最後の禅シリーズ<1>
1)私の知っている範囲で言えば、OSHO最後の禅シリーズは88/04/22 88/05/26の Live Zen から、89/02/20 89/04/10 The Zen Manifesto: Freedom From Oneself 「禅宣言」までの約27冊。そのうち邦訳されているのは6冊。今回はこれに加えるところの87/07/05 87/07/14 Bodhidharma: The Greatest Zen Master 「ボーディダルマ」 と87/07/15 87/08/20 The Great Zen Master Ta Hui から一冊加えて7冊。
2)大体が、ざっとは目をとうした邦訳群ではあるが「これこれ千回もこれ」と「空っぽの鏡・馬祖」は、もうすこし読み込んでもいいかな、という気がする程度。
3)英語版は、その30冊のうち20冊程度は蔵書しているが、もっていないものが10冊程度ある。それらを集めてみるか、という誘惑にも駆られるが、別に本としてあつめなくても、ネットでも十分内容を把握できるページがそろっている。
4)さて、OSHOがなぜに最後に唐代の禅師たちを遊んだか、ということが気になっているわけだが、おそらく、ひとりひとりの禅師を追いかけることに、よくよく考えてみれば、それほどの意味はないのである。
5)話を面白くしたり、複合的な背景をつけて、楽しんでいたにすぎないのではないか、と思うのである。つまり、当ブログとしても、なにやら学術的な探求などする段階ではないのだろう。つまり、そうしなければならないのではなく、楽しみのタネをみつけて、面白がればいいのだろう、と納得するのである。
6)そもそも、これらの邦訳は、本当に一冊を本気になって取り組めば、いきなり時間がかかり、こんなにたくさん読めるはずはないのである。数量的に読み込んだとしても、だから、それがどした? ということになってしまう。
7)読み込まずに、むしろ、楽しむ。断片的であれ、直観的であれ、あるいは誤読、あるいは曲解もあり、で、とにかく戯れてみることのほうが、大事なのではないか。今はそう思う。
8)いずれ、全体的に英文の蔵書とミッシングリンクも整理してみるが、結局そこにあるのは、何かを読み込むという姿勢ではなく、遊ぶ、戯れる、時間と、空間と、そこにいる、ということなのであろう、とさえ思うのである。
9)完璧とか、正確とか、妥当とか、そういう価値観ではなく、ひたすら愉しむ、ひたすら没頭する、ひたすら忘我がする、というあたりが、結局は、最後の禅シリーズがのこされた、真価なのであろう、と、今日のところは納得しておくこととする。
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