「OSHO、ZENを語る」玉川信明<6>
「和尚、禅を語る」 <6>
玉川信明 2002/02 社会評論社 単行本 263p
不思議なものである。ここにきて、洞山良价(とうざん りょうかい)や雲居道膺(うんごどうよう)の片鱗が見え始めた。
七話 知識人より愚か者たれ雲居道膺(うんごどうよう) は洞山の第一の弟子として知られている。洞山に初めて対面した雲居は、「名は何と言うか?」と尋ねられた。/雲居は答えた。「道膺です」/洞山は言う。「それを超えたところを言ってみなさい!」/雲居は応えた。「それを超えたところをいうなら、私の名は道膺です」/洞山は言った。「私が師とお会いした時も、同じように答えたものだ」/雲居は洞山 のもとに何年もとどまった。洞山の許に集う弟子たちは常に五百や千を下らず、そのうちの二八人が悟りを得た。/雲居自らが悟りを開き、師となってからのこと、ある僧が問いを訪ねた。/雲居は言った。「お前は愚か者だ!」/僧は言う。あなたもです!」/「では、その『愚か者』の意味はなんだ?」と雲後は尋ねた。/僧は踊りだした。/その僧が去った後、雲居は彼を讃えて言う。「なんにせよ、誰もが何かを得ようと努めている。無論、禅の利得は無利得であるが」。 p115「第四章 答えはこれ、これ、千回もこれ」
1)この玉川本シリーズも困ったものだが、困った本のサンプルとして置いておくことも悪くはない。基本的に私は好きなのだ。少なくとも、このような杜撰な編集をした本はほかに存在しない。ここに引用されている部分も、何を言いたいのか、わからなくなってしまう部分でもある。
2)そもそも、この第四章第七話なんて、原点にはどこにもないのだ。そして現代は「これ これ 千回も これ」禅のまさに真髄ーーーである。少なくとも「答えはこれ」ではない。また引用部分は途中でぶちぎれた形になっている。これではなぁ・・・。
3)洞山良价 と雲居道膺の出会いのエピソードについては、「雲居和尚墨跡集」における次の部分に当ブログは関心があるのだ。
把不住(はふじゅう)というのは、中国唐代の禅僧、雲居道膺(うんごどうよう)が師の洞山良价(とうざん りょうかい)から「此の子、巳後千人万人といえども把不住(とらまえられぬ)ならん」といわれた故事による。 「雲居和尚墨跡集」 表紙
4)ということで、ひょっとすると、違う部分の引用なのかもしれない。その可能性も含めて、今後、留意しながら、読み進めるものとする。
5)OSHOの最後のZENシリーズ+英文+把不住の小さな旅といいつつ、この玉川本に躓いている程度では、まだまだ旅は始まった、とは言えない。ただ、この本に引用されている。道元、馬祖、臨在、などは最後のZENシリーズに入っていたことを思い出さなければならない。
6)玉川本は、邦訳文献だけが引用されており、さらには、誤引用、不明瞭引用で、混乱してしまうこともあるが、明晰な理解力をもってすれば、なぜに玉川本が間違ったのか、が明確になってくる。そういった意味においては、貴重本である。(反語的であるが)
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