把不住述懐<>
<**>からつづく
1)ちょっとした旅に出ようと思う。いえいえ、このパンデミック下、不要不急の旅を遊ぼうとしているわけではない。私は基本、GOTOトラブル(トラベル)政策には反対だ。普段だってほとんど自宅でテレワークだ。ステイホーム信奉者だ。もともと、どちらかといえば、引きこもり派なのだ。
2)しかし、精神まで引きこもりになってはいけない。自由闊達に出歩き、出会い、さまざまな試みを試すべきだ。今回思い立った旅は肉体をともなった外部への旅ではない。むしろ内面的なものだ。内面の内奥への旅ではあるが、いくつかの目的地点がある。最終的に自宅に戻るまでのスタンプラリーみたいなもの、とでも言えばいいのか。
3)今回のスタンプラリーのポイント地点。
a.英語でOSHOを味わう機会を増やす。
b.OSHOの最終地点であるZENシリーズの深読み。
c.当ブログのネーミングでもある把不住の意味の再確認。
4)お気に入りのOSHO本は何冊かあって、何度も何度も読んでいたりする。しかも、お気に入りのページはそれぞれ固まっている。それはそれでいいとも言えるし、いやいや、そうではない、という意見もある。今回は後者の立場だ。邦訳本の、翻訳者のマインドを一度通ったものを何度も読みくだしていても、本来OSHOが、いわんとしたことが、こちらまで伝わっているか。できれば、英語でOSHOを読み下してみよう、というのが、まずはa.のポイントだ。
5)OSHOの長い旅は、最終のZENシリーズに終着した、とみるのが当ブログの立場だ。そこで安心してしまっているために、OSHO-ZEN1を極めず、ついつい横滑りして、伝統的禅に視点が行ってしまっているのが事実だ。プネー2、特に最晩年のZENシリーズも実は、英語版の蔵書が欠番しているところがある。そこを揃えつつ、全体の流れを再確認する必要を感じる。これがb.ポイント。
6)そして、何時のころからか、わがブログのネーミングにお借りしている把不住。レアな使用方法しかないので、特段にクレームを受けているわけではないが、はてさて、これでいいのか、という不安要素の一つでもある。かつての唐代の中国禅師にまつわる文言でもあり、また、気が付いてみれば、OSHOもたびたびこの辺に触れているのである。ここをキチンと把握しよう、というのがc.ポイントである。
7)つまり、英語のOSHO-ZENの中に把不住を見つけにいこう、というのが、今回の小さな旅の主意である。
8)さて、そう思いついて、まずは英語文献を揃えてみると、すでに邦訳されているものも多数あって、それらに背を向けて、あらたに英語文でスタートするのは、ちょっと粋がりすぎだと思う。邦訳文は邦訳文としてありがたく読ませていただきながら、時には英語に戻り、時にはビデオや動画まで行ってみよう、か、と思う。
9)そして、どうせならプネー2全体を網羅してみようとも思ったが、それもまた気負いすぎだ。直接OSHO-ZENのタイトルを持たないものは、スタート地点では割愛し、時には拡大して引用しよう、というところにとどめようと思う。
10)そしてまた、把不住については、すでにいくつかの文献を揃えて当ブログへアップ済みだが、より濃密に、より距離をつめて、日本語文献や、中国文献を漁ってみよう、という試みである。
11)この小さな旅の試みにおいて、中国伝統禅+日本今日的禅を把握し、OSHO晩年の言葉を再確認し、パンデミック下において、21世紀を生きる自らを再確認してみよう、というの、今回の旅の、お楽しみ部分である。
12)こんなことを思いついたのは、実は、読書ブログとしては、かなりネタ切れになっていて、書き手の私のエネルギーもかなり消耗してきている、ということに遠因がある。そしてここに書いたことは、これまで大雑把なくくりで放置してきたものを、再確認して、一粒で二個おいしい、という、振り返りの旅を試みよう、としているからである。もう、ここしかないだろう。
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