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2021年2月

2021/02/28

LIVE ZEN OSHO <2>

<1>からつづく

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「LIVE ZEN」
<2>
OSHO 1988/11  Rebel Publishing House ハードカバー p299 英語

★★★★★ Osho最後のZENシリーズ目次

1)Osho最期のZenシリーズは、この一冊から始まる、とされている。というか、勝手に私が決めつけているだけかもしれない。まぁ、それはそれでいいだろう。私もいつからそんなことを言いだしたか、忘れた。

2)どこかで誰かが言いだして、面白がって、私もその話題に加わったのだろうが、その痕跡がよく分からない。少なくとも15年前に当ブログが始まった時点ではすでにそういう概念を楽しんでいたのだから、それより以前から、そのことについては気になっていたに違いない。

3)だがしかし、いつかは突入と思っていたこのサーカステントにたどり着くまで、なかなかに他の出し物も面白く、時間を稼ぐだけ稼いでしまった。最近になって、ようやく飽きて、ソロソロ締めかな、と観念したところである。

4)OSHOは結局、仏教に帰った。しかも、禅だ。私にしてみれば、ホッとした。仏教? 仏教のことなら、少しわかる。禅? 禅だって、分からんでもない。多少は縁がある。と、私はどこかで、すっかり安心してしまった。仏教や禅のことなら、ひょっとすると、日本人である私のほうが「有利」かもしれない。(爆笑)

5)だってさ、文面は漢字まじりでしょ。ほとんどの文献は日本にある。OSHOの読んでいるのは、英訳ではないか。深い味わいは、日本人の私のほうが、絶対理解しやすいはずだ。(爆笑に次ぐ爆笑)

6)そこまで来て、私の何かは 止まってしまったのだ。少なくとも、スーフィーとか、タントラとか、グローシスだの、ウパニシャッドだの、ギリシャだの、ユダヤだの、エジプトだの、アメリカインディアンだの、というところでOSHOが完結したわけではなかった。

7)仏教なのである。禅なのある。私は嬉しかった。それだけで安心した。これでよし。そう一人合点した。だが、それでよかったのか? その態度は正しかったのか。私は仏教の何を知っていただろう。禅の何を体得していただろう。(チョー恥ずかしい)

8)仏教、と書いてみる。少なくともOSHOは仏教ではない。buddh-ismではない。buddhaに触れることはあっても、ismとは無縁であろう。OSHOはZENを語っても、禅の伝統に拘泥していたわけではない。  名だたる禅師たちにそのエピソードを借りたとしても、その法統を継いだと言っているわけではない。

9)OSHOはOSHOなのである。まぁ、もっというならOSHOですらない。仮にそういう指標は借りてはいるが、本当は、そう連呼してしまうのは、一面的すぎる(この言い方も、分別に堕ちているが)

10)禅は不立文字、教外別伝と言いつつ、夥しい文献や語録を持っている。禅師や居士たちは、一人ひとり個性的な人生を送った。であるがゆえに、それぞれの言行録が残された。それぞれに記録される必要があったのだろう。だから、一つ一つ見れば、それぞれが際立っていつつ、互いの矛盾も半端じゃない。難解でもある。

11)ブッダ、それもいいだろう。ZEN、それでいいだろう。で、それで、どうした。その次は、なに?   おそらく、悟り、が来る。覚醒、光明、開悟、開花、見性。様々な表現があろう。OSHOの表現では一言、エンライトメントだ。言葉としては、ちょっと長すぎるが、彼がもっとも多用したのが、これだ。

12)OSHO最期のZENシリーズで、突入すべきは、OSHOでもなければ、ZENでもない。究極の、エンライトメントだ。ついて、ではない。そのものだ。そして、それは語られる何か、伝えられるナニか、ではなく、自分がすでにそのものであることに気づくことなのである。

13)生きた禅。はじまり、はじまり~。

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2021/02/27

機関紙

1)私はどんな組織のヘビー構成員ではないが、おそらくありとあらゆる組織と等間隔に付き合っていることになるらしい。選挙が近づいたりすると、あらゆる政党や立候補者がやってくる。個人的には、私はどんな人とでも付き合っていけそうな気がする。

2)だけど、ある固まった話をされると、どうかなぁ、と私のなにかが反応して、聞いているふりして、体のどこかで拒否反応が始まっているようである。

3)突然、女性が訪ねてくる。嫌いじゃないよ。近所の人だ。かつては地方議員だったけど、現在は全国区の議員を目指して雌伏中。がんばれ、がんばれ、そう言わざるをえないでしょう。

4)はい、がんばります。で、お願いですが、この印刷物の読者になってください。彼女たちも心得ている。息をのまれて、ああ、いいですよ、となってしまう。

5)で、来ました。印刷物。読みました。それなりに面白いです。だけどなぁ、それって、この印刷物でしかわからないこと? ある集団性がそう考えている、ということは分かった。そうだよね、いいね。賛成。だけどなぁ。

6)正直言って、毎回読んでいると飽きてくる。これはね、あなたたちの団体だけじゃないんだ。どんな機関紙とか読んでも、もう最近は飽きているんだよ。読解力も落ちているし、忍耐力もなくなっている。感動性が落ちているのかな。

7)結局、奥さんは、三面記事の間違い探しコーナーを愉しみ、私は私で、クロスワードとかナンプレをやる。で、詰め将棋とか詰碁をやるのだが、難しいのは難しい。簡単なのは楽しんで解ける。だけど、難しいのは、解くまで忍耐力が絶えてしまうことが多い。

8)で、結局は、この印刷物は、ナンプレとか間違い探しのために購読しているのであれば、納得感がないので、やっぱり次の集金の時には、来月から停止してください、ということになるんだろうな。

9)私は断るのは下手だから、きっと、他の家族が、私の意向を受け取って、それなりの対応してくれるだろう。ああ、こういうこと、あっちこっちの団体、グループにやってしまっているなぁ。

10)ごめんなさい。

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2021/02/26

テレワーク

1)テレビで、テレワークになって体調を崩した、という人がいるというニュースを流していた。なにごとであれ、ひとつの潮流がでると、反対潮流がでてくるのは、相対性理論から考えてしかたないことだが、私自身はテレワークには賛成である。

2)テレワークで体調を崩すということは、一番は外出しないことが原因らしいが、なんだか自己管理ができていない人の症状であるかのように思う。

3)アルビン・トフラーの「第三の波」に登場したエレクトロニック・コテッジの概念以来、私は、SOHOとかノマドとか、もちろんテレワークなどには大賛成であるし、できればそういう方向でできる仕事や業態を探してきた。

4)そもそもが通勤ラッシュや交通混雑が嫌いなのである。実に無駄だと思うし、エネルギーの無駄遣いだと思う。24時間のうち、2時間も3時間も、通勤に使うなんて、私には考えられない(というか、そういう時代にも何回も突入した経験がある)

5)自宅で、職住一致で業務をこなすことができるなら、それに越したことはない。外出したければ外出すればいいだろう。たまった郵便物を近くのポストまで出しにいくとか、回ってきた回覧板を隣にもっていくとか、食材を求めて近くのスーパーに行く。リクエストしていた本が図書館に届いたので、受け取りにいく。いくつも方法があるだろう。

6)私は一人暮らしではないので、日常的に無駄話や馬鹿話に花を咲かせることは簡単である。たまに喧嘩してストレスを発散する。車庫を改造した瞑想ルームもあるので、踊ったり、カタルシスを発散したりすることも、割と簡単にできる。

7)ワンルームマンションではないので、気分をかえたければ、和室なり、キッチンなり、物置改造の書庫などに行って時間を費やせば、気分転換にはなる。もちろん、ウォーキングでもいいし、時には自転車(ママチャリだが)に乗って、川辺を散歩する。テレワークで病気になる、なんて、私の場合はありえない。

8)もちろん、仕事やボランティアや身内の事情(お墓参りやお見舞いなど)で外出を余儀なくされる時もあるし、突然友人から昼飯いっしょにどうだ、なんてメールも飛び込んでくる。ほどほどに外出すればいいだろう。昔は犬を飼っていたので、強制的に散歩させられたが、今は、一日2回の散歩はちょっと面倒だな。

9)最近はテレワークという単語が一人歩きしているが、数年前まではノマドというスタイルが気に入っていた。バックパックに携帯+PC+WiFi機器を入れて、お気に入りの場所で仕事をするのである。当然、PCはノートになる。タブレットでは、ちょっと仕事にならないが、読み取りだけだったら、タブレットだけでもいい。これならさらにコンパクトになる。

10)ノマドでちょっと困るのは、セキュリティの問題だろう。他人に画面を覗かれたり、機器をどこかに忘れてしまったり、盗難にあったりするリスクもある。つないだお店のWiFiが信用のおけないものだったりする危険性はある。山奥でソロキャンプをしながらノマドするのは、ある意味理想だが、クマやイノシシと遭遇する危険性もある。もちろん、人間による事件に巻き込まれないとも言えない。

11)ノマドで困るのは、印刷物が作れないこと。車なら電源もあるし、プリンター一台を持ち運べないこともない。ただし、電子機器は車の振動に弱いので、故障する確率は高くなる。携帯プリンターもあることはあるが、実質バックバックに入れて持ち運ぶほど使うチャンスは多くない。

12)結論としては、スマホ+タブレット+ノートPC+デスクトップPCを使い分けるように、ソロキャンプ+ノマド+テレワーク+会社業務を、うまく振り分けて、どれでもできるようにすればいいのではないだろうか。会社には3分の1のスタッフが残るようガイドがあるようだし、自分だって希望すれば、3分の1は会社ワークになるだろう。

13)私のスタイルは、基本テレワーク。ZOOMやSluck、イントラネット回線などで、つながっている。だが、いつでもソロキャンプにもでかけられるようになっているし、緊急時にはノマドもできる。基本スマホ一台あれば大体の業務ができるが、利便性で考えるとスマホ一台だけ、というのは避けたい。

14)Officeで会社業務もできるように、スーツや磨いた革靴も常備してはいるが、どうかなぁ、私の好みではない。できれば避けたいが、必要不可欠な部分でもあるので、忌み嫌うことはない。

15)テレワーク時代となって、都会のワンルームから、郊外の広いフィールドに自宅を移す人もいるらしいが、それもありだし、賛成である。そこからもう都会に戻らなくてもいい算段をしたらだろうだろうか。

16)もともとカントリーボーイ路線のわたくしとしては、別段ここからさらに郊外へと避難する必要も感じていないが、最近までは、エコビレッジ構想やクラインガルテン・プロジェクトに乗って、いろいろ模索をした。どこでも仕事はできるし、愉しむことは限りなくできる。そうそう市民農園の畑作業もあった。

17)ライフ&ワーク・バランスなどと、気の利いたフレーズだけが残されて、結局はあくせくしていく人間界なのか。就活も婚活もしたことの私としては、おそらく終活もしないだろう。自然とそれはやってくる。人生なんのために生きているのじゃ。そこんとこを、瞑想しようじゃないか。

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終活

1)勝手に送信されてくるファックスDMにも困ったものだが、たまに「終活」資格なるものの講座案内などが含まれている。就活とか、婚活とかの類語で、なかばジョークも込められてつくられた造語であろうが、割と現在は一人歩きをしているようでもある。

2)断捨離とかミニマリスト、など、身軽に生きていこうよ、という動きもあるようで、別段に異見はない。されど、SNS上で、終活と称して、OSHO本の画像がついていた時には、ぐっと心に響いた。(この画像は私の蔵書)

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3)未読の物や未開封のものも含まれているようだが、着払いでほしい人には送ります、ということだった。実は私もこの類のサービスで、洋書やビデオ類をいただいたことが数度ある。今回は残念ながら、すでに私の蔵書とかなりの部分が重なったので、申し込みをしなかった。

4)引っ越しをするため重荷になる。もう読んだから誰かにあげる。どうせいずれは遺品ごみになるので、今のうちに。いろいろご事情があるのだろうし、その心情を察するしかない。

5)さて、私はどうなのか? 終活、というほど、まだ死と直面しているわけじゃない。いずれ自分の行く道ではあれど、まだ時間は残されているのではないか、と期待している。残っている時間の中で、これだけはやっておきたい、ということをいくつか挙げて、緊急性のあるテーマから順番にやっている。

6)その中でも、この最期のZENシリーズは、長年の懸案だったから、これはやってしまおうと思っている。あと数年は最低でもかかるだろうし、それより長くなるかもしれないし、未完で終わるかもしれない。

7)それはそれでいいのである。もう終わって、終活に入っている人もあるだろうし、終活もままならずに逝ってしまった知人友人もある。

8)はて、私はどうするだろう。読み終わったら、ごみにだすか、誰かに渡すか、そのまま知らんぷりで放置するか。今のところはノーアイディアだ。一番いいのは、瞑想センターの蔵書や資料庫のような形で残るのが希望だが、それほど貴重なものも多くはない。ただ、誰かが残さなければ、すべて散逸してしまうだろう。

9)私ごときが一人でうんうん考えたところでいいアイディアもないし、力も不足だ。誰かがすでに立派なプランでもってプロジェクトは進行しているかもしれず、ここはノーマインドで、成り行きに任せるのが、いいのであろう、か?

10)終活。いつかは行く道。

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2021/02/25

I celebrate myself: God is no where--life is now here OSHO<2>

<1>からつづく

 

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Celebrate myself: God is no where--life is now here<2> 
OSHO (英語) ハードカバー 言語 : 英語
★★★★★ Osho最後のZENシリーズ目次 

1)当ブログは現在、OSHOの最期のZENシリーズを追っかけ中である。対象となるのは、1988年から1989年にかけての講話録27冊。この中に邦訳が6冊あるが、当面、これ以上は増えそうにない。そこで残り21冊は英語本で読むことになった。そのためにはまず、英語本を集めることから始める必要がある。

2)幸い、その手はずはほとんど取れていて、わが意識がそちらにセンタリングされていくタイミングを待つだけである。そもそも15年前に当ブログがスタートした地点から、このテーマはずっと存在していたのだが、なかなかにこの世界は、興味深い、面白いことに満ち溢れている。ついついあちこち遊んでいるうちに、竜宮城の浦島太郎のような状況になってしまった。

3)これではいけない。そろそろお里ごころが強烈に湧き上がってきた。そろそろ最後のタイミングだろう。お土産に、玉手箱一つの頂いて、もとの村に帰る季節になったのだろう。最後の最後、玉手箱を開けた途端、あ~ら、若かった浦島太郎も真っ白いお髭のお爺さん、ということになってしまうに違いない。

4)タイムリミットは、あと2年足らず。当ブログは、3つのバージョンを合わせると、1日約400アクセスがあり、すでに200万以上のアクセスがある。多いのか少ないのか分からないが、全くの一人相撲ではなさそうだ。およそ2年後に、5048冊目を読了した際に、当ブログは終了する。現在4480冊目だから、あと500冊強である。1日一冊として、あと2年。

5)OSHO最期のZENシリーズ、入手するのに最後まで困難だったのは、このI celebrate myself: God is no where--life is now here OSHOであった。本文そのものは、ネット時代の今、簡単に読むことは出来るが 、やはり本としても手元に欲しい。そうしてようやく見つけたのが 、配本先の在庫最後の一冊だった。しかも正価のまま。早速依頼したのだった。

6)しかし、配本先の配慮で、私はこの一冊を贈呈されることになったのである。ああ、ありがたい。これは天の配剤か、運命の悪戯か。私にとっては、どうやら、この一冊は、竜宮城からのお土産としての、玉手箱に見えてくる。私は、自分自身を祝うことができるのか?

7)  I celebrate myself: God is no where--life is now here 

<3>につづく

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2021/02/24

龐居士(ほう こじ)の語録<1>

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龐居士(ほう こじ)の語録
山田 史生 (著) 2019/04 出版社 : 東方書店 単行本 : 516ページ
No.4480★★★★★

1)最後の禅シリーズを追っかけるなら、ずっとこっちのほうが本命である。

2)この方の、はじめての「禅問答」 自分を打ち破るために読め! 山田 史生
、は先日目を通した。わが図書館には、こちらの「龐居士(ほう こじ)の語録」はなかった。本日、あちこち図書館を探してみたが、やっぱりなかった。ネットで安価で入手できるところがあったので、一冊注文済み。

3)この本、本日、「例の」朋友というべきか、縁者というべきか、身近な人物宅に何気なく引き寄せられて訪問したら、この本が、座右の書としてあった。彼もまた唐代の禅に関心をもっているという。なんという親密度。

4)今日の彼の壁の掛け軸は、「一期一会」。これもまた、運命的な出会い、というべきであろう。



<2>につづく

 

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William James



January 1987: He returns to the ashram in Pune, India, which is renamed Rajneeshdham.

July 1988: Osho begins, for the first time in 14 years, to personally lead the meditation at the end of each evening’s discourse. He also introduces a revolutionary new meditation technique called The Mystic Rose.

January-February 1989: He stops using the name “Bhagwan,” retaining only the name Rajneesh. However, His disciples ask to call Him ‘Osho’ and He accepts this form of address. Osho explains that His name is derived from William James’ word ‘oceanic’ which means dissolving into the ocean. Oceanic describes the experience, He says, but what about the experiencer? For that we use the word ‘Osho.’ At the same time, He came to find out that ‘Osho’ has also been used historically in the Far East, meaning “The Blessed One, on Whom the Sky Showers Flowers.”

1)ジャーン! 大変なことになってしまった。これまで、OSHOというネーミングの語源は、アメリカの詩人ウォルター・ホイットマン (Walter Whitman)だとか、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake)だとか、いい加減なことを書いてきてしまった。

2)少なくともこの記事に沿う形で理解するなら、それはアメリカの哲学=心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James)であった可能性が高かくなった。_| ̄|○ いやいや、この記事元を見る限り、これが決定でしょう・・( ノД`)シクシク…

3)しかしだ。言葉は言葉だ。別段、誰の言葉だっていいじゃないか。少なくとも、これだけ詩人や学者たちが使っている言葉だとすれば、誰の所有物でも商標でもない。これだけ一般的な言葉だったのだ、ということでいいんじゃないか(;^_^A

4)まずは、もうすこし深堀してみよう。

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 「真説・佐山サトル」 タイガーマスクと呼ばれた男 田崎 健太<2>

<1>からつづく

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「真説・佐山サトル」 タイガーマスクと呼ばれた男 <2>
田崎 健太 (著) 2018/07 出版社 : 集英社インターナショナル 単行本 : 520ページ 
★☆☆☆☆

1)100ページ目まではワクワクして読んでいた。本を借り出して、読み始めて、200ページ目あたりまではう~ん、我慢しながら、何とか耐えた。しかし、この本を500ページまで読むなんて、無理だった。

2)1982年6月頃、私たちは、ビルの中の元サウナだったワンフロアを借り切って、瞑想センターの共同生活を始めた。OSHOのビデオも出がけで、ベータとVHSの戦いがある時代だった。

3)私より7歳年上のSは、型落ちのベータビデオ機器をカンパしてくれて、私たちはインドから直送されるOSHOビデオを見ていた。テレビ番組なんて、ほとんど見なかったが、ある日、調性のために、ちょっとテレビ番組を映してみたら、ちょうどプロレスをやっていた。その時、初めて、タイガーマスクの試合を見た。

4)その時、私より7歳年下のVは、すっかり夢中になり、私にこの試合の意味を教えてくれた。彼は、私より10センチ以上も身長が高く、一時期、極真空手の道場を覗いたこともある、猛者だった。彼は、「生涯、私が見た最高の試合だ」と叫んでいた。私も夢中になった。

5)私もまだ20代の若者だったし、佐山もVも、みんな20代、しかもその前半だった。そうそう、あの年は、みんなでオレゴンのコミューンに出かけて、私たちの青春も真っ只中だった。

6)あれから40年が経過した。私たちは、みんなアラ還となり、人生の終盤を迎えようとしている。佐山も、私も、Vも、みんなだ。

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7)タイガーマスクが、スーパータイガーになってしまった試合も、リアルタイムでテレビでみている。みんな若かった。猪木がタバスコだか何かの事業を手掛けているということは知っていたが、そのアントンハイセルが、大きな損失を生んでいて、タイガーたちが生み出していた利益を垂れ流していた、とは知らなかった。

8)リング上の試合は15分、せいぜい1時間では終わる。しかし、その裏で、さまざまなバトルが展開されていたのだ、ということは、あまり熱心じゃなかったプロレスファンの私などには知るよしもなかった。

9)そして、今でも、ほとんど興味もないし、わからなくてもいいことなのだと思う。佐山サトルの人生も、どんなものだったのだろう。正確には知る由もない。

10)田崎のノンフィクションも、むしろ長州力のほうが、もっと面白かったように思う。マーフィーの法則として、テストの前日のテレビ番組は超面白い、というのは、やはり錯覚だ、と思った。私には、私が今、立ち向かうべき別の課題があるように思った。

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2021/02/23

猪木が語る!「これからの生き方&道、砂漠の足跡」|アントニオ猪木「最後の闘魂」チャンネル

猪木が語る!「これからの生き方&道、砂漠の足跡」|アントニオ猪木「最後の闘魂」チャンネル

 

1) 佐山サトルを追っかけてたら、猪木にぶつかった。いまや糖尿で杖を突いているという。最後の禅シリーズを追いかけていたら、猪木は、最後の闘魂、と来た。

2)このインタビュー動画、10分以降で、自分は宗教家になっていたらよかったか、というような内容を語っている。猪木が、もし最初から宗教家だったら・・・?

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「博士の愛した数式」寺尾聰出演, 小泉堯史監督

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「博士の愛した数式」
寺尾聰 (出演), 深津絵里 (出演), 小泉堯史 (監督) 形式: DVD 発売日 : 2018/12 販売元 : TCエンタテインメント 時間 : 1 時間 57 分 アスペクト比 : 1.78:1 
No.4479★★★★★

1)気まぐれに録画しているテレビ番組も、時にはヒットすることもある。この映画はあまりよくわかっていないのだが、見てみるとなんとも素敵な映画だった。2006年製作というからすでに15年前の作品だが、このくらいのタイムラグは、現在の私にはちょうどいい。




2)タイトルも「OSHOの愛した本」に似て、どこか親近感を持つ。そして極めつけが、エンディングに登場したウィリアム・ブレイクの詩だった。

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一つぶの砂に 一つの世界を見

一輪の野の花に 一つの天国を見

てのひらに無限を乗せ

一時(ひととき)のうちに永遠を感じる

           ウィリアム・ブレイク

 

 

3)OSHOの名前の語源となったもうひとつのルーツが、アメリカの詩人ホイットマンなのか、ブレイクなのか、と、ひとり論争をしていた (笑)のだが、ここにきてどうやら重要な手がかりを得たようだ。

 

 

Oceaning


I spent some time oceaning
drifting right about;
in a tiny coracle
upon a sperm whale’s spout

An albatross fishlosophizing
clasps my crooked hand
it tells me (ride the wave, dear)
before you take your stand

 

4)テスト前日のテレビ番組は面白い、などと言って、最後の禅シリーズから、逃げる算段を繰り返していながら、結局は、沖へ沖へとオーシャニングされていく当ブログであった。

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Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment OSHO <4>

<3>からつづく

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Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment<4>
Osho (著), Ma Deva Padma (イラスト), 1990/10 出版社 : Rebel Publishing House 言語 : 英語  ハードカバー : 224ページ

★★★★★ 
Osho最後のZENシリーズ目次 


1)生死を超えたら、もう怖いものはなくなる。あるのは真実だけだ。

2)こだわるものが何もない。

3)辿り着くべき頂上もなければ、やり残したものなど、何もない。

4)くつろぎ、荷を下ろし、祝されてある。

5)・・・・

<5>につづく

 

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 「真説・佐山サトル」 タイガーマスクと呼ばれた男 田崎 健太<1>

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「真説・佐山サトル」 タイガーマスクと呼ばれた男 <1>
田崎 健太 (著) 2018/07 出版社 : 集英社インターナショナル 単行本 : 520ページ 
No.4478★★★★★

https://www.shueisha-int.co.jp/wp-content/uploads/2019/04/0339.pdf

 

1) マーフィーの法則に、テストの前日はテレビ番組が面白い、という名言があったと思う。まさに、現在の当ブログはそのような状態だ。最後の禅シリーズに突入すべきタイミングに及んで、ついついよそ見をしてしまう。

2)この本、わが図書館にも入っているらしい。予約済みだが、どんな内容だろうと、ネット立ち読みしたのがいけなかった。100ページ中、黒塗り海苔弁の10ページほどを残して一気に読んでしまった。

3)もちろん、全ページ読めたわけじゃないから、いずれ図書館から借り出して続編を読まなくてはならないが、実に興味深い1冊だ。面白い。

4)当ブログは、中途半端なプロレス・ファンだが、これまでも、力道山や、レフリー本、長州力や、女子プロレス本などを散読してきた。それにしても興味深い世界だ。

5)佐山サトル。マーシャルアーツでも、きっと大成功を納める事の出来る存在であったに違いない。これほどまでに興味深い男だとは思わなかった。

6)まだ100ページしか読んでない。今後、どういう展開になっていくのか、ワクワクする。もちろん、大筋は知っている。しかし、タイガーマスクの2年数ヶ月に光に目がくらみ、一人の目撃者としては、あまりに影の部分を見落としてきた。

7)2021年の現在、彼は体調を崩し、パーキンソン病を患っているとの報道さえある。もうレスラーとしてはもうリングには戻れないだろう。もちろん年齢もすでに晩年の域に達している。

8)されど、その精神やいかに?

9)いやはや、テスト前日のテレビ番組は猛烈に面白い!

<2>につづく

 

 

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2021/02/20

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2021/02/16

Zoom  Slack Trello Chatwork

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「Zoom & Slack完全マニュアル」
八木重和 (著) 2020/07 出版社 : 秀和システム 単行本 : 304ページ 
No.4477★★★★★ 



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「Slack&Zoom&Trello テレワーク基本+活用ワザ」t
大野浩誠 (著), 野上誠司 (著), 出版社 : インプレス (2020/6/25) 単行本(ソフトカバー) : 192ページ
No.4478 ★★★★★ 

 

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「Chatwork or Slack+Zoomで今日から始めるテレワーク!! 」
小宮 紳一 (監修) 2020/06  出版社 : 秀和システム 単行本 : 95ページ 
No.4479 ★★★★★ 

1)今回のパンデミック騒動で、いきなり必要となったテレワーク、そしてそれを支えるツールたち。完全に市民権を得たのはZOOMだろう。いまやZOOMは常識になった。かくいう私も、かなりのウェイトでZOOMのお世話になっている。

2)使い方もそれぞれだろうが、私の場合は、基本、もっとも初歩的なセミナー方式の利用方法である。講師がいて、あとはほとんど意見も言わず、ただただ連絡事項を拝聴する、というスタイルだ。

3)おそらくこれはZOOMの使い方のごくごく一部であろう。本来双方向の意見交換や、同一時間の共有ができるツールであるだろうが、私の業務上はその程度のものだ。この程度なら、他のツールでも可能なはずなのだが、ここにきて、セキュリティや安定性など、各方面の合格点を得ることができたのだろう。

4)Slackはあるプロジェクトに参加することによって、その存在を知った。そのプロジェクトがなければこのツールについても知らなかったのだろうが、必要に迫られて使い慣らすことになった。使ってみれば、なかなか便利であるが、これもまた、いままでのツールでも代用できるだろう。

5)TrelloやChatworkについては全く知らないが、必要となれば慣れるしかないだろう。だが、そのツールを共有するネットワークがなければ意味がない。その用途や目的が登場すれば、それはそれできっと便利なはずだ。

6)そもそも私は、アルビン・トフラーの「第三の波」に登場したエレクトロ・コテッジをわがワークスタイルの理想としてきたので、いまさらテレワークと言われても、特段目新しくはない。自分の環境で、テレワークができるイージーな職種はないか、というのが、現在のワークスタイルに落ち着いてきた遠因なのだ。

7)テレワークはいいよ。職住一致。DIY。ミニマリスト。ソーシャル・デスタンス。ライフ&ワーク・バランス。いいこと、いっぱいある。

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地震保険

バレンタインデー・イブ地震の被害報告が続いている。最初はなんでもなかったと思っていたが、よくよく見ると、壁にひびが入っていた、屋根に異常があった、というような内容が多い。
保険会社は、当日が休日であったというほかに、現在、コロナ禍において、そもそも3分の1のスタッフで業務を回しており、他のスタッフは自宅でテレワーク、という体制になっていた。
被害地では社員も被害を受けていることが多く、関連会社のスタッフが、遠隔地から集合してきてヘルプに入る、というスタイルになっており、現地の地理を把握することさえ時間がかかる。
それで、これまで事故報告を受けた案件についても、保険会社はほとんど動きが取れていない状態。もちろん漏水や失火のような被害には緊急対応が必要だが、他は今後、どれだけ時間がかかるかわからない状態。
被害を受けた方は、まずは保険の補償内容を確認し、保険会社へ連絡することが必要だ。
①自宅や保険物件をよくみてみよう。そもそも地震保険に加入していなければ、補償はないが、それでもこの際だから、よくよくみてみよう。
②そして、あれ、これはどうなの?というところがあれば、即スマホで画像を残しておく。すでに片づけてしまったあとでも、ここがこうだったんです、という記録を残すために、メモも残しておく。
③次に、すでに保険会社から連絡があった人もいるだろうが、保険会社はてんやわんやですぐに連絡がくることは期待できない。自分のほうから連絡しないと、後回しの後回しになる可能性もある。
④続いて事故が起きそうなところは、被害が拡大しないような処置をし、その記録も残しておく。
⑤地震保険は、補償の仕方が、全損、半損、一部損など、ちょっと特徴的なので、300円のコップが割れたから300円の補償、というシステムではない。部屋全体、家全体の判断されるので、自分で、これは出ないだろう、と思わず、とにかく記録を残し、保険会社からの連絡をまとう。
⑥状況にもよるが、連絡がくるまで、数日、あるいは数週間、かかる場合があるが、決して保険会社は忘れているわけではない。気長にまちましょう。
⑦被害の判断は、鑑定人によるので、一般社員や代理店などは、判断できない。
⑧その他、この際だから、自宅や関連建築物や家具類などを点検し、また、地震保険の内容、必要、不要も含めて再検討しておきましょう。
⑨わからないことは、専門家や代理店に、気軽に早めに相談するといいと思います。
⑩とにかく被害を少なくし、身をまもることを優先させましょう。

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「ガラス玉遊戯」ヘルマン・ヘッセ<10>

<9>からつづく

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「ガラス玉遊戯」
ヘルマン・ヘッセ (著),    井手賁夫 (著) 1993/08 出版社: KADOKAWA 角川文庫
★★★★★

1)不遜な言い方になってしまうが、最近の私は、自分のブログを読み返すことが、一番楽しい。他の本や文章では得られないものが、ここにある。

2)とはいえ、最近のメモだけでは、どうしても小さなことに拘泥していて、いまいち世界が狭い。狭すぎる、と感じる。

3)最近の私の楽しみは、アクセス履歴を見ることである。当然トップ記事には集中してアクセスがあるが、それでも、ごくごく身近な日常を、細かく追っかけてくるアクセスはない。結構バラバラに、過去の書き込みをあれこれ詮索されているようである。

4)SNSのように、今書いたことにすぐに反応されるのも、これまた好きではない。自分は自分なりの余韻にふけっていたいのだ。もちろん、地震情報や、慶弔のお知らせなどは、速報性が必要だ。だが、私のブログは、そうではない。

5)読書ブログと言いつつ、決して書評のようなものにはしてこなかった。本をネタにして、書き連ねてきたのは、私自身の心象だ。この本は、私という鏡に、どう映ったのか、を描いてきた。

6)私という鏡に映ったその姿は、どう歪んでいるのか。その歪みは、どうすれば修正されるのか。あるいは、やっぱり、されないのか。

7)外は雨。凄い風雨だ。冬の嵐。私は、二階に部屋で、電気毛布で暖を取りながら、布団に寝転んで、タブレットでこの日記を書いている。どう転んでも、これが究極のリアリティだ。ここからもうすでに何処にも退却しようがない。

8)最近の私の好みは、アクセス履歴から、見慣れない、突拍子もないタイトルを見つけることだ。え、こんなタイトルで、俺って、こんな文章書いたっけ?  自分でも忘れている。いやしかし、確かに書いた記憶はわずかにある。それはそれでいい。しかし、ちょっと不思議なのは、今日この現在、この記事を読んでいる誰かが、いる、ということについてだ。

9)ちゃんと読んでくれているのか、足跡だけのおちゃらけなのか、こちらには判断つかない。時には感想を書いてくれる人もないではないが、ごく少ない。

10)わずかな視線を感じつつ、自分のブログを読み返して見る。誤字脱字の類には、自分でも呆れかえるが、 ブログという性格上、仕方ない。一気に書いて、一気にアップして、忘れてしまう。それがいい。ブログをきちんと辞書引き引き校正してからアップするなんて、なんだか可笑しい。臨場感のあるまま、書きなぐってしまうのが 、ブログの醍醐味だ。

11)そうは言いつつ、物事の名称や期日、起こった順番の間違いなどは、いずれ校正、修正されなければならない。いずれやる。

12)今回、ここにメモしておくべきことのいくつか。一つには、過去の<1>や<2>も、どんな風に読まれているか、確認することも大切だ、ということ。

13)二つには、ヘッセ、ガラス玉演戯、は、もう読まないのではないか、ということ。読む必要が、なくなった、というべきか。

14)ほんとうは、現在進行中の最後に禅シリーズの中に、ヘッセのタイトルを挟むことすら、ちょっと自分では違和感がある。自分のシャボン玉戯曲は、すでに、この把不住述懐に、溶け出しているのではないか。

15)10年以上かけて書かれたヘッセ最後の小説、ガラス玉演戯。出版は66才の時だった。いみじくもいみじくも現在の私と同年齢であった。

16)OSHOは何処かで、人生の7年サイクルのことを語っていた。7才、14才、21才、と成長し、やがて人は、42才、49才、56才、と老いるのである。そして、彼は、70才で人は、自分自身のマスターになるという。7年サイクルについては、それ以上は語っていない。

17)当ブログも、円環の終結、クレッシェンドが見え始まっている。それはブログの完結とともに、一つの人生の円環の封印という意味ももつことなるであろう。

 

 

      山頂で望む春海の日の出かな    把不住

 

 

つづく

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2021/02/14

震度6プラス

2/14未明

震源地近し。震度6プラス。かなり強かったが、基本大丈夫。けが人なし。インフラ大丈夫。ただし、テレビ倒れ、食器倒れ、本箱ぐちゃぐちゃ。はしご倒れ。外に積んでた夏タイヤ倒れ。火事なし、サイレンなし。電話時々不通だが、なんとか通じる。近親者、大きな被害連絡なし。みんな無事。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2/14夕方追記

仕事柄、全体的に見て、私の周囲では、太白区、若林区、名取、岩沼、角田、丸森、などの被害が大きかった。
逆に、山手、泉、などは被害が少なかった。
鬼瓦が落ちたところ、壁が落ちたところ、テレビが倒れたところ、浄水器、炊飯器、空気清浄機、などなど落下。
コップ、ワイングラス、茶碗、ポット、などが被害。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2/17朝追記

企業等のスプリンクラーの異常感知、屋根からの漏水、床の陥没、ドア周辺の異常、シャッターの異常、よくよくみたら・・・という被害が続いている。保険会社は、そもそもシステムに異常があり、初動が遅れたところもあるらしい。LINEなどを登録している顧客には、すこしづつ返信しているらしいが、まだまだ動き出している、とはいいにくい。それまでの対応を被災者各自がおこなう必要がある。

 

 

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2021/02/13

「特選街」 2020年 11 月号 スマートフォンの疑問をズバリ解決!LINEの便利ワザも大公開!<2>

<1>から続く
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「特選街」 2020年 11 月号 スマートフォンの疑問をズバリ解決!LINEの便利ワザも大公開!
2020/10/2 マキノ出版 雑誌 
★★☆☆☆ 

1)昨年12月中旬に、いきなり携帯キャリア会社の担当から電話があって、コースを変えませんか、ときた。聞けば月々2000円ほど安くなるらしい。前々料金の高止まりに不快感を覚えていたから、真面目に話を聞いたが、結構電話では複雑な話であり、年末の多忙期だったので、即答はしかねると、通話を中断した。

2)年明けて、今年は雪が多く、ある朝、仕事がキャンセルになったことをいいことに、近くの携帯ショップに予約に出かけた。通常は、午前中に予約を入れて、午後対応、という感覚なので、店開店と同時に入店して予約をしようとしたところ、ひとつ予約がキャンセルになったところなので、いますぐ応対できますよ、という。

3)せっかくだからと、あれこれ聞いた。おおよそ一時間。必要なことを聞いて、設定してもらうまで、そのくらいの時間はかかる。男性担当のテキパキとした対応は快かった。

4)さて、いくつか問題点を解決してもらったあと、最後にバッテリーが減っていて、もう新しいスマホにしようと思って、情報をもらったが、これが最新の機種にしようとすると、なんと10数万かかるのである。これはもうパソコンと同じ値段か、それ以上の時代だ。私はそれほど高機能で、最新のものが、必要か、いやそうではない。

5)とにかく困っているのは、バッテリーがすぐ亡くなってしまうこと。どうかすると一日に3~4回充電しなければならない。これは困る。以前5年ほど前、似たような問題にぶつかり、修理を検討したところ、市内中央の専門のショップに行かなければならない、という案内で、あまり近寄らない繁華街でしかも予約時間をずらされて対応されたこともあり、あ~あ、面倒だなぁ、という印象であった。

6)しかも、うろ覚えの情報で、バッテリー交換は、数週間かかるうえ、その間、手元にスマホがない、という状態が発生するらしい、という印象があったのである。それは困る。ここは新しい機種と買い替えか、とアキラメ気分だったが、じつは、いやいやそうではないのであった。

7)ダメ元で検索してみると、現在では、市内にもたくさんの修理ショップができていて、しかもすぐ近くのショッピングモールの中には、数店あることを発見。さっそく電話で数軒確認してみると、どこも同じような内容だった。駐車場があって、一時間かかるという待ち時間の間にひまつぶしができる店にでかけ、修理完了となった。

8)結論から言えば、なんだ、早くやればよかった、ということ。私の希望する機能は今の機種で十分なので、まだまだこれは使えるということの再確認となった。6KY前後で修理を終え、いろいろ誓約書を取られ、いろいろ機能チェックされたが、なんら問題はなく、たしかにくすんだ色になっている部分はあるものの、私のスマホとしてはもう、十分なのである。

9)そして思った。これって、パソコン爛熟期と似ているな、と。もうスマホの進化もこれまでだろう。これ以上の機能の追加など、ほとんど必要ない。もう限界だ。必要十分。これ以上追っかける必要もなければ、最新情報に疎いからと言って、うしろめたさを感じる必要はない。

10)むしろ、今ある機種を十分理解し、必要な機能は十分に引き出してあげれば、それでいいのだ。あとは、いかに料金を安くしてくれるかにかかっているだろう。そして、ポスト・スマホ時代が来ているのだな、ということを痛感した。次は、どんなガジェットが登場するかな?

<3>につづく

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2021/02/11

今日の気分はこの三冊<52>

<51>からつづく

1)3・11後、数ヶ月、図書館が閉まって、身動きができなかった。ようやく再開して、貪るように本を読んだ。十分に3・11をまだ取り込めていなかったタイミングだったので、3・11前に出版されていた本もよんだ。その中には、なんだ、この通りではないか、と思わせる予言本のような本も多数あった。

2)その中の3冊が、当ブログが、赤本、黒本、黄色本、と名付けた白眉トリオである。地震、津波、原発。この三大事象を、この三冊は、見事に予言している。ズバリである。科学に基づき、冷静に、適切に、指摘している。これらの本は決してベストセラーではなかった。むしろ冷笑されていた本達である。

3)かく言う私も3・11後に、あらためてこれらに気づいて、実にビックリこいたのであった。沢山の本の中に紛れてはいるが、あるべきものはある。これだけハッキリ予言されていても、明確には把握できていなかったのだ。

 

「NHKスペシャル MEGAQUAKE巨大地震」 ―あなたの大切な人を守り抜くために! <1>
NHKスペシャル取材班 (編集), 2010/02 主婦と生活社ライフプラス編集部 単行本: 95p
★★★★★

「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<1>
飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂 単行本 p234
★★★★★

「原子炉時限爆弾」 大地震におびえる日本列島<1>
広瀬隆 2010/08  ダイヤモンド社 単行本 308p
★★★★★

4)本日は、あの3・11大震災から9年と11か月となる。あとひと月もすると、10年が経過するのである。早いものである。何かが解決しただろうか。何かが進化しただろうか。何かが終了しただろうか。未解決のまま、放置されてしまった課題も、数々ある。

5)世界的なパンデミック禍にある今、さらに来るべきXディーに向けて、今日の私なら、どんな三冊を選ぶだろう。何が起きるのか、何が待ち構えているのか、人生は未知数だ。不安とともに、限りない興味も湧いてくる。

6)今日の私なら、やっぱり、この三冊を選ぶだろう。世界は、地球は、人類は、どうなっているのだ? 人間には、地球人には、私には、どんな道が、方法が、手段が、残されているだろう。この三冊は、その手がかりを、私たちに与えてくれている。

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It's All About Change: The Greatest Challenge to Create a Golden Future for Humanity

Osho(著), Osho International Foundation(編さん)発売日: 2014/5/21 ペーパーバック: 192ページ

「A Course in Meditation」 A 21-Day Workout for Your Consciousness
Osho(著)  2019/09 出版社: Harmony ペーパーバック: 224ページ

Words from a Man of No Words
Osho 2015/12 ペーパーバック Osho Media International  英語 ペーパーバック  136ページ

 

<53>につづく

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「禅の語録 20」 導読  小川 隆

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「禅の語録 20」 導読
小川 隆 (著)  2016/04 出版社 : 筑摩書房 (シリーズ・全集) (日本語) 単行本 292ページ
No.4476 ★★★★★ 

1)熱心に検索しているわけでもないし、妥当な検索ができているわけでもないだろうが、ざっくり近場の図書館を検索しても、唐代の禅者、とか、唐代禅、などという項目では、ヒットがほとんどない。その中でもでてきたのがこの本。この本は20となっているが、シリーズのようだ。今後、一冊づつ検索していってみよう。もっとも、簡単には読み切れないので、ゆっくりでいいや。

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2)戯れに、薬山を検索すると、一か所だけ言及されている程度。

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3)洞山については、5~6か所で言及されているようだが、そちらは後日転写。系統図もそれぞれの書籍によっての表現方法があるようだ。

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4)いろいろ興味深い箇所がいくつもあるが、それは後日のお愉しみにしよう。

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つづく

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Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment OSHO <3>

<2>からつづく

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Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment<3>
Osho (著), Ma Deva Padma (イラスト), 1990/10 出版社 : Rebel Publishing House 言語 : 英語  ハードカバー : 224ページ

★★★★★ 
Osho最後のZENシリーズ目次 

YAKUSAN HAD NOT GIVEN A DISCOURSE FOR SOME TIME WHEN, ONE DAY, THE HEAD MONK CAME AND SAID, "THE CONGREGATION OF MONKS ARE THINKING ABOUT YOUR PREACHING A SERMON."

YAKUSAN SAID, "RING THE BELL!"

THE SUPERIOR BANGED AWAY AT THE BELL, BUT WHEN ALL THE MONKS GATHERED, YAKUSAN WENT BACK TO HIS ROOM. THE HEAD MONK FOLLOWED HIM AND SAID, "THE MASTER WAS GOING TO GIVE A TALK, AND THE MONKS ARE ALL READY; WHY DIDN'T YOU SAY ANYTHING TO THEM?"

YAKUSAN SAID, "THERE ARE SUTRA PRIESTS FOR THE SUTRAS, SHASTRA PRIESTS FOR THE SHASTRAS; WHY DO YOU QUESTION MY GOINGS-ON?" p46
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
1)どこぞの語録か問答集にこの箇所がないか探したが、すぐにはでてこないので、ネットでの自動翻訳を貼り付けておく
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヤクサンはしばらくの間、僧侶の頭が来て、「僧侶の会衆はあなたの説教について考えている」と言ったとき、しばらくの間言説を与えていなかった。

ヤクサンは「ベルを鳴らして!

上司はベルを叩き飛ばしたが、僧侶全員が集まると、ヤクサンは自分の部屋に戻った。僧侶は彼の後を追って、「主人は話をするつもりだった、そして僧侶たちはみんな準備ができている。なぜ彼らに何も言わなかったのですか?

ヤクサンは、「シャストラのシャストラ司祭、経道のための経司祭がいます。なぜあなたは私の行き過ごに疑問を持つのですか? (自動翻訳)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2)表題の薬山は二日目の1989/01/18に登場する。思えば、ちょうどOSHOが肉体を離れる一年前、ということになる。これから3か月、とぎれとぎれの期間を加えながら、彼は89/04/10
まで講話をつづけ、やがて、完全な沈黙へとはいり、1990/01/19に、肉体を離れる。その期間の講話は最後の5冊となって、出版されている。

3)最後の禅シリーズにおける出版物の中においては、歴代の禅師の名前が表題とされているのは、この薬山が最後となるが、さて、薬山とは、どんな禅師だったっけ?

File:Yaoshan Weiyan Image.jpg
薬山惟儼(やくさん・いげん。七四五~八二八)禅師は、山西省、新絳県(しんこうけん)の出身、俗姓は韓(かん)氏、十七歳で潮陽西山の慧照禅師によって出家し、二九歳で衡岳(こうがく)寺の希操律師から具足戒を受け、石頭希遷大師に参じた。

4)つまり石頭禅師の弟子筋ということになるか。いや、同時代ではあるが、決して法脈としての弟子ではないようだ。洞山 や雲居へ法脈をつなげ、やがては道元へ、そして、日本曹洞宗へとつながっていく。

洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗玨 - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元

また、曹洞宗の名前の由来であるが、Wikipediaにはこうある。

道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムとしての宗派を否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。

後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾1268年 - 1325年)とその後席峨山韶碩(1275年 - 1366年)の頃からである。

日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。

「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった[4]。 曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。

 


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4)この日のレクチャーはつぎのように終わる。

Come back, but be silent, be graceful.

Sit for a few moments remembering the golden path you have traveled, remembering all the experiences at the center, and watch.

The shadow of the buddha is behind you.

Every day, inch by inch, the distance between you and your buddha is becoming less and less.

This is what I have called:

Straight to the point of enlightenment!

Okay, Maneesha?

Yes, Beloved Master.

<4>につづく

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2021/02/10

Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment OSHO <2>

<1>からつづく
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Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment<2>
Osho (著), Ma Deva Padma (イラスト), 1990/10 出版社 : Rebel Publishing House 言語 : 英語  ハードカバー : 224ページ

★★★★★ 

1)さてOsho最後のZENシリーズ 27冊の大枠が決まれば 、これからどのようにせめていくかだが、いくつかの方法論が思いつく。
①一冊づつ順番に時系列に並べて読み始める。
②邦訳分を再読し、その間隙の英文を読む。
③まったく手当たり次第、目についたところからランダムに蚕食していく。
④読まない。放置して積読する。
⑤手元のビデオ資料などを援用しながら、立体的に読み解く。
⑥気になるところから読み始める。
⑦「把不住」をキーワードとして、検索しつつ、全体を俯瞰する。


2)どの方法であっても構わないだろう。これまでの15年の無駄歩きを考えれば、これからだって何年かかるかわからない。
①時系列に並べて、まずは風通しを良くして虫干しの意味を込めて、一ページづつめくってみるのもいい。
②邦訳本は大いに役立つが、そこにもうあまり時間はかけないことにしよう。
③この世界観がひとかたまりであるなら、あちこち連動しながら読む必要がでてこよう。
④結果として、またまた積読になったとしても、別段、義務ではないのだから、自分を責めないでおこう。
⑤ビデオは必要だろうが、もともと十分ではないし、ビデオ一本見るのも大変なエネルギーを必要とする。されど、今回は機縁だから、そのビデオの存在をこの27冊関連として整理しておくのも悪くない。
⑥「無門関」「臨済録」「碧巌録」などと並列して、記憶していくのもありか。
⑦おそらくこれが、最初の眼目に一致しているだろう。「把不住」、つまり薬山、洞山、この辺を検索しつつ、深堀する。

3)当ブログにおいては、OSHO-ZENは規定路線である。これ以上外れようがない。ここが突破口ではあるが、これではもひとつ物足らない。ENLIGHTMENTが足らない。そもそも日本文化のよくも悪くも影響下にある当ブログとしては、悟るとか覚醒する、あるいは仏になるなどという言葉は、極めて重要なタブーに属する言語で、一般的には軽々しく使ってはならない言語だとされている。されど、今回はそれでいかんだろう。Straight to the Point of Enlightenment、のような強いメッセージが必要となろう。

4)OSHO-ZEN ーENLIGHTMENTが、ようやく当ブログの三位一体として直視される必要がでてきた。

5)ひょうたんナマズをテーマとするなら、ナマズを禅シリーズと見ることもできる。その時、瓢箪は、当ブログである。なかなか難しい、などとため息をついていては、ここまで追いかけてきた意味がない。ナマズー瓢箪ー村夫子の三位一体のなかで、もっとも重要なのは、追いかけられる目的物でもなく、追いかける手段でもなく、追いかけるその人間その者である。

5)十牛図で言ったら、牛を追いかけてどこにいくのか。捕まえて、乗って、くつろいで、わが家に帰って、そして・・・・? が問われる。

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6)エンライトメント。つかいにくい言葉であるが、この際、ここを避けて通るわけにはいかないだろう。Straight to the Point of Enlightenment。そしてそれはYakusanなのか・・・?

<3>につづく

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2021/02/09

Osho最後のZENシリーズ<6>

<5>からつづく

Osho最後のZENシリーズ

88/04/22 Live Zen
88/05/27 This, This, A Thousand Times This: The Very Essence of Zen  「これ、これ、千回もこれ」
88/06/11 Zen: The Quantum Leap From Mind to No-Mind

88/06/27 Zen: The Solitary Bird, Cuckoo of the Forest
88/07/12 Zen: The Diamond Thunderbolt
88/07/25 Dogen, the Zen Master: A Search and a Fulfillment 「道元」
88/08/02 The Miracle
88/08/12 Turning In
88/08/16 The Original Man
88/08/29 The Language of Existence
88/09/08 The Buddha: The Emptiness of the Heart
88/09/16 Ma Tzu: The Empty Mirror「空っぽの鏡・馬祖」

88/09/26 Hyakujo: The Everest of Zen, with Basho's Haikus
88/10/05 Nansen: The Point of Departure
88/10/15 Joshu: The Lion's Roar
88/10/23 Rinzai: Master of the Irrational 、「臨在録」
88/11/01 Isan: No Footprints in the Blue Sky

88/12/03 Kyozan: A True Man of Zen
88/12/26 No Mind: The Flowers of Eternity 、「ノーマインド」
89/01/08 Zen: The Mystery and The Poetry of the Beyond
89/01/13 One Seed Makes the Whole Earth Green
89/01/17 Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment
89/01/22 Christianity: The Deadliest Poison and Zen: The Antidote to All Poisons 
89/01/30 Communism and Zen Fire, Zen Wind
89/02/06 God is Dead, Now Zen is the Only Living Truth
89/02/13  I  Celebrate Myself: God Is No Where, Life Is Now Here
89/02/20 The Zen Manifesto: Freedom From Oneself 「禅宣言」

<7>につづく

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I celebrate myself: God is no where--life is now here OSHO <1>

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I celebrate myself: God is no where--life is now here<1> 
OSHO (英語) ハードカバー 言語 : 英語

No.4475  ★★★★☆ 
Osho最後のZENシリーズ目次 

<2>につづく

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Zen: The Mystery and the Poetry of the Beyond OSHO <1>

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Zen: The Mystery and the Poetry of the Beyond<1>
Osho Rajneesh (著)  1992/01 出版社 : Osho Intl  (英語) ハードカバー

No.4474 ★★★★☆ 
Osho最後のZENシリーズ目次 

continued to <2>

 

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Kyozan: A True Man of Zen OSHO <4>

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Kyozan: A True Man of Zen<4>
OSHO 1990/1 出版社 : Rebel Publishing House (英語) ハードカバー

No.4473 ★★★★☆ 
Osho最後のZENシリーズ目次 


Kyozan was a very simple man - not the philosophic kind, not a poet, nor a sculptor. Nothing can be said about him except that he was absolutely authentic, honest. If he does not know a thing he will say so, even at the risk of people thinking that he has fallen from his enlightenment. But this makes him a unique master.

Zen is full of unique masters, but Kyozan's uniqueness is his simplicity. He is just like a child. It took Isan, his master, forty years of hard work to make Kyozan enlightened. He was determined, and he said he would not leave the body until Kyozan became enlightened - though he was old enough.

Kyozan did everything that Isan said, but nothing penetrated to his very being. He was a very ordinary man. Heaven and hell, God and the beyond had never worried him. He was not a seeker in the sense every seeker is - a seeker of truth.

No, he was not seeking truth, because he is reported to have said that, "If you are seeking the truth you have certainly accepted that truth exists, and I will not accept anything on belief. So I am just seeking, searching in all directions, trying to come in tune with the universe. It may be just my fallacy, my fantasy, but I want to go without any prejudice."

Even the prejudice may prove right, but when a prejudice proves right, you will never know the truth.

You will go on projecting your prejudice. And you can create a whole paraphernalia of prejudices, a system of beliefs - rational, logical, appealing, presentable - but if belief is the base stone on which you are creating the whole palace, you are working unnecessarily hard.

Nobody can come to know the truth by any preconceived idea. His preconceived idea will give a certain shape, a certain color to the experience. The experience will not be pure. It will be as polluted as Poona's air!

But Isan, it seems, took it as a challenge: if an ordinary man like Kyozan cannot be transformed into a buddha, how can you allow others to trust in the existence of the buddha?

All the religions have done just the contrary. Krishna is God's incarnation, so is Rama, so is Parasurama. They have made them sit on such a high pedestal that you can only worship, you can only pray; you cannot conceive that you yourself can also experience what these people on the heights are experiencing.

And the creation of hierarchies makes it difficult for almost anyone to be unprejudiced. When the child is born, we have good intentions, but good intentions do not mean that they are going to lead you to the truth. Everybody is burdened with good intentions - with Shrimad Bhagavadgita, with the Holy Koran, with the Holy Bible. Continuously repeating anything, slowly slowly it becomes a truth to you. And for centuries these religions have been repeating.

Isan chose Kyozan to be his successor. It took forty years of tremendous work on him, because he was a simple man, and in the first place he was not in search of truth. Just think of some man who is not in search of truth, and you go on knocking on his door every day.

Look at the Witnesses of Jehovah! Whether you want to listen to them or not - that is immaterial - you have to listen, you have to confess. And now Pope the Polack has made it a sin... He is a discoverer of a new sin - all old sinners who are dead must be tossing and turning in their graves that they missed - he has declared that to confess to God directly is a sin; you should go through the right channel. You should go to the priest, confess to him, receive the punishment, and the priest will take care of you, so that on the Judgment Day when God opens all the graves, the priest will be a witness that, "This fellow is good; as punishment he has given five dollars to you."

But God is going to be in a difficulty, particularly in India. Most of the population believe in fire and burn the dead body. When he opens the Hindu graves, he himself may freak out - just skeletons, and not even a passport! But I always think how you will look, something similar to the photo that you are carrying in your passport but without the skin.

And I cannot conceive that the judgment is going to be over in one day. In the millions of years, trillions of people have lived on the earth. Some researcher has calculated that, wherever you are sitting, you are sitting on ten dead men's skeletons. Don't be afraid, they are very good people! And remember also that the judgment is not only for men. Women will also be there. And women will be chattering so much: "What is the news? Who are the new arrivals?"

I don't think God will be able to manage, and perhaps that is the reason Jesus says, "The Judgment Day is coming soon - in your life," but it has not even come up to now, though two thousand years have passed. I can say to you the judgment will never come, because it is not feasible.

And there will be on Judgment Day a tremendous bloodless fight amongst the skeletons; because one man has been a husband in his hundreds of lives to hundreds of women, one woman has been a wife to hundreds of men in her past lives. And everybody will be pulling at each other. Somebody is pulling at your leg, "Where are you going?" The whole world will be such a mess that I say unto you definitively that the idea of judgment has been postponed forever.

Choosing Kyozan as his successor, and waiting for forty years - what patience! - almost transforming a stone into a diamond. But Isan was determined to make one point absolutely clear to humanity: if Kyozan, a simple and ordinary person, not belonging to any speciality, any category, without any talent, any genius - if he can become enlightened, it will be a proof. To give this proof to humanity he chose Kyozan and worked hard on him. And the day Kyozan became enlightened, the day Isan transferred his enlightenment and the two flames became one, Isan disappeared from the world of matter, body, mind.

Kyozan was so radiant now. He was not only once enlightened, he was twice enlightened. His master has given him richer experiences, far deeper spaces, far clearer skies. P3

to be continued 

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「ノーマインド―永遠の花々」OSHO <7>

<6>からつづく

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「ノーマインド」永遠の花々<7>
OSHOスワミ・アドヴァイト・パルヴァ スワミ・アナンド・ソパン 1994/01 壮神社 単行本: 361ページ

1)裏表紙見返しに、このリストがあったので、貼り付けておく。

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2)またパルバは、この「ノーマインド」シリーズを、後ろから数えて12番目と表現しているが、当ブログが数えてみると、後ろからは9番目、ということになる。なぜ、そのような違いがでるのか、今後、調べてみることとする。

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<8>につづく

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ニシクリア OSHO NEWS


Of Coincidence and Guardian Angels | Osho News

以下はPCの自動翻訳。意味不明になってしまうところが多々あるが、概略が分からないわけじゃない。

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偶然と守護天使の‎

‎プロフィール > 人‎




‎ドイツOTIのオーレは、ノスクリヤ(別名ストーンヘッドニスクリヤ)と話しました - 有名な「最初のドイツの禅師」、Oshoとの関係と人生の感謝について話しました。‎

Niskriya, 2019

‎ニスクリヤ(2019年)‎

‎どうやってオショに来たの?‎

‎それは1978年だったに違いない - 私は非常に好奇心を持って私を作ったOshoについての記事を読んでいた。特にこの無料セックスは非常に魅力的に聞こえました!それ以来、私はプーナに行きたかった。しかし、それが私にとって具体的になるまでに1982年までまだかかりました。きっかけはサティヤナンダの著書『‎‎ガンツ・エントスパント・イム・ヒエル・ウント・ジェッツ(宇宙のマッドハウス)』‎‎でした。特に、オショの一節に感動しました。終わると、ベルリン・センターのヴィハンで「バグワンズ」と呼んだのが、日曜日だったのを覚えていて、誰かが電話に出て、本を買えないかと聞きました。彼らは‎‎私に従って来‎‎ただけだった [新しいタイトル:‎‎あなたに従って来る‎‎] - イエスについての本.彼らは13部を持っていました。私はそれらをすべて買った。‎

‎すべての13コピー?‎

‎はい!私は絶対に私の母とまたイエスに興味を持っていた数人の友人のためにちょうど正しいことを見つけたことを確信していました。しかし、私は非常に間違っていました。私は本当にその本が彼らを冷たくしたことを理解できませんでした。私はイエスについてそんなに素晴らしいものを読んだことがありませんでした。そして、ドイツ語でも詩的でした。この社会における理解の欠如は、私にとって常に謎でした。ジャーナリストでさえ理解したくなかった。‎

‎その後、私はサニヤシンが世間の目にかなり愚かに見えたので、私はOshoについての映画を作ることを決意しました。彼らの両親から主に侮辱や理解の欠如が来ました:「どのようにそのようなチャーラタンを追いかけることができますか?」または「なぜあなたはこの宗派に加わったのですか?一部の若者は受け継がれなかった。だから、彼らが両親に贈り物として、説明の一種として与えることができる映画を作りたかったのです。‎

‎そして、あなたはこの映画を作りましたか?‎

‎はい、しかし、それはすべて私が想像していたよりも非常に異なって判明しました。この過程で、私はそれが間違っているか不公平だと思っても、すべてが正しいという確信を持つことが許されました。私は包括的で実存的な知性を信じています。私は常にこの知性を信頼するために挑戦を感じています。私の人生の多くの偶然は、この点で私を助けます。‎

‎私に例を挙げてください.‎

‎1991年12月25日、ソ連大統領のテレビでの別れのスピーチの日に、非常に驚くべき偶然が起こりました。この日、私の映画の3番目の部分、‎‎自由はあなたの自然‎‎です。.その中でOshoは言う:「同志ゴルバチョフ、それはあなたの国に資本主義を導入することは間違いです。むしろ、瞑想を紹介すべきです!ゴルバチョフへのこの個人的なアドレスは、彼の辞任のまさに日に画面を横切って実行していた!‎

‎作家やプロデューサーとして、私はソ連のテレビに4時間半の3部構成の映画を提供していました。1991年12月23日から25日までゴールデンタイムに放送されました。これらはソ連の最後の3日間でした。‎

‎これは、この大きな偶然のおかげで起こった:プログラムディレクターは、彼が放送権を購入したいかどうかを決定するために、VHSコピーを家に持ち帰りました。妻もそれを見ていたので、彼はトイレ休憩中にカセットを止めなかった。ずっと後に、1992年に繰り返し放送された後、彼は彼が留守の間に、Oshoは声を上げてかなり大きくなったと私に言いました!そして、そのために彼は映画を買っていなかったでしょう。悟りを開いた者は、オソーが悟りを開いていなくても、彼の声を上げることはありません。確かに、彼はこの見解に固執しませんでしたが、適切な瞬間におしっこ休憩の幸運な偶然がなければ、映画はロシアの観客を逃れ、今日ではロシアのサニヤシンが大幅に少なくなります。‎

‎残念ながら、私は「偶然の日記」を保持していません。それはとても面白かったでしょう!事は:多くの偶然は、あなたがそれをほとんど信じられないほど神秘的です。しかし、最も美しく、瞬間的な一連の偶然が私をOshoに導き、私を一晩で「彼の」カメラマンにしました。‎

‎おそらく、現時点ではそのような登録をしていない偶然もあります。しかし、あなたはする必要があります!偶然は遊び心があると思うので、気づかれたい、「あなたが本当に理解することはほとんどありません」と私に言い続ける神の実存的な力。私にとって、精神性全体、神の探求、またはあなたがそれを呼び出したいものは何でも知りません。‎

‎私が神という言葉を使うとき、私は「知らない」という意味です。未知ではなく、知らない!これはエキサイティングではありませんが、非常にリラックスしています。なぜなら、何かが知らない場合、私はそれを理解しようとする必要はありません。‎

‎あなたは、Oshoの言説の多くを記録したことでサニヤスサークルで認識されていますか?‎

‎はい、そうします。これらの対話は、多くの場合、次のように行きます。‎

‎「ニスクリヤ、私たちはあなたがしたことのためにあなたに多くの借りがあります。ありがとう!‎

‎「もし私がそれをしていなかったら、他の誰かが持っていただろう」‎

‎「はい、しかし、それほどうまくはありません。‎

‎そして、それには何かがあるかもしれません。サニヤシンの品質に対する意識は、必ずしもあまり顕著ではありませんでした。‎

‎そして、これが私がOshoのカメラマンになった方法です:‎

‎私はちょうど3Dカメラを一緒に石畳にし、私はベルリンのグルーネヴァルトでそれで撮影した最初の撮影を見たとき、興奮しました。それから私はこの技術で何を撮影したくったのか考えました - そしてすぐに思いついた:Osho!‎

‎だから、私のガールフレンド、ロキタ、そして私はカトマンズに行きました。私たちはオベロイホテルの3階のドアをノックし、そこでチームが見つかると思いました。ドアが開き、私たちはオソの最も近い円の厳しい顔を見ました。私たちは不安を感じ、追い返されました。私たちは明日戻ってくるはずだった。‎

‎その後、私は急いでカメラを引き出しました:「ちょうど尋ねたかった.突然顔が明るくなり、誰もが言った:「入って!彼らの不機嫌の理由は、彼らがカメラマンと抱えていた問題でした。写真は焦点が合っていないし、音が悪かった。Oshoはそれについて「面白くない」と言っていたし、それがうまくいかない場合、彼は話すのをやめるだろうと言っていた。‎

‎翌朝、私は彼の前に1メートル座って3Dで撮影しました。私は完全に幸せでした。私は滞在し、オショが話すのをやめるまで、その後約1000の言説を撮影しました。
Niskriya with his son, Sekito

‎ニスクリヤと関人‎

‎あなたとオショの関係はどのようなものですか?‎

‎私の気持ちは、Oshoが私と私の完璧主義に面白がっていたということです。彼は講義で私のことをよく言い、私をからかった。彼は私をストーンヘッド・ニスクリヤ、最初のドイツのゼンマスターと呼びました。これ以来、私が頭を剃っている理由でもあります。当時、私はバズカットを受け、明らかに十分に短くはありませんでした。オショは「それでオフ」と言った。その後、翌朝:「非常に良い、ニスクリヤ。でも、あごひげも行かねなくてはなれ。オショはいわば私を「スタイリング」した。その後、鏡の前に立ち、「なぜ自分で考えなかったのか?これははるかに良いです - このハゲの頭は本当に私に合っています。‎

‎Oshoは信じられないほど敏感で、私がしばしば緊張していることに気づきました。例えばウルグアイで:私は良いマイクを買うが、オーディオの質が悪いために非常に苦しんだ。私はドイツからの良いマイクのための長い待ち時間について興奮しました, 約束したが、来ていない, これは聞いて私の喜びを乱しました.Oshoは、私が彼の言葉を可能な限り最高の品質でアーカイブする情熱を持っていることを知っていました、 彼の遺産の中で私は世界への希望を見ました - そして、私は本当に彼を地球上で最も危険な男と考えました。‎

‎ロナルド・レーガンと彼のドイツの顧問ラッツィンガー、後の教皇は、彼に何としても停止しなければならない危険を見ました!世界中の人々を愛情深く知的な生活に助けるOshoの可能性は、確立された宗教、犯罪者、環境犯罪者にとって大きな脅威でした。しかし、Oshoの可能性を真剣に受け止める人はほとんどいませんでした。だから、彼の言葉は彼らが当然の注意を得ることはありませんでした。‎

‎それは私だけに関係しているわけではありません - それは偉大な人間の問題です。私たちは皆、私たちを脅かすものを知っています!しかし、私たちは座っている枝を見送っています。洞察力と行動は互いに全く対照的です。地球上で最も知的であると思われる存在は、どのロバよりもダンバーを演じている。それはばかげている場合は?私はかつて彼が言うのを聞いた、人間が忍耐すれば、何も失われない。それは本当に存在への感謝の気持ちを殺す「悲劇」でしょうか?オショのためではなく、私は推測します。彼はISに降伏しすぎた。‎

‎なぜ彼は言説で私と冗談を言い続けたのですか?仮説:私が自分で見た不条理は、Oshoも見ました。‎

‎特に催眠の段階では、私はそれを呼び出すように、誰もが平らに落ちたが、私と私は1000仏の伸びた塊から際立っていた。私は三脚の後ろに通常の狂気のうずくまっているイメージでした.私はそれが彼を楽しませたと思います。‎

‎1986-1987年、オショは彼を受け入れる国がなかったので、世界中を旅しました。あなたはいつも彼に同行しましたか。‎

‎ほとんど – 私はドイツにほんの数短い旅行を取った.オショがウルグアイに到着したとき、私はちょうどハンブルクでラジェンとグループをやっていました。セックスがたくさんあり、私は本当にそれを楽しんだ。グループの最高の瞬間に、私は電話を受けました:「ニスクリヤ、あなたはオショを撮影するために、ウルグアイに来なければなりません!‎

‎最初は感謝の気持ちはかけ離れていましたが、新しいビデオ技術が出てきたばかりなので、新しい機器を買って喜んでいました。(そして、彼は私が到着した後にのみ話し始めました。ジャマイカ、ポルトガル、クレタ島、ボンベイのどちらでも、装備はいつも私と一緒に旅行しました。プーナのために私はライヤジと一緒に、本当にプロの機器を買った。それは本当の冒険でした。Betacamsはインドで300%の輸入税を納めていたので、私たちはフライトレコーダーとしてすべてをカモフラージュし、プラディポのおかげで!– 単一エンジンセスナでそれをすべて輸送.それは完全に過負荷でしたが、多くの幸運でインドへのフライトを行いました。‎

‎あなたのサニヤの名前はどういう意味ですか?‎

‎シュニヤム・ニスクリヤは「そうでなければ、神は」と訳されました。しかし、サンスクリット語では「空虚」と「何もしない」という意味です。私はそれを聞いたとき、それはショックだった - 最終的に私は怠惰だから。誰も私についてそれを感じていない - しかし、私はそうします。それは私の性質です。私は私の頭の中で完全に空の感覚を持っているように。「神は流れ込むことができる」という肯定的な意味ではなく、行方不明、忘れ、迷子になるという意味で。それは常にそうでした。‎

‎私が16歳のとき、私は私の銀行見習いについてのドキュメンタリーを作りました。タイトル:‎‎リーリング‎‎(見習い) – それで、私は中空の頭のように感じました.(ドイツ語では言葉に遊びがあります。見習いは‎‎'hrhren'、‎‎学習を指す'h'{Lehring}でスペルトする必要がありますが、彼は空虚のヒントとして2つの'ee'、'Leere ')‎‎でそれを書いています。 ‎

‎今年は感謝の気持ちを持って何かあったことはありますか?‎

‎そうそう - 何度も何度も!最近自転車で事故に遭った。次の緑色の信号を通り抜けるために加速している間に前輪が詰まった。誰かが後で私のスポークに巻き込まれた枝を見たと私に言った。ハンドルバーの上を飛んだタイヤの眺めしか覚えていない。その後、すべてが黒くなった。‎

‎私には何も起こらなかったことは本当の奇跡です。私はヘルメットなしで頭の全力でアスファルトを打った。私の眼鏡が壊れていた。私の膝と片目の傷を除いて、何も起こらなかった。私は文字通り黒い目で降りた。その後、私は再びすべてが終了する方法を実現しました。‎

‎守護天使の感覚は私の人生全体を駆け抜けます。事故後に意識を取り戻したとき、私の最初の気持ちは、穏やかな出来事に対する大きな感謝の気持ちの一つでした。私はあまりにも頻繁にそれらを必要とするために守護天使に謝罪する必要があります。‎

‎あなたは自分自身を宗教的と表現しますか?‎

‎そこに神と一緒ではありません。しかし、可能な限り目を覚まし、内側からの指導を信頼して感謝して生きるために。‎

‎感謝の気持ちはあなたを幸せにします。‎

‎医者は最近、私は多発性神経障害を持っていると私に言った - 神経と筋肉の間のコミュニケーションが損なわれています。足がきちんと感じなくなり、歩きが少し不安定になります。これは多くの痛みを引き起こす可能性があります。これまでのところ、私はそれから免れてきたので、毎日が幸せの正当な理由です。‎

‎私は今文句を言うことができました:「たわごと!私は酔っ払いでも糖尿病でもなく、まだPNPを持っています。いいえ!受け入れ方が良いです。リラックスすることによってのみ、あなたは喜び、創造性と成長に開くことができます。‎

‎ニスクリヤに連絡したい人は誰でもnis@stonehead.deで彼に手紙を書くことができます‎

cover of German Osho Times issue qw, 2019‎この記事はもともとドイツOshoタイムズ、12月号に掲載されました, テーマと一緒に: ありがとう - それは素晴らしい年でした.‎‎www.oshotimes.de‎

‎スラジャーノ、プニャ、マドゥリにドイツ語からの翻訳‎

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ニシクリア ドイツ人 禅マスター

 

最後の禅シリーズLIVE ZEN は、ドイツ人 禅マスター、ニシクリアの登場から始まる。そこで、戯れに検索してみると、ちょうど一年前の記事が登場した。近況を知るためにも、ここに貼り付けておく。

Of Coincidence and Guardian Angels | Osho News

 

自動翻訳は次のページに貼り付けることにする。

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Of Coincidence and Guardian Angels

PROFILES > PEOPLE




Ole from German OTI talked to Niskriya (aka Stonehead Niskriya) – famous ‘First German Zen Master’, about his relationship with Osho and his gratitudes in life.
Niskriya, 2019

Niskriya, 2019

How did you come to Osho?

It must have been 1978 – I was reading an article about Osho which made me very curious. Especially this free sex sounded very tempting! Since then I wanted to go to Poona. But it still took until 1982 for it to become concrete for me. The trigger was Satyananda’s book, Ganz entspannt im Hier und Jetzt (The Cosmic Madhouse). I was especially touched by the passages from Osho. When I finished it, I immediately called the ‘Bhagwans’ at Vihan, the Berlin Center – I remember it was a Sunday, and yet someone answered the phone – and I asked if I could buy a book. They only had Come Follow Me [new title: Come Follow to You] – a book about Jesus. They had 13 copies. I bought them all.

All 13 copies?

Yes! I was absolutely sure that I had found just the right thing for my mother and a few friends who were also interested in Jesus. But I was very much mistaken. I really could not understand that the book left them cold. Never before had I read anything so fantastic about Jesus. And it was poetic too – even in German. This lack of understanding in society has always been a mystery to me. Even the journalists didn’t want to understand.

Later I was determined to make a film about Osho because the sannyasins looked pretty stupid in the public eye. From their parents came mainly insults or lack of understanding: “How can you chase after such a charlatan!” or “Why did you join this sect?” Some young people were even disinherited. So I wanted to make a film that they could give to their parents as a gift, as a kind of explanation.

And did you make this film?

Yes, but it all turned out very differently than I had imagined. In this process I was allowed to come to the conviction that everything is right as it IS – even if I think it is wrong or unfair. I believe in an all-encompassing, existential intelligence. I feel constantly challenged to trust this intelligence. The many coincidences in my life help me in this respect.

Give me an example…

A very remarkable coincidence happened on December 25, 1991, the day of the Soviet President’s farewell speech on TV. On this very day the third part of my film, Freedom Is Your Nature, was being broadcast. In it Osho says: “Comrade Gorbachev, it is a mistake to introduce capitalism in your country. Rather, you should introduce meditation!” This personal address to Gorbachev happened to be running across the screen on the very day of his resignation!

As a writer and producer I had offered the four-and-a-half-hour three-part film to Soviet TV. It was broadcast at prime time from 23 to 25 December 1991. Those were the last three days of the Soviet Union.

This happened thanks to this big coincidence: The programme director, in order to decide if he wanted to purchase the broadcasting rights, took a VHS copy home. Because his wife was also watching it, he did not stop the cassette during a toilet break. Much later, after a repeat broadcast in 1992, he told me that while he was away, Osho had raised his voice and become quite loud!, and because of that he would not have bought the film. An enlightened one never raises his voice – as if Osho was not enlightened! Admittedly, he didn’t stick to this view, but without the lucky coincidence of a pee break at the right moment, the film would have escaped the Russian audience, and there would be significantly fewer Russian sannyasins today.

Unfortunately, I have not kept a ‘coincidence diary’. That would have been so interesting! The thing is: many coincidences are so mysterious that you can hardly believe it. But the most beautiful and momentous series of coincidences led me to Osho and made me ‘his’ cameraman overnight.

Probably there are also coincidences that you don’t even register as such at the very moment. But you should! Because I think coincidence is playful – it wants to be noticed and appreciated! A divine existential force that keeps telling me: “Look how little you really understand.” For me the whole spirituality – or the search for God, or whatever you want to call it – is not knowable.

When I use the word God I mean ‘the unknowable’. Not the unknown, but the unknowable! This is not exciting, but tremendously relaxing. Because, if something is unknowable I don’t have to try to understand it.

Do you get recognition in sannyas circles for having recorded so many of Osho’s discourses?

Yes, I do. These dialogues often go like this:

“Niskriya, we owe you so much for what you have done. Thank you!”

“If I hadn’t done it, someone else would have.”

“Yes, but not as nicely.”

And there may be something to that. The awareness for quality among the sannyasins was not always very pronounced.

And this is how I became Osho’s cameraman:

I had just cobbled together a 3D camera and was thrilled when I saw the first shoots I had taken with it in Berlin’s Grunewald. Then I pondered about what I would like to film with this technology – and quickly came up with: Osho!

So, my girlfriend, Lokita, and I went to Kathmandu. We knocked at a door on the third floor of the Oberoi Hotel where we suspected the team was to be found. The door opened and we looked into the grim faces of Osho’s closest circle. We were disturbing, and were turned away; we were supposed to come back tomorrow.

I then hurriedly pulled out my camera: “Just wanted to ask…” Suddenly the faces lit up and everybody said: “Come in!” The reason for their bad mood was a problem they had with the cameraman. The pictures were out of focus and the sound was bad. Osho was “not amused” about it and had said that if it wouldn’t work he would stop talking.

The next morning I sat one metre in front of him and filmed in 3D. I was totally happy; I stayed on and filmed about 1000 discourses from then until Osho stopped speaking
.Niskriya with his son, Sekito

Niskriya with Sekito

What kind of relationship developed between you and Osho?

My feeling was that Osho was amused by me and my perfectionism. He mentioned me very often in his lectures and made fun of me. He called me Stonehead Niskriya, the First German Zenmaster. This is also the reason why I’ve been shaving my head ever since. At the time I had a buzz cut, which apparently was not short enough. Osho said, “Off with it.” Then the next morning: “Very good, Niskriya. But the beard has to go too.” Osho ‘styled’ me, so to speak. Later I stood in front of the mirror and asked myself, “Why didn’t I think of it myself? This is much better – this bald head really suits me.”

Osho was unbelievably sensitive and noticed how tense I often was. For example in Uruguay: I could not buy a good microphone and suffered extremely because of the poor quality of the audio. I was annoyed about the long wait for a good microphone from Germany, promised but not coming, and this disturbed my joy in listening. Osho knew that I had a passion for archiving his words in the best possible quality, for in his legacy I saw the hope for the world – and I really considered him the most dangerous man on the globe.

Ronald Reagan and his German advisor Ratzinger, the later Pope, saw in him a danger that had to be stopped at all costs! Osho’s potential to help all people worldwide to a loving, intelligent life was a massive threat to established religions, criminals and environmental sinners. But hardly anyone took Osho’s potential seriously. So his words never got the attention they deserved.

It doesn’t just concern me – it is THE great human problem. We all know what threatens us! And yet we are sawing off the branch on which we are sitting. Insight and action are in stark contrast with each other. The supposedly most intelligent being on earth is acting dumber than any donkey. If that isn’t absurd? I once heard him say, if man perishes, nothing much is lost. Would that really be a ‘tragedy’ that would kill his gratitude to existence? Not for Osho, I guess. He was too surrendered to what IS.

Why did he keep joking with me in discourse? Hypothesis: The absurdity I saw in myself, Osho saw also.

Especially during the hypnosis stage, as I call it, in which everyone fell back flat but me and I stood out from the stretched-out mass of 1000 Buddhas. I was a crouching image of normal madness behind a tripod… I think it amused him.

In 1986-1987, Osho travelled across the world, because no country would accept him. Did you always accompany him?

Mostly – I took only a few short trips to Germany. When Osho arrived in Uruguay, I was just then doing a group with Rajen in Hamburg. There was a lot of sex and I really enjoyed it. At the best moment of the group I got a call: “Niskriya, you have to come to Uruguay, to film Osho!”

At first I was far from grateful, but then I was happy to leave and bought new equipment because new video technology had just come out. (And he only started talking after I arrived… ) Whether Jamaica, Portugal, Crete or Bombay – the equipment always travelled with me. For Poona I bought, together with Raiyaj, truly professional equipment. That was a real adventure. Because the Betacams carried a 300% import tax in India, we camouflaged everything as flight recorders and – thanks to Pradipo! – transported it all in a single-engined Cessna. It was totally overloaded, but with a lot of luck it made the flight to India.

What does your sannyas name mean?

Shunyam Niskriya was translated as ‘If you are not, God is’. But in Sanskrit it means ’emptiness’ and ‘doing nothing’. It was a shock when I heard that – because ultimately I’m lazy. Nobody feels that about me – but I do. It’s my nature. Just as I have the feeling of being completely empty in my head. Not in the positive sense of ‘God can flow in’, but in the sense of missing, forgetting and getting lost. It has always been so.

When I was 16, I made a documentary about my banking apprenticeship. Title: Leerling (Apprenticeship) – so even then I felt like a hollow head. (In German there is a play on words. Apprenticeship would need to be spelt with an ‘h’ {Lehring} as it refers to ‘lehren‘, learning, but he writes it with two ‘ee’s as a hint to emptiness, ‘Leere‘.)

Is there anything that happened this year for which you are grateful?

Oh yes – again and again! I recently had an accident with my bicycle. The front wheel blocked while I was accelerating to make it through the next green traffic light. Someone told me later they had seen a branch caught in my spokes. I only remember the view of the tire as I flew over the handlebars. Then everything went black.

That nothing happened to me is a real miracle. I hit the asphalt with my head full force without a helmet. My glasses were broken. Except scratches on my knees and one eye nothing happened. I literally got off with a black eye. Then I realized again how quickly everything can end.

A sense of guardian angels runs through my whole life. When I regained consciousness after the accident, my first feeling was one of great gratitude for the mild course of events. I should apologize to the guardian angels for needing them too often.

Would you describe yourself as religious?

Not with a God up there. But to live gratefully as awake as possible, trusting in the guidance from within.

Gratitude makes you happy.

The doctor recently told me I have polyneuropathy – the communication between nerves and muscles is impaired. I can no longer feel my feet properly and my walk is slightly unsteady. This can cause a lot of pain. So far I have been spared from that, so every day is a good reason for happiness.

I could complain now: “Shit! I was neither a drunk nor a diabetic and still have PNP.” No! Acceptance is better. Only by being relaxed can you be open to pleasure, creativity and growth.

Anyone who wishes to contact Niskriya can write to him at nis@stonehead.de

cover of German Osho Times issue qw, 2019This article was originally published in the German Osho Times, December 2019 issue, with the Theme: Thank you – It has been a wonderful year. www.oshotimes.de

Translation from German thanks to Srajano, Punya and Madhuri

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最後の禅シリーズ<5>

<4>からつづく

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1)気づいてみれば、「TALK ON ZEN」シリーズ全5冊の裏表紙見返しには、次のような文言が印刷されている。

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2)つまり、1989/01/07において、バグワン・シュリは、「神」を意味しているところから、ドロップ(廃止)されたということだ。それは、これまでの当ブログのカレンダーによれば、それは
88/12/26 89/01/07 No Mind: The Flowers of Eternity 「ノーマインド永遠の花々」 
に含まれているはず。



3)(ここで個人的な苦言を申し上げておきたいが、邦訳本には日付がはっきりしない出版物が多い。そもそも市民出版社の本には、本自体が発行された日付が記述されていないことも多く、ましてや、OSHOの講話の日付などは、まったく無視されていることが多い。時間が経過してからの読書には、不親切だなぁ、といつも思う。)

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4)そして1989/02/27には、OSHO、と呼ばれることになる。それは、日本においてつかわれ、また慧可によって達磨が呼ばれた言葉だとされる。Oは尊敬であり、SHOは大きな意識、程度の意味であろうか? それは、89/02/20 89/04/10 The Zen Manifesto: Freedom From Oneself 「禅宣言」 の期間に含まれていることになる。

5)ただただ文面を追いかけていただけでは、臨場感がうすい。 

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6)「禅宣言」邦訳のパルバの訳者あとがきは、迫真の描写力である。OSHOの最後の日までの繋がりがよく見えてくる。そして、ここで分かったことは、質問としては、最後の4月10日は、なんと「洞山録」からのテーマだったことが、あらためて、確認されることになる。

<6>につづく

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「瓢鮎図」-如拙筆 ひょうたんなまずのイコノロジー 絵は語る (5) 島尾 新

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「瓢鮎図」-如拙筆 ひょうたんなまずのイコノロジー 絵は語る (5)
島尾 新 (著)  1995/06 出版社 平凡社 (日本語) 大型本 117ページ
No.4472★★★★☆ 

1)こちらは大判の図版入りの一冊だが、こちらが求めている内容としては、芳澤 勝弘著「『瓢鮎図』の謎」を超えてはいない。

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2)大図版本だけに、印刷面は鮮明だが、そもそも原画は水墨画であるがゆえに、もともと全体がボケている。まぁ、鑑賞する側からすれば、そこがいいのだ、ということになるのであろうが。

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3)それと、ほかのひょうたんナマズの絵も紹介されている。

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4)当ブログとしては、結局、第28句の、「把不住」を把むことができれば、それでいいのであるが。

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5)解釈としては、それほど大きな変化はなさそうだ。

 

読む経の一つとなりし春の堂   把不住

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はじめての「禅問答」 自分を打ち破るために読め! 山田 史生 <1>

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はじ めての「禅問答」 自分を打ち破るために読め! <1>
山田 史生 (著) 2013/02 出版社 : 光文社 新書 : 222ページ 
No.4471★★★☆☆ 

1)この書を読んでいて、わが青春時代の「雀の森」を思い出した。旅にでて、たくさんの体験をし、議論し、恋をし、冒険をし、失敗をし、そして高みの祝杯を時には挙げた。議論に次ぐ議論、言葉の捏造、論理の捏造、推論の限りをつくし、罵倒し、傾倒し、疑問、暗中模索となり、ケツから血を流しながら、町をさまよい、山を登ったり、海をみていた日々。

2)だれにもある若い時、青春時代、などと言わせまい。わが体験はわが体験。なんともしがたい郷愁さえも漂わせてよみがえる、あの苦闘の日々。羅針盤などなく、闘う刀や矢さえなかった。頼るものなく、自らの自身さえ、なかった。ただただ、内側から沸き立ってくる血潮、マグマのごときパトスに突き動かされて、爆発寸前の日々・

3)今でいえば、単なる若者宿、シェアハウス。その、われらがコミューンの中で、私たちは、きっと鍛えられていたのだ。指導者もなく、教理もなく、手段もなく、成功例もなかった。挫折と危険と、臆病な、そして失神しそうな、ないまぜとなった日々。そして明瞭に働き続ける、頭脳、あるいは意識。

4)あの怒涛のようなマグマの日々。あれこそは、若きわが仲間たちが作り上げ、体験しあった、禅問答であったに違いない。あのマグマ、やがては、流れ出し、小さな爆発を繰り返しながら、いつかは流れるべき道へ流れ出し、形づくり、冷えて、固まっていったのだ。

5)いや、外見は固まったように見えるが、中身は、おそらくまだ熱い。固まって身動きできなくなってしまったわけではない。ただ、熱は冷め、形を整えて、安定するべき時は来る。そしてその形はやがてまた、熱きマグマによって、ぐちゃぐちゃになる。形があったなどと思っているのは、ほんのちょっとの間だけだ。やがて爆発、流動する。その繰り返しだ。じん

6)あの熱きもの。マグマ。噴火。爆発。あかあかと燃える血潮。人生とはなにか。命とはなにか。地球は、宇宙は、死とは? 疑問だらけの人生。哲学に求め、心理学に求め、物理を語りあい、政治を思った。未来を語り、歴史を俯瞰しあう。旅し、思索し、そして瞑想した。

7)寺に通い、泣き、わめき、吐き、腹ばいに倒れた。空を見た、海を見た、雪道を歩いた。女性と出会った。竹林があった。トラックが、島が、緑が、星が。苦悩がどこまでもつづいていた。苦悩がおっかけてきた。死さえ思った。戦いがあった。嵐があった。

8)言葉を突き抜ける意識があった。酒に酔い、冷めて、また飲んだ。どこかにたどり着くのか、この道。行く先はあるのか。いいのか悪いのか、この道。この人生。これでいいのか。こんなことあっていいのか。笑った。笑いすぎて、泣いた。走った。走り抜けた。馬鹿だなぁ、と反省した。俺って、天才?、などとうぬぼれた。あの日々。

9)いいえぬ、いいしれぬ、日々。自分。世界。立ちどころのない、立ちあがれない大地。そらがあっても飛べない翼。体がうずき、心が泣いた。熱き心臓と、狂った頭脳。寒い寒い冬。夏、海辺の水着。真っ赤な太陽、空を横切る雲。空に落ちていく体験。裏切り、絶交、断絶、絶望。友情。立ち上がれ。エール。

10)いろいろなことがあったな、この人生。そして、それは今でも変わらないのだ。

<2>につづく

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「鱗雲」朗読・藤沢周平


鱗雲」
藤沢周平 【時雨のあと】より 朗読 59分22秒
No.4470★★★★★ 

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2021/02/08

最後の禅シリーズ<4>

<3>からつづく

OSHO講話タイトル:年代順(工事中)

1)パルバは最後の禅シリーズは、英語版で28冊としているが、Live Zenからスタートすると、当ブログとしては、いくら数え直しても、27冊にしかならない。当ブログとしては、27冊として、検討していく。

2)それにしても、もうちょと長いかなと思っていた禅シリーズだったが、 なんと、最後の最晩年の1年足らずだったのである。1年間に27冊とは、本当に最後の一息まで、OSHOの息づかいが響いてくるようだ。

3)当ブログとしては、このところを攻めるのは、OSHO「私が愛した本」以来のパーチェイス感だが、なかなか夢中になれるスリル感である。驚くのは、当ブログ最初の立ち上げ時期から懸案になっていて、未だにおおきな進展がなかったこと。すっかり手付かずに残されていたのである。そしてまた、この英文27冊も、邦訳がわずか6冊にとどまっている、ということある。

4)「私が愛した本」においては、いかにOSHOがカリール・ギブランを愛しているか、ということが浮き彫りにされたことだったし、アラン・ワッツに親しみを持っているか、ということだった。しかし私自身は、その中に、心理学的要素を見つけようとしていた嫌いがある。

5)今回この禅シリーズのパーチェイスにおいて、私はひとつの視点を設定している。それは唐代禅師達の系譜の中においての洞山や雲居たち周辺の、息使いについてである。すでにシッポは見えて来ているが、捕まえて、乗って、その背中で笛を吹くところまではいっていない。

6)視点を維持しつつ、全体像を俯瞰するところまで行ければ、今回のパーチェイスは一段落するだろう。それにしても、唐代禅師の系譜といった場合、なかなか資料がうまく出てこない、というのも本当のところだ。そしてなおかつ、突然、牛が暴れ出して、とてつもない展開になることも、また楽しいことである。

7)このパンデミックの中、巣篭もり需要として、中断していた五重塔製作が再開するかと思いきや、どうやら、流れはこっちのパーチェイスに傾き始まっているようだ。

 


88/04/22 88/05/26 Live Zen 

88/05/27 88/06/10 This, This, A Thousand Times This: The Very Essence of Zen 「これ これ 千回もこれ」

88/06/11 88/06/26 Zen: The Quantum Leap From Mind to No-Mind 

88/06/27 88/07/11 Zen: The Solitary Bird, Cuckoo of the Forest 

88/07/12 88/07/24 Zen: The Diamond Thunderbolt 

88/07/25 88/08/01 Dogen, the Zen Master: A Search and a Fulfillment 「道元」

88/08/02 88/08/11 The Miracle 

88/08/12 88/08/28 Turning In 

88/08/16 88/08/25 The Original Man 

88/08/29 88/09/07 The Language of Existence 

88/09/08 88/09/15 The Buddha: The Emptiness of the Heart 

88/09/16 88/09/25 Ma Tzu: The Empty Mirror 「空っぽの鏡 馬祖」 

88/09/26 88/10/04 Hyakujo: The Everest of Zen, with Basho's Haikus 

88/10/05 88/10/14 Nansen: The Point of Departure 

88/10/15 88/10/22 Joshu: The Lion's Roar 

88/10/23 88/10/31 Rinzai: Master of the Irrational 「臨済録」

88/11/01 88/12/02 Isan: No Footprints in the Blue Sky 

88/12/03 88/12/06 Kyozan: A True Man of Zen 

88/12/26 89/01/07 No Mind: The Flowers of Eternity 「ノーマインド永遠の花々」 

89/01/08 89/01/12 Zen: The Mystery and The Poetry of the Beyond 

89/01/13 89/01/16 One Seed Makes the Whole Earth Green 

89/01/17 89/01/21 Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment 

89/01/22 89/01/29 Christianity: The Deadliest Poison and Zen: The Antidote... 

89/01/30 89/02/05 Communism and Zen Fire, Zen Wind 

89/02/06 89/02/12 God is Dead, Now Zen is the Only Living Truth 

89/02/13 89/02/19 I Celebrate Myself: God Is No Where, Life Is Now Here 

89/02/20 89/04/10 The Zen Manifesto: Freedom From Oneself 「禅宣言」

 

<5>につづく

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2021/02/07

「方丈の海2021プロジェクト」<1>

「方丈の海2021プロジェクト」<1>
石川裕人・原作 渡部ギュウ・演出 2021/02~03  せんだい演劇工房10BOX box1
No.4469★★★★★ 

方丈の海

方丈の海


<2>につづく

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Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment OSHO <1>

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Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment<1>
Osho (著), Ma Deva Padma (イラスト), 1990/10 出版社 : Rebel Publishing House 言語 : 英語  ハードカバー : 224ページ

No.4468★★★★★ 
Osho最後のZENシリーズ目次 

I am neither a savior nor a prophet.
I am simply a man amongst you.
I am not talking to you from a
high peak, from the point of view
that I know and you don't know.
I am talking to you man to man.
All that I am saying to you is that
there was a time when I was asleep,
just as you are asleep, and there is
nothing wrong in it. It is perfectly
okay with existenceーyou can
sleep for eternity;but it is not
good for you.
What you are seeing in your sleep
is only dreams, hallucinations. If
you want to know the reality and
its beauty you have to wake up.
And only you can do it,nobody
can help you in any way.
I can go on shouting till my last
breath. That will not help unless
you are ready to hear and be recep-
tive. And even if you hear, you are
receptive, then too you have to
walk the path from the circumfer-
ence of your life to the center of
your being. Nobody can do it on
your behalf.(fornt flap)

I teach the individual. Jesus tries to 
convince the masses; I don't care
about the masses at all. Religion
is the greatest creative art,
in which you create yourself again.
You become the womb
and you give birth from 
the mother's womb is only
once more. The birth from
the mother's womb is only
physical. You have to give
yourself a birth which is going to
bring your spirituality with all its
flowers, with all its mysteries, with
all its roses, with all its freedom,
its truth, its beauty, its godliness.
But you have to do it! (back flap)

<2>につづく

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Communism and Zen fire. zen wind. OSHO <1>

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Communism and Zen fire. zen wind.<1>
Osho (著), 1989/07  出版社 : Osho Intl  言語 : 英語  ハードカバー
No.4467★★★★★ 
Osho最後のZENシリーズ目次 

Communism is one of the
greatest experiments in human
evolution.It has laid the
foundation of a new temple for
humanity.But it has only laid
the foundation ; the pillars are
missing the roof is missing.
That can be done only by
people who are fully awakened,
people whom I am calling the
buddhas - not Buddhists.
Buddhists are as superstitious as
any other organized religion.
But the awakened people
should be invited from all over
the world .There are a few
people still,in the same space as
Gautam Buddha. They should
be invited to teach meditation
in the universities,to teach
meditation in the colleges,to
teach meditation to the public -
and meditation has nothing
against communism.
Meditation will use communism
as the base, and will put the
pillars and the roof on the base.(front flap)

You can give equal
opportunity for growth, but thee
growth will bring unequal
persons. Somebody will become
a scientist and somebody will
become a shoemaker;somebody
will become a great novelist like
Tolstoy, or turgenev, or
Gorky, ana somebody may
become just a flutist.
Everybody needs equal
opportunity to grow unequal!
But as far as spirituarity is
cocerned, everybody can be
equqlly a buddha. That is true
communism - deeper, higher,
more authentic. And if we can 
create a situation, an education
for people to understand their
inner being, they will come out
of it ith great compassion, with
love for every being. They will
have a tremendous reverence
fot life. They cannot exploit. In
fact, spiritual communism
should be first; only then can
the economic communism
follow it as a shadow. (back flap)

continue to <2>

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The Buddha: The Emptiness of the Heart OSHO

Heart
The Buddha: The Emptiness of the Heart
Osho (著), 1989/07  出版社 : Osho Intl  言語 : 英語  ハードカバー
No.4466★★★★★ 
Osho最後のZENシリーズ目次 


I am talking about Zen
simpiy to make  the point
that all  religious
are now out of date.
Zen has no clingings
with the past.
It is not a by-products
of the past, but rather
an opening towards the future.
I am not  unnecessarily
wasting my time
and your time.
It is not just by chance
that I have chosen
to speak on Zen.
We have come to a point
of departure from the society
in which we have lived,
a moment of tremendous
departure for consciousness.

Look inwards,
as deep as possible.
It is your own space.
At th very end
you will find the empty heart.(front flap)

The empty heart
is a door to eternity.
It is a connection
between you and existence.
It is not something physical
or material.
It is not something mental
or psychological.
It is something beyond both,
transcendiing both.
It is your spirituality.
Remenber,the empty heart
makes you a buddha.(back flap)

 

cotinued to <2>

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The Language Of Existence OSHO <1>

Existence
The Language Of Existence<1>
OSHO 1990/03 出版社 : Osho Intl 英語 ハードカバー

No.4465★★★★★
Osho最後のZENシリーズ目次 



Zen has nothing
to give to you,
but has something
to take away-
your personality,
your mask,
your false identities.
Zen has to rip you away,
so that only the existence,
pure existence,
remains unpolluted in you.
Zen does not bother
about philosophizing.
Its concern is existencing,
its concern is existential.
That's why I hope called it
"the language of existence." (front flap)


The Zen master, or buddha,
does not speak,
he only allows existence
to sing its song.
The buddha is just a flute,
a bamboo with holes.
Existence can sing 
any song that it wants;
the flute does not interfere.
The flute allows existence
to commune with those
who are capable of listening
to the music
that is flowing through it.(back flap)

<2>につづく

 

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The Original Man OSHO <1>

Original
The Original Man<1>
OSHO (著)  1989/07  出版社 : Osho Intl (1989/7/1) (英語) ハードカバー

No.4464★★★★★
Osho最後のZENシリーズ目次 


I watted to move
around the world
for the remainder of my life,
but every country believes
that I am a dangerous man.
I will not say that they are wrong
- I am a dangerous man.
But it does not motter
whether i go anywhere or not,
I can remain here in my room,
and those who have the potential
of becoming buddhas
will reach me from every nook
and corner of the world.
They will carry
the fire around the world,
spreading it.

 

This time is a very ripe time.
Either the buddhas
are going to win 
or the ugly politicians
are going to destroy
the whole earth,
the whole of life.(front flap)

The whole contribution 
of all the poets, painters,
sculptors, dancers,mystics,
they are ready to destroy
at any moment.
Only one thing can prevent them
from destroying the world;
making the whole of life
a celebration,
a continuous ongoing festival.(back flap)

continued to <2>

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2021/02/06

Turning In OSHO <1>

Turning
Turning In<1>
Osho (著), 1989/01 出版社 : Osho Intl (英語) ハードカバー 
No.4463★★★★★ 
Osho最後のZENシリーズ目次 

It is very strange
that just by silently sitting,
watching your thoughts moving
here and there
as if they do not belong to you-
you don't have to do anything
about them,
not even make a judgment-
just sitting silently
not doing anything
and door open.

Your ultimate reality
is not something to be sought
in the outside world;
it is hidden in the seeker himself.

The moment you start locking
for it here and there,
you are going for away,
for away from yourself.
There is no need to go anywhere.
just sit down,settle down.(front flap)


The mind 
is just like dust in water.
If you are paitent enough,
the dust will setlle
and the crystal-clear woter
will be there reflecting
the full moon.(back flap)

continune to<2>

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The Miracle OSHO <1>

Miracle
The Miracle<1>
Osho (著), 1989/07 出版社 : Osho Intl (英語) ハードカバー 
No.4462★★★★★ 
Osho最後のZENシリーズ目次 


Have you ever seen night going?
Very few people
even become aware of things
which are happening every day.
Have you ever seen
the evening coming?
The midnight and its song?
The sunrise and its beauty?
We are behaving
almost like blind people.
In such a beautiful world
we are living in small ponds
of our own misery.
It is familiar,
so even if somebody
wants to pull you out,
you struggle.
You don't want to be pulled
out of your misery,
of your suffering.
Otherwise there is so much joy
all around,
you have just to be aware of it
and to become a participant,
not a spectator. (front flap)

Philosophy is speculation,
Zen in participation.
Participate in the night leaving,
participate in the stars
and participate in the clouds;
make participation your lifestyle
and the whole existence
become such a joy,
such an ecstasy.
You could not have dreamt
of a better universe.(back flap)

continue to <2>

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「禅宣言」 OSHO<24>

<23>からつづく

禅宣言
「禅宣言」<24>
 OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03  市民出版社 単行本 541p
★★★★★

 

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13

14

to be continued <25>

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「ノーマインド―永遠の花々」OSHO <6>

<5>からつづく

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「ノーマインド」永遠の花々<6>
OSHOスワミ・アドヴァイト・パルヴァ スワミ・アナンド・ソパン 1994/01 壮神社 単行本: 361ページ


1)言葉におけるコミュニケーションの限界、そして、他言語への翻訳は大変な作業であり、また、大事な何かが失われる可能性もあり、また、異質なものに変質してしまう可能性もある。だから、OSHOの使った言葉そのままで理解したい、と思うのは当然であろう。

2)されど、その当時の背景を理解するに、あとがきは編集記などを援用できることは、たいへん有効である。この本のあとがきにおいても「仰山ー真の禅者」が、どのような位置にあったのかを類推できることは、大変ありがたい。

22

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<7>につづく

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「道元」その探求と悟りの足跡 OSHO <9>

<8>からつづく

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「道元」その探求と悟りの足跡<9>
OSHO スワミ・アンタール・ガータサンサ翻訳 1992/11 出版社: 和尚エンタープライズジャパン  (OEJ books)  単行本  472ページ
★★★★★

1)最後の禅シリーズ28冊のうち、邦訳は6冊。さらに巻末などで、その裏話が書かれているのは数冊。そのうちの一冊がこの「道元」。

2)ここでは、OSHOが使用した「正法眼蔵」は、「The Shoho-genzo by Yuho Ykoi: Tokyo Sankido Buddist Bookstore」である、と記録されている。漢字では横井雄峰、1986年発行である。つまり、OSHO直前の発行、ということか。

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<10>につづく

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ウィリアム・ブレイク リンク

1)ウィリアム・ブレイクを検索すると、たくさんのリンクがでてくる。これまでに支線があるのか。とりあえず、項目だけリストアップしておく。

銅版画
スヴェーデンボリ
ダンテ
柳宗悦
オルダス・ハクスリー
ドアーズ
アレン・ギンズバーグ
ウィリアム・バロウズ
エマーソン・レイク・アンド・パーマー
カール・セーガン
タンジェリン・ドリーム
大江健三郎
ブレードランナー
パティ・スミス

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I Celebrate Myself

1)I Celebrate Myself: God Is No Where, Life Is Now HereはOSHO最晩年の一冊である。I Celebrate Myselfなんて、いかにもOSHOらしいポエジーだなぁ、と思っていたが、実は、この単語で検索すると、いくつかの別人の作品などがヒットする。少なくとも二つ。

2)ひとつはウォルト・ホイットマン。


Song of Myself, 1 [I Celebrate myself]
Walt Whitman - 1819-1892

I Celebrate myself, and sing myself,

And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.

わが身をたたえ わが身をうたう
君の意もまた このわが意を得たり
この身に宿る原子はすべて 君の身にも宿るのだから

徒然なるまま わが魂を招きいれる
徒然なるまま 体をもたげてはまっすぐに伸びた一本の夏草を眺める 
この舌、この血液を流れる原子、
すべてはまさしくこの土、この空気,
この地に誕生したわが両親、その両親、そしてそのまた両親から成っている
この上なく健康な37歳のこのわが身、
死が訪れるそのときまで とどまることのないよう歩いてゆく

教義や学派は停滞し
退行したまま現状に満足しているが
常に存在するものだ
何にも感化されぬままの本質そのものを
わが身は善も悪も区別せず受けいれる
危険を顧みず語らせる

Song of Myself (1892 version)とあるから、少なくともOSHOよりもおおよそ100年前に書かれたことになる。

3)二つ目は、アレン・ギンズバーグ。
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I Celebrate Myself: The Somewhat Private Life of Allen Ginsberg
Bill Morgan (著)2007/9/25 出版社 : Penguin Books; Reprint版 英語 ペーパーバック : 720ページ
No.4461★★★☆☆

4)こちらは、ギンズバーグ没後50年後に出版された別人による伝記なので、いつ、どのタイミングでついたタイトルなのか、現在のところ当ブログとしては不明。

5)したがってI Celebrate Myselfの文言は、OSHO独自と言い難いが、後半の God Is No Where, Life Is Now Hereこそが、OSHOの言葉となるであろうか? 

6)OSHOはホイットマンを取り上げながらも、なかなかに評価は手厳しい

8)とりあえず、OSHOのI Celebrate Myself: God Is No Where, Life Is Now Hereのリンクも貼り付けておく。

 

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2021/02/05

OSHO: A Courageous Jump Into the Ocean of Life



私は、OSHOとOceanという言葉の繋がりを探していた。そして、そんなことにこだわっているのは私だけなのではないか、という疑問が、検索しているうちに沸いてきた。少なくとも、私はそのつながりのエビデンスを見つけようとして、二人の詩人の名前を挙げていた。

少なくとも片方は間違いであり、片方は、確かにその出典としてのエビデンスになるかもしれない。だが、それがどうしたというのだろう。それが分かったからと言って、OSHOがOceanという言葉を使った意味が分かったことになるのか。猛省。

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タンジェリン・ドリーム / タイガー  ウィリアム・ブレイク / タイガー

 

なんと、いつもなにげなく聴いていたタンジェリン・ドリームのタイガーは、ウィリアム・ブレイクの詩だった!

 

タンジェリン・ドリーム / タイガー  
ウィリアム・ブレイク / タイガー
No.4460★★★★★

Songs_of_innocence_and_of_experience_cop

By William Blake

 

Tyger Tyger, burning bright, 
In the forests of the night; 
What immortal hand or eye, 
Could frame thy fearful symmetry?
 
In what distant deeps or skies. 
Burnt the fire of thine eyes?
On what wings dare he aspire?
What the hand, dare seize the fire?
 
And what shoulder, & what art,
Could twist the sinews of thy heart?
And when thy heart began to beat,
What dread hand? & what dread feet?
 
What the hammer? what the chain, 
In what furnace was thy brain?
What the anvil? what dread grasp, 
Dare its deadly terrors clasp! 
 
When the stars threw down their spears 
And water'd heaven with their tears: 
Did he smile his work to see?
Did he who made the Lamb make thee?
 
Tyger Tyger burning bright, 
In the forests of the night: 
What immortal hand or eye,
Dare frame thy fearful symmetry?
 
 虎よ、虎よ。夜の森に
火のように輝く虎よ
如何なる手、如何なる目が
汝の恐ろしき躯体を作ったか
 
 遠く離れた海や空でも
汝の目の炎は燃える
如何なる翼、如何なる手が
輝く炎をとらえるだろうか
 
 如何なる力 如何なる技が
汝の勢いを制するだろうか
汝の心臓が脈打つときの
四肢の力の何たる強さぞ
 
 汝を鍛えたハンマーにチェイン
汝の頭を鍛えた炉よ
きつく握った鉄床が
汝を恐ろしい姿に仕上げた
 
 星々が光芒を放ち
天空を涙で潤すとき
神は自らの業を愛でられた
子羊をつくった神こそが汝の創造主なのだ
 
 虎よ、虎よ、夜の森に
火のように輝く虎よ
如何なる手、如何なる目が
汝の恐ろしき躯体を作ったか
 

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「瓢鮎図」の謎―国宝再読ひょうたんなまずをめぐって 芳澤 勝弘 <3>

 <2>からつづく

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「瓢鮎図」の謎国宝再読ひょうたんなまずをめぐって <3>
芳澤 勝弘 (著) 2012/09 出版社 : ウェッジ 日本語 単行本 : 269ページ 
★★★★★

1)いやはや、さらにさらに大変なことになってしまった。この本の芯の一点は、「把不住」そのものではないか、ということになってきた。絵の中心は瓢箪でもナマズでもなく、この男の、手だ。この手こそが曲者である。

2)「瓢鮎図」を当ブログ的に置き換えるとするならば、奇妙な形をして、もはや1メートルにもなろうとする、空飛ぶナマズは、最後の禅シリーズ、であり、男が押さえつけようとして、変な持ち方をしているものは、当ブログと、当ブログの英語力、さらには、その禅、というべきであろうか。

3)そして、この最後の禅シリーズは、スルスルと、当ブログの英語力から抜け出して、どこまでも、川を流れ、やがて大海へと逃げのびるのではなかろうか。それにつられ、この「壮夫」も、ズルズルと大海まで行ってしまうにちがいない。いや、そここそが眼目だ。Oceanic あるいは、OSHO、そのものであろう。

4)この本によれば、ウィリアム・ブレイクは曲者だ。昨日見た三冊の中になんの片鱗もないなどということはあるだろうか。再チェックを要す。

5)またここにでてくる島尾 新はその著書をめくったばかりだったが、「瓢鮎図ーひょうたんなまずのイコロジー」がある。こちらも要チェック。

 

 朝雪やロールスロイス白きかな  把不住

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つづく

 

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2021/02/04

「瓢鮎図」の謎―国宝再読ひょうたんなまずをめぐって 芳澤 勝弘 <2>

 

<1>からつづく

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「瓢鮎図」の謎国宝再読ひょうたんなまずをめぐって <2>
芳澤 勝弘 (著) 2012/09 出版社 : ウェッジ 日本語 単行本 : 269ページ 
★★★★★

 

1)いやはや、とんでもない展開になってきたぞ。「禅林画賛」に一言あったキーワード「把不住」から、一枚の「瓢鮎図」にクローズアップされ、さらには一冊の本となり、そして、この周勝の詩二十八へと、連なってきてしまうのである。

2)ここから、またまた、なにかが抜け出ていく可能性がある。いや、きっとそうだろう。相手は、ひょうたんナマズだ。するすると、どこまでも逃げていくに違いない。 

 

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<3>につづく

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「日本三景への誘い」―松島・天橋立・厳島  島尾 新 他

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「日本三景への誘い」―松島・天橋立・厳島
島尾 新 (編集), 長谷川 成一 (編集) 2007/02 清文堂出版 単行本 : 202ページ
No.4459★★★★★

1)何かの拍子に、視覚のなかにひっかかってしまった一冊。日本三景。いまだにこの言葉が生きているのかどうか、さだかではないが、地元松島がそう呼ばれていることに、いくばくかの誇りを感じないわけではない。かと言って、何度も遊びに行っているわけでもなく、行楽期の松島など、混雑して近づきたくない、というのが本音だ。

2)ただ、わが畏友モンジュ氏がいつぞやか、日本三景ネットワーク・プロジェクトとかいう言葉使いで、なにやらエソテリックな思いつきがあったようで、いつか松島に行ってみたい、と言っていた。それが実現したのは、すでに5年ほど前のことである。そのことが急に思い出されてきた。

3)日本海側の京都に生まれたモンジュ氏は、いわば天橋立ちかくの住人であり、現在は岡山県だが、広島の宮島に限りなく近いところに住んでいる。ただ、松島には来たことはなかった。

4)かくいう私は、子供の時分から松島には何度も遊んだし、宮島には、18歳の時に日本一周ヒッチハイクの旅の時に、訪れている。その時の印象はかなり深かった。ただ、残念なことに天橋立には立ち寄らなかった。

5)だから、モンジュ氏が言い出したころは、このネットワークは、内部的な精神的な完成していなかったのだが、前回のモンジュ氏一行の東北巡幸の旅で、いちおう形としては成立した、ということになっている。

6)その時点でのわが見証が、松島の雄島における「把不住」訪問・拝命につながるわけだが、その経緯については、これまで何度か書いてきたし、まあ、これからようやく明らかになることもあろう。

7)いずれにしても、その経緯を彷彿とさせてくれるきっかけとなったのが、この本である。最初エソテリック的には、宮島の弁天、琵琶湖の弁天、金華山の弁天、この弁天ネットワークであろう、と考えていたのだが、またレイア―が違っていて、こんどは日本三景エソテリックの旅である。

8)半分冗談だが、その話題へとつないでくれる内容がこの本には含まれている。

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9)最近、尾島から十二世紀に遡る蔵骨器検出の報告があり、「奥州の高野」伝承を裏付ける事となった。その雄島に供養の印としての板碑が建立されるのが十三世紀後半。著名な頼賢の活躍期に重なる。
 頼賢を雄島の妙覚庵に住せしめた臨済円福寺(瑞巌寺の前身)六世覚満禅師空厳⊡慧和尚もまた、異能者であった。師はその獲得した眼力で中国径山寺の火災を感知、法力をもって鎮火せしめ、御礼に光鈴を贈呈されたと伝える(「諸勝記」)。
 右のような異界・異能の伝承は江戸前期。当山九九世中興開山雲居禅師(1598~1659)まで続くのである。師が雄島で坐禅すると不成仏の冥衆が顕れて救助を乞われ、偈
を授けて往生せしめた。
 また、あるV干の歳には五大堂前に船を浮かべ、北条政子寄進の仏舎利を一粒海に投じ祈雨を乞い、感応の降雨があった事を伝える(雲居和尚年譜)。春斎の「三所奇観」の提唱は雲居の活躍時期に重なる。p75

10)モンジュ氏が、松島へ至って雄島を巡ったことによって、把不住を拝命したことも、これもまた日本三景プロジェクトのスタートと考えてもおかしくはない。

つづく

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「茶の湯の銘 禅のことば」淡交社

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「茶の湯の銘 禅のことば」
淡交社編集局 (編集) 2020/11 淡交社 新書 239ページ
No.4458★★★★★

1)「決定版・よくわかる茶席の禅語」 有馬頼底と同傾向の一冊と思えるが、こちらは新書でもあるし、お手軽な感じである。出典や選ばれた単語も決して同一ではないが、こちらの本の特徴は、巻末に漢字検索があることだろう。漢字一字だけで、検索できる。

2)ちなみに「把不住」を一字づつ検索してみる。すると「把」は一句だけ。「不」は37句。「住」は3句。

3)「把」
◎空手把鋤頭 歩行騎水牛(空手にしえ鋤頭を把く、歩行にして水牛に騎る)
 鋤を手に握りながら、何も持たず、水牛の背に騎っていながら自分の足であるいているようだ、ということで、鋤と一体、牛の背と一体になっている。無念無心の三昧の境地を表現する。p72

4)おお、なかなかいい感じ。把という文字が、無念無心の三昧とつながってくるのか。

5)「不」
◎これは接頭文字なので、今回は引用しない。そしてあまりに多すぎるので、パス。

6)「住」は3句。
◎安住不動如須弥山(安住不動になること須弥山の如し)
 心を修じて微動だにせず、あたかも宇宙の中心に聳える須弥山のようだ、との意。 p117

7)心が微動だにせず、とは偉そうだし、須弥山もちょっと立派すぎだな。

8)◎而生其心
 応無所住而生其心(応に住するところ無くして而も其の心を生ずべし)
 存在や現象など、知覚や認識の対象にとらわれてはならないということ。心を一つの所に止めず、執着を離れてあるがままに自由自在な心でいることを説く。p127

9)これはなかなかいいね。自由自在な心でいること。うん。

10)◎終帰大海作波濤(終に大海に帰して波濤と作らん)
谷川の水は留まることなく、ついには大海に流れて波濤となる、ということで、真の禅者は悟りの世界に安住することなく、世間の大海原に分け入って衆生済度に尽くすことを表す。p167

11)おお、これもいいです。まさOceaningそのものではないですか。「把不住」、なかなかネーミングかも。

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Oceanic ウィリアム・ブレイク

 

「『瓢鮎図』の謎」にウィリアム・ブレイクがでてきたことで、いわゆるOSHOの語源についてのチェックが可能か、というタイミングになった。さっそく最寄りの図書館からざっくりとブレイクの本を借りてきたが、いわゆるOceanicにかかわるような詩文は発見することができなかった。以降、継続して検索してみよう。

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「きよいこころのうた」―母と子の詩集
ウイリアム・ブレイク (著), 伊東 好次郎 (翻訳) 1965/01出版社 : アポロン社 272ページ
No.4455★★★☆☆ 

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「天国と地獄の結婚」
ウィリアム ブレイク (著), 池下 幹彦 (翻訳) 1992/1/1 出版社 : 近代文芸社 単行本 単行本 : 88ページ
No.4456★★★☆☆ 


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「無心の歌、有心の歌」ブレイク詩集
ウィリアム ブレイク (著), William Blake (原著), 寿岳 文章 (翻訳) 1999/02 出版社 : 角川書店 文庫 : 206ページ
No.4457★★★☆☆   

つづく

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「決定版・よくわかる茶席の禅語」 有馬頼底 <2>

<1>からつづく

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「決定版・よくわかる茶席の禅語」
有馬 頼底   (著) 2003/03 主婦の友社 単行本 383ページ
★★★☆☆ 

引用されている出典

「無門関」
「臨済録」
「碧巌録」
「金剛経」
「雲門広録」
「証道歌」
「五燈会元」
「仏所行讃」
「荘子」
「仏遺教経」
「景徳伝燈録」
「趙州録」

「大慧語録」
「虚堂録」
「毒語心経」
「五家正宗賛」
「論語」
「東坡禅喜集」
「普勧坐禅儀」
「宗鏡録」
「茶湯一会集」
「夢中問答」
「信心銘」
「利休辞世」
「槐安国語」
「徹心録」
「老子」
「禅林類聚」
「中峰広録」
「大燈遺偈」
「唐詩」
「洞山雲月録」
「小室六門集」
「東坡集」
「全唐詩」
「龐居士語録」
「人天眼目」
「六祖壇経」
「維摩経」
「後漢書」
「続伝燈録」
「彭沢集」
「詩人玉屑」
「詩経」
「法華経」
「正法眼蔵」
「唐詩選」
「陶淵明」
「寒山詩」
「槐安国語」
「王維詩集」
「銭考功集」
「従容録」
「山居の偈」
「普燈録」
「漢書」
「聯頌集」
「良寛詩集」
「李白集」
「大慧武庫」
「江湖風月集」
「事文類聚」
「貞和集」
「十牛図」
「四朝高僧伝」
「十玄談」
「古文真宝後集」
「七仏通戒偈」
「祖庭事苑」
「史記」
「宝鏡三昧」
「大智偈頌」
「和漢朗詠集」
 他

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2021/02/02

「瓢鮎図」の謎―国宝再読ひょうたんなまずをめぐって 芳澤 勝弘 <1>

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「瓢鮎図」の謎国宝再読ひょうたんなまずをめぐって <1>
芳澤 勝弘 (著) 2012/09 出版社 : ウェッジ 日本語 単行本 : 269ページ 
No.4454★★★★★

1)先日、知人の蔵書である「禅林画賛」について思い出し、図書館から借りだしてきて、もういちど把不住を検索してみたが、結局あれほどの大きな本の中に、見つかったのは一か所だけだった。はっきり言ってがっかりして、その部分だけ抜き書きして返却してしまった。

2)ところが、あのページについていた水墨画はあまりきれいじゃなかったので、ネットでもすこしましな瓢鮎図を探していたところ、なんと瓢鮎図について書いたこの一冊があることを発見してしまった。しかもあの絵はなんと、国宝だという。ほう~~~。あたしゃ、びっくりこきました。

3)そしてなんと、近くの図書館を調べてみると、この本がキチンと蔵書されているので、近日中に拝読する予定になった。というか、なかみ検索ができる状態なので、数十ページを読み込んでしまった。あ~すごい。

4)なんと、この瓢鮎図は、たしかに瓢箪(ひょうたん)と鮎(あゆ)の文字があるので、元気のいい鮎を瓢箪で抑えることはむずかしい、という意味だと思っていたら、なんと、これはアユではなくて、ナマズだという。中国において、鯰(なまず)と鮎(あゆは)おなじ漢字だと。へ~~。

5)つまり、あれは、ぬるぬるしている鯰を瓢箪で抑えようという試みをしている男の絵だったのだ。しかも、その瓢箪にナマズをいれるのか、瓢箪の中の酒を飲まして酔わせて捕ってやろうかというのかなど、いろいろな詮索が行われているらしいのだ。その詮索が、いろいろあって、それぞれ勝手に感想を書いたのが、あの水墨画だったのだ。へ~~~~。

6)そしてだな、さらに驚いたのは、教科書にも載っていて、みんな知っているよね、という雰囲気なのだ。あたしゃ、知らないよ。今回初めて知った。有名な絵でしょ?、と言われても、とんとピンとこない。

7)どうやら鈴木大拙が20世紀中半のアメリカにおいて禅ブームを起こした時、すでにこの絵を紹介していて、世界的にかなり有名ですらあるという。ほう、へー、ふ~~~~。

8)そして、どうやらこの絵は、もっとクダけたニックネームがあって、ひょうたんナマズ絵というらしい。ふ~~~。これはなんという展開。つまりだな、把不住とは、ひょうたんナマズである、という新しいつながり展開があった、ということだ。ひ~~~~。

9)さらに驚いたことには、この解説本を読んでいたら、いきなりウィリアム・ブレイクの話題が挟まってきた。ひょうたんナマズとは直接結びつかなかったが、つまり、ブレイクは、禅に通じているということだ。それはうすうす感じていたが、すくなくとも、これまでの私の読書歴の中にはブレイクはほとんど登場はしてこなかった。

10)しかしだ。OSHOサニヤシンとしては、これは重大な発見だと言っていい。つまりOSHOという名前は、一応、和尚という呼び名の英語訳と思われているが、OSHO本人は、ウィリアム・ブレイクのOceanic(海になる)という言葉からOSHOと名付けたのだ、とどこかで言ってさえいるのだ。あれまぁ、この辺につながってきたぞ。←これって、おおいなる勘違いかも。キチンと把握し直す必要がある_| ̄|○ 2020/02/06記

11)ということで、いずれ図書館からこの本を借り出すとして、またまたさらなる展開であるウィリアム・ブレイクのほうにもぶっ飛ばされることに、なってしまうのでありましたぁ~。

<2>につづく

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RINZAI : Master of the Irrational「臨済録」OSHO<6>/「臨済録」入矢義高<3>

<5>からつづく

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RINZAI : Master of the Irrational Zen Discourse Series<6>
OSHO (Author) September 1989 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover: 191 pages Language: English

★★★★★ Osho最後のZENシリーズ目次 
 

 Rinzai would shout at his disciples to give them a first experience of their centering. You are both a circumference and a center. You live on the circumference; the shout simply pushes you to the center.

  Once you experience being at the center you suddenly see the whole world changing.  Your eyes are no more the same..... back flap

continue to <7>

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<2>からつづく

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「臨済録」 <3>
入矢 義高 訳注 1991/01 岩波文庫 ワイド版岩波文庫 並製 ・ カバー ・ 230頁
★★★★★

 『臨済録』は、もともと臨済宗の聖典なのではない。そういう宗とか派といったセクトとは全く無縁である。臨在禅師は唐代末期(九世紀)の人であるが、そもそも唐代禅には、六祖慧能いらい、宗派の別によるセクト意識などは全く無かった。有ったのは、師から弟子への法の継承、つまり師資相承による「家風」(宗風)の伝承と発展であった。

 しかも、その継承のしかたでさえ、「弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することになる。見識が師以上でなければ、法を伝授される資格はない」とされ、「師の法のすべてを肯(うけが)うことは、師を裏切ることにほかならぬ」とまで言われた。

 さらに唐代では、それら異なった宗風の間での相互の交流や刺激も、極めて活発に行われた。現代のわれわれも、従ってこの『臨済録』を後世の「臨済宗」的教条に当てはめて読む必要はない。p219解説 入矢

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<5>からつづく

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「臨済録」<6>
OSHO (著) アナンド・モンジュ(訳) 1993/11 出版社: めるくまーる 単行本 282ページ
★★★★★

 私には大した知識はない。私は情報知識から話しているのではなく、自らの変容された意識から話している。私は禅がどの国のものでもないことを知っている。だから、私にしてみれば、彼らが中国人であろうと、日本人であろうと、インド人であろうと関係ない。少なくとも禅はお、いかなる国、いかなる民族、いかなる言語にも封じ込められるべきではない。禅は全宇宙的なものだ。だとしたら、いったい何を騒ぎ立てているのかね?

 私は一度も語録を読んだことがない。マニーシャが語録を見つけてくる。私はただそれを聴いて、内発的に話すだけだ。私に関心があるのは禅であって、中国でも日本でもない。石頭も言っている。「私は東にも、西にも、南にも、北にも属さない」と。禅までもが民族、言語、地球の特定の地域に封じ込められてしまったら、それはもはや禅ではない。

 だから、あなたがたはごく明晰でなければならない。私は学者でもなければ、物知りでも、知識人でもない。私が語っていることは、一瞬一瞬私から生まれる感応だ。そして、私が思うに、禅は全宇宙のものだ。(中略)凡庸にならないこと。私のサニヤシンには凡庸であって欲しくない。私のサニヤシンは宇宙市民であってほしい。 I CELEBRATE MYSELF    p182 OSHO「編集部注」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1)これら三冊の本を目の前にして、どうしてもこの三冊を一ページに収めたかった。そして前回の記事を見つけてみたら、前回の二年前も結局この三冊を並べて記事を書いていたのだった。しかもこれら三冊にビデオをもプラスしていた(笑)

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3)まぁ、結局は同じことを考えているんだな。思考がそのまま残っていた、というより、感性としてそれが当たり前なのだろう。2年間、このまま放置しておいてしまった。今回はもうすこしここから、前に勧めようと思う。

4)そしてさらに思う。邦訳本の翻訳者であるモンジュ氏は、OSHOの姿勢を「89/02/13 I Celebrate Myself: God Is No Where, Life Is Now Here」から引用している。この本はOSHOの「禅宣言」の直前の一冊である。つまり、OSHO晩年の最後から二冊目に位置する重要な一冊である。

5)実はこの「 I Celebrate Myself」、今回の当ブログの最後の禅シリーズにおけるミッシングリンクの最後の一冊になっているのだ。ちょっと価格が高止まりしている。諦めかけていたが、やっぱり入手するのが、道かな。

<7>につづく

 

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MA TZU, the Empty Mirror <2>

<1>からつづく

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Ma Tzu, the Empty Mirror Zen Discourse Series
<2>
OSHO (Author) September 1988 Publisher: Rebel Pub. House Hardcover: 10 pages Language: English
★★★★★

1)At the time of MaTzu, there was another great Zen master in China; his name was Sekito. 

You are perfectly well acquainted with Sekito; he is reborn here.

Sekito means stonehead, and this time he is born as Swami Niskriya; I call him Sekito, stonehead.

And I had to send himi back to Germany, just for a few weeks, because only stoneheads can hit against other stoneheads in Germany, you cannot  send anybody else.

So he goes, and hits his head against other heads for a few days.

When he gets tired of enlightening other people, he comes back to rest.

Right now he is in Germany. p111 MA TZU, the Empty Mirror to the sorce

2)う~む、そうであったか。石頭禅師をOSHOがおちょくっていたのは知っていたが、このような形で馬祖道一との対比で語っていたのであった。禅師系図の中に石頭希遷の名前は必ずでてくるが、OSHOの講話として一冊にまとめられていることはなかった。つまり馬祖道一と石頭希遷は同時代のライバルで、お互いに行き来していた形跡もあるが、OSHOとしては、圧倒的に馬祖道一のほうがお好みであったのだろう。

3)ということは、薬山推厳や洞山良价や雲居道膺は、石頭希遷の系譜につながり、当然、ここから天童如浄、そして永平道元とつながっていくわけだから、道元がどちらかといえば、只管打坐になることは、運命づけられていた、というべきなのだろう。

4)これゆえ、どうも道元禅にはゾルバ性が薄いのかなぁ、と感じたり、OSHOが、十牛図の十番目が日本に届いていない、という表現をすることになるのかもしれない。

5)そしてまた、この唐代における中国禅の爛熟が、インドにおいて目を出した禅の系譜が、中国で大木となった、という表現に対応するのだろう。さらには、日本で禅の花が咲くころ、宋代以降の中国禅は、いまいち堕落の道をたどったのだ、という評価がされるところなのかもしれない(未確認)。

6)そしてさらには、日本の禅も、桜の花がいっせいに散るように、その輝きを失ってしまったのか??? そこは急いで評価をだすところではないかもしれない。ゆっくり行こう。

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「空っぽの鏡・馬祖」OSHO<5>

<4>よりつづく

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「空っぽの鏡・馬祖」 <5> 
OSHO
スワミ・アナンド・ソパン (翻訳), 1992/12 壮神社 単行本、 367p

1)最後の禅シリーズを見ていると、馬祖道一は大きなスペースを取っていることがわかる。そこで、おそらくたくさんの資料が入手できるはずだと思い込んで、図書館を検索してみると、ほとんどない_| ̄|○ どうかすると、わが図書館に入っている馬祖道一は、この「空っぽの鏡」ほぼ一冊、ということである。ええ~~、そんなことあるのかい。

2)ネットで検索してみると、中野禅塾というかたのブログのから、OSHO講話第一話の「忘れられたブッダ」のエピソードは、「景徳伝燈録・巻六」が出典であるという。

3)ほかに、「江西馬祖道ー禅師語録」というものがあるらしい。

4)また、OSHO講話にでてくる石頭(スワミ・ニシクリアがその転生とされる?)は、馬祖とのライバルであったと。馬祖は、坐禅そのものを否定(?)したが、石頭は坐禅を強調したらしい。

5)また、第三話にでてくる大梅の問いかけのエピソードは、「無門関・第三十則」にあると。

 

つづく

 

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「碧巌録」〈第1巻〉 佐橋 法龍 <2>

<1>からつづく
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「碧巌録」〈第1巻〉―全訳 <2>
克勤 (著), 佐橋 法龍 (著) 1984/4/1 出版社 : 三一書房  224ページ
★★★★★ 

1)こちらにも禅師系図があった。
小学館日本大百科全書(ニッポニカ)
版とは表現は違うが、ほぼ同等の内容だろう。違うのは、如浄の下に道元がないことくらいか。少なくとも、馬祖を中心とした、一塊の禅師たちがいわゆる唐代の禅を形作っている、ということだろう。ということはこの碧巌録が、OSHOの最後の全シリーズの骨格を作っている、ということもありうるかも。

 

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つづく

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2021/02/01

京都人の密かな愉しみ <15> blue編 燃える秋

<14>からつづく

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「京都人の密かな愉しみ」 <15>
NHK「京都人の密かな愉しみ」制作班+源孝志 (監修) 2018/03 宝島社 単行本: 186ページ
★★★★★

1)この数日、当ブログにおいては、この「京都人の密かな愉しみ」の一連の記事に対するアクセスが増えている。その理由は、ここ数週間、NHKで、いわゆるBlue編が再放送されて、しかも土曜日だったかに、新作「燃える秋」が放映されたからであろう。

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2)アクセスしてくださる人々は、私のなんらかの反応を期待しておられるのであろうか。なにか新しい情報でもあるか、と。だが・・・・、私の反応は鈍い。できれば、今回は、無視して、とおり過ぎようと思った。

3)だが、私自身が、あとから履歴を見て、この時どうだったのかな、と振り返ることもあるかもしれないので、ちょっとだけメモしておく。

4)私が現在、このシリーズに乗らない理由。
①藤沢三八子シリーズがあまりにも鮮やかだったので、いまだにあの印象が抜けていない。
②ターゲットがどうも、私のような初老の男に向いていない。若い人、中年の人、観光がお好きな方、京都が好きな方などに向いているようで、まもなく古来稀なる年齢に達する者や、そもそも観光やエンターテイメントを好まず、そして、単なる田舎が好きな私のような存在に向いていないのではないか、と感じるのである。
③そして、どうやら、こちらの私の関心が、別なほうに流れて始まっているからのようだ。

5)別に私はNHKのモニター契約をしているわけではないので、見なければそれでいいのだし、どう感じるかは私流でいいのだし、何の反応もしたくなければ、まったく無視したって、別に問題はないのだ。キチンと視聴料も払っているしな(エヘン)。

6)で、気分的には、どうも私はこのシリーズは卒業してしまったようだ、と自分で感じてしまう。いままでの藤沢三八子シリーズは見るかもしれない。DVDにはまだ未練がある。再放送もきっと見るだろう。でも、もうあの新鮮さは、戻ってこないかもな。

7)次回、この続きを書くとき、私はどんなことを書くだろうか。自分でも楽しみだ。

<16>につづく

 

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「碧巌録」〈第1巻〉 佐橋 法龍 <1>

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「碧巌録」〈第1巻〉―全訳 <1>
克勤 (著), 佐橋 法龍 (著) 1984/4/1 出版社 : 三一書房  224ページ
No.4453★★★★★ 

1)おお、なんということじゃ、ここに「把不住」と書いてある。

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2)この本、いつの頃からか、我が書斎の一角に鎮座ましましておられたが、わたしゃ、これまで読解したことはありませぬ。いつかは読むかもな~、と言っているうちに、幾星霜の日々が過ぎてしまったことか。

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3)まずは、今夜はこの文字をこの本の中に発見したことで、大満足。でかした💛
  ずっと、我が部屋のすぐそばに、じっと私が見つけるのを待っていたのだなぁ~~。
  待たせたなぁ^^^^、なんちゃって。

<2>につづく

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「禅林画賛」―中世水墨画を読む 入矢義高他<3>

<2>からつづく

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「禅林画賛」―中世水墨画を読む<2>
島田修二郎・入矢義高監修 1987/10 毎日新聞社 大型本: 497ページ
★★★☆☆

1)これだけ大きい本なのに、「把不住」の文字があるのは、一か所だけ。ブツブツ。まぁ、行きがかり上、偶然見つけたものだから、文句は言うまい。鮎が元気良くて、捕まえられない、というような意味らしい。

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p127 「45 瓢鮎図」

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2)しかしだ、なんとここに

『碧巌録』一に「果然として把不住」とある。ここは、「瓢鮎図」を見ても向上の契機とならぬことを暗喩するか。

とある。

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3)おお、これは大発見。すわ、いざ、「碧巌録」へ!

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中国唐代禅師系図

 

20210201

 

 

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

1)仮に中国唐代禅師系図と銘打ったが、検索すれば複数図式はあり、いずれが妥当とも決めかねるが、現時点では、Osho最後の禅シリーズ登場のマスター達の顔ぶれが一番わかりやすそうだ。

2)黄色枠は、OSHO最後の禅シリーズの本のタイトルになるような登場人物である。青色枠が現在当ブログがチェックしようとしている系譜の部分である。OSHOは禅講話のなかで、これ以外の禅師たちにも触れているが、今後、もっと明確になってきたら、系譜そのものを訂正するとともに、チェックもやり直すこととする。

3)馬祖を中心とした臨済宗の系譜が多く語られているようでもあるが、薬山と道元も語られているところから、曹洞宗の系譜も触れられている。当ブログとしては、まずは薬山は要チェックとなる。道元については以前よりチェック中。

4)そもそも松島雄島にある「把不住軒」の雲居希膺(うんごきよう、1582~1659)は江戸時代の日本の禅僧であり、いわゆる臨済宗に属する法脈ではあるが、その「把不住」の語源は、中国唐代の禅師、洞山良价(とうざん りょうかい、807年~ 869年)から雲居道膺(うんごどうよう、835年~902年)が評価された際の表現である。

5)私は、雲居希膺(うんごきよう)は臨済宗に属する禅僧であるから、いわゆる「把不住」はそちらの系譜のエピソードかなと思っていが、いえいえどうしてどうして、 洞山良价(とうざん りょうかい )も雲居道膺(うんごどうよう)も、道元が系譜を継いだ、いわゆる曹洞宗に属する禅僧たちであったのである。

6)つまり、ここにおいて、すくなくともOSHOの禅シリーズにおいては、ナニ宗カニ宗とわけていくこと自体、おかしいのである。さらに言えば、松島の雲居希膺(うんごきよう) においてもまた、当然であろう。雲居希膺(うんごきよう)な、禅とともに真言宗の「南無阿弥陀仏」のマントラをも民衆に勧めていたというから、ここで細かいことをいっている場合ではないのである。

7)節分や山なし寺なし仏なし  把不住

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