「ガラス玉遊戯」ヘルマン・ヘッセ<10>

「ガラス玉遊戯」
ヘルマン・ヘッセ (著), 井手賁夫 (著) 1993/08 出版社: KADOKAWA 角川文庫
★★★★★
1)不遜な言い方になってしまうが、最近の私は、自分のブログを読み返すことが、一番楽しい。他の本や文章では得られないものが、ここにある。
2)とはいえ、最近のメモだけでは、どうしても小さなことに拘泥していて、いまいち世界が狭い。狭すぎる、と感じる。
3)最近の私の楽しみは、アクセス履歴を見ることである。当然トップ記事には集中してアクセスがあるが、それでも、ごくごく身近な日常を、細かく追っかけてくるアクセスはない。結構バラバラに、過去の書き込みをあれこれ詮索されているようである。
4)SNSのように、今書いたことにすぐに反応されるのも、これまた好きではない。自分は自分なりの余韻にふけっていたいのだ。もちろん、地震情報や、慶弔のお知らせなどは、速報性が必要だ。だが、私のブログは、そうではない。
5)読書ブログと言いつつ、決して書評のようなものにはしてこなかった。本をネタにして、書き連ねてきたのは、私自身の心象だ。この本は、私という鏡に、どう映ったのか、を描いてきた。
6)私という鏡に映ったその姿は、どう歪んでいるのか。その歪みは、どうすれば修正されるのか。あるいは、やっぱり、されないのか。
7)外は雨。凄い風雨だ。冬の嵐。私は、二階に部屋で、電気毛布で暖を取りながら、布団に寝転んで、タブレットでこの日記を書いている。どう転んでも、これが究極のリアリティだ。ここからもうすでに何処にも退却しようがない。
8)最近の私の好みは、アクセス履歴から、見慣れない、突拍子もないタイトルを見つけることだ。え、こんなタイトルで、俺って、こんな文章書いたっけ? 自分でも忘れている。いやしかし、確かに書いた記憶はわずかにある。それはそれでいい。しかし、ちょっと不思議なのは、今日この現在、この記事を読んでいる誰かが、いる、ということについてだ。
9)ちゃんと読んでくれているのか、足跡だけのおちゃらけなのか、こちらには判断つかない。時には感想を書いてくれる人もないではないが、ごく少ない。
10)わずかな視線を感じつつ、自分のブログを読み返して見る。誤字脱字の類には、自分でも呆れかえるが、 ブログという性格上、仕方ない。一気に書いて、一気にアップして、忘れてしまう。それがいい。ブログをきちんと辞書引き引き校正してからアップするなんて、なんだか可笑しい。臨場感のあるまま、書きなぐってしまうのが 、ブログの醍醐味だ。
11)そうは言いつつ、物事の名称や期日、起こった順番の間違いなどは、いずれ校正、修正されなければならない。いずれやる。
12)今回、ここにメモしておくべきことのいくつか。一つには、過去の<1>や<2>も、どんな風に読まれているか、確認することも大切だ、ということ。
13)二つには、ヘッセ、ガラス玉演戯、は、もう読まないのではないか、ということ。読む必要が、なくなった、というべきか。
14)ほんとうは、現在進行中の最後に禅シリーズの中に、ヘッセのタイトルを挟むことすら、ちょっと自分では違和感がある。自分のシャボン玉戯曲は、すでに、この把不住述懐に、溶け出しているのではないか。
15)10年以上かけて書かれたヘッセ最後の小説、ガラス玉演戯。出版は66才の時だった。いみじくもいみじくも現在の私と同年齢であった。
16)OSHOは何処かで、人生の7年サイクルのことを語っていた。7才、14才、21才、と成長し、やがて人は、42才、49才、56才、と老いるのである。そして、彼は、70才で人は、自分自身のマスターになるという。7年サイクルについては、それ以上は語っていない。
17)当ブログも、円環の終結、クレッシェンドが見え始まっている。それはブログの完結とともに、一つの人生の円環の封印という意味ももつことなるであろう。
山頂で望む春海の日の出かな 把不住
つづく
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