだろう。私もいつからそんなことを言いだしたか、忘れた。
2)どこかで誰かが言いだして、面白がって、私もその話題に加わったのだろうが、その痕跡がよく分からない。少なくとも15年前に当ブログが始まった時点ではすでにそういう概念を楽しんでいたのだから、それより以前から、そのことについては気になっていたに違いない。
3)だがしかし、いつかは突入と思っていたこのサーカステントにたどり着くまで、なかなかに他の出し物も面白く、時間を稼ぐだけ稼いでしまった。最近になって、ようやく飽きて、ソロソロ締めかな、と観念したところである。
4)OSHOは結局、仏教に帰った。しかも、禅だ。私にしてみれば、ホッとした。仏教? 仏教のことなら、少しわかる。禅? 禅だって、分からんでもない。多少は縁がある。と、私はどこかで、すっかり安心してしまった。仏教や禅のことなら、ひょっとすると、日本人である私のほうが「有利」かもしれない。(爆笑)
5)だってさ、文面は漢字まじりでしょ。ほとんどの文献は日本にある。OSHOの読んでいるのは、英訳ではないか。深い味わいは、日本人の私のほうが、絶対理解しやすいはずだ。(爆笑に次ぐ爆笑)
6)そこまで来て、私の何かは 止まってしまったのだ。少なくとも、スーフィーとか、タントラとか、グローシスだの、ウパニシャッドだの、ギリシャだの、ユダヤだの、エジプトだの、アメリカインディアンだの、というところでOSHOが完結したわけではなかった。
7)仏教なのである。禅なのある。私は嬉しかった。それだけで安心した。これでよし。そう一人合点した。だが、それでよかったのか? その態度は正しかったのか。私は仏教の何を知っていただろう。禅の何を体得していただろう。(チョー恥ずかしい)
8)仏教、と書いてみる。少なくともOSHOは仏教ではない。buddh-ismではない。buddhaに触れることはあっても、ismとは無縁であろう。OSHOはZENを語っても、禅の伝統に拘泥していたわけではない。 名だたる禅師たちにそのエピソードを借りたとしても、その法統を継いだと言っているわけではない。
9)OSHOはOSHOなのである。まぁ、もっというならOSHOですらない。仮にそういう指標は借りてはいるが、本当は、そう連呼してしまうのは、一面的すぎる(この言い方も、分別に堕ちているが)
10)禅は不立文字、教外別伝と言いつつ、夥しい文献や語録を持っている。禅師や居士たちは、一人ひとり個性的な人生を送った。であるがゆえに、それぞれの言行録が残された。それぞれに記録される必要があったのだろう。だから、一つ一つ見れば、それぞれが際立っていつつ、互いの矛盾も半端じゃない。難解でもある。
11)ブッダ、それもいいだろう。ZEN、それでいいだろう。で、それで、どうした。その次は、なに? おそらく、悟り、が来る。覚醒、光明、開悟、開花、見性。様々な表現があろう。OSHOの表現では一言、エンライトメントだ。言葉としては、ちょっと長すぎるが、彼がもっとも多用したのが、これだ。
12)OSHO最期のZENシリーズで、突入すべきは、OSHOでもなければ、ZENでもない。究極の、エンライトメントだ。ついて、ではない。そのものだ。そして、それは語られる何か、伝えられるナニか、ではなく、自分がすでにそのものであることに気づくことなのである。
13)生きた禅。はじまり、はじまり~。
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