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2021/02/02

RINZAI : Master of the Irrational「臨済録」OSHO<6>/「臨済録」入矢義高<3>

<5>からつづく

Rinzai
RINZAI : Master of the Irrational Zen Discourse Series<6>
OSHO (Author) September 1989 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover: 191 pages Language: English

★★★★★ Osho最後のZENシリーズ目次 
 

 Rinzai would shout at his disciples to give them a first experience of their centering. You are both a circumference and a center. You live on the circumference; the shout simply pushes you to the center.

  Once you experience being at the center you suddenly see the whole world changing.  Your eyes are no more the same..... back flap

continue to <7>

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<2>からつづく

270280
「臨済録」 <3>
入矢 義高 訳注 1991/01 岩波文庫 ワイド版岩波文庫 並製 ・ カバー ・ 230頁
★★★★★

 『臨済録』は、もともと臨済宗の聖典なのではない。そういう宗とか派といったセクトとは全く無縁である。臨在禅師は唐代末期(九世紀)の人であるが、そもそも唐代禅には、六祖慧能いらい、宗派の別によるセクト意識などは全く無かった。有ったのは、師から弟子への法の継承、つまり師資相承による「家風」(宗風)の伝承と発展であった。

 しかも、その継承のしかたでさえ、「弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することになる。見識が師以上でなければ、法を伝授される資格はない」とされ、「師の法のすべてを肯(うけが)うことは、師を裏切ることにほかならぬ」とまで言われた。

 さらに唐代では、それら異なった宗風の間での相互の交流や刺激も、極めて活発に行われた。現代のわれわれも、従ってこの『臨済録』を後世の「臨済宗」的教条に当てはめて読む必要はない。p219解説 入矢

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<5>からつづく

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「臨済録」<6>
OSHO (著) アナンド・モンジュ(訳) 1993/11 出版社: めるくまーる 単行本 282ページ
★★★★★

 私には大した知識はない。私は情報知識から話しているのではなく、自らの変容された意識から話している。私は禅がどの国のものでもないことを知っている。だから、私にしてみれば、彼らが中国人であろうと、日本人であろうと、インド人であろうと関係ない。少なくとも禅はお、いかなる国、いかなる民族、いかなる言語にも封じ込められるべきではない。禅は全宇宙的なものだ。だとしたら、いったい何を騒ぎ立てているのかね?

 私は一度も語録を読んだことがない。マニーシャが語録を見つけてくる。私はただそれを聴いて、内発的に話すだけだ。私に関心があるのは禅であって、中国でも日本でもない。石頭も言っている。「私は東にも、西にも、南にも、北にも属さない」と。禅までもが民族、言語、地球の特定の地域に封じ込められてしまったら、それはもはや禅ではない。

 だから、あなたがたはごく明晰でなければならない。私は学者でもなければ、物知りでも、知識人でもない。私が語っていることは、一瞬一瞬私から生まれる感応だ。そして、私が思うに、禅は全宇宙のものだ。(中略)凡庸にならないこと。私のサニヤシンには凡庸であって欲しくない。私のサニヤシンは宇宙市民であってほしい。 I CELEBRATE MYSELF    p182 OSHO「編集部注」

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1)これら三冊の本を目の前にして、どうしてもこの三冊を一ページに収めたかった。そして前回の記事を見つけてみたら、前回の二年前も結局この三冊を並べて記事を書いていたのだった。しかもこれら三冊にビデオをもプラスしていた(笑)

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3)まぁ、結局は同じことを考えているんだな。思考がそのまま残っていた、というより、感性としてそれが当たり前なのだろう。2年間、このまま放置しておいてしまった。今回はもうすこしここから、前に勧めようと思う。

4)そしてさらに思う。邦訳本の翻訳者であるモンジュ氏は、OSHOの姿勢を「89/02/13 I Celebrate Myself: God Is No Where, Life Is Now Here」から引用している。この本はOSHOの「禅宣言」の直前の一冊である。つまり、OSHO晩年の最後から二冊目に位置する重要な一冊である。

5)実はこの「 I Celebrate Myself」、今回の当ブログの最後の禅シリーズにおけるミッシングリンクの最後の一冊になっているのだ。ちょっと価格が高止まりしている。諦めかけていたが、やっぱり入手するのが、道かな。

<7>につづく

 

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