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2021/01/21

「禅百題」鈴木 大拙<2>

<1>からつづく

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「禅百題」<2>
鈴木 大拙 (著)
2020/12  河出書房新社 単行本 : 208ページ
No.4451★★★★☆

Oshoの晩年は限りなくzenに終着していった。登場する人物、エピソード、経典、一つ一つが禅そのものになっていった。

そもそも私には禅的な背景しかなく、特に道元の流れに即したものがほとんどだった。聖書研究協会にも出かけたし、法華経流の情報にも触れた。

一般的ないわゆる新興宗教的な流れにも触れたし、いわゆる土俗的な神道系の情報にも触れた。古い教えは迷信とスティグマを張りつつ、一定の距離を置きつつ、親しみを感じたことは、確かだ。

だが究極を切り詰めた場合、禅が最も尤もらしかった。禅の向こうにある仏陀が一番の救いであるようだった。

究極にOaho がzenに向かった時、私はホッとした。これでキリストにもいかず、ヒンドゥにも深入りせず、スーフィーやタントラや、あるいは道教や、超科学や、未来学や、ありとあらゆる支線にも入り込まずに、すみそうだった。

でも、そうであっただろうか。最後の解が禅と出た限り、余計なエネルギーを使わないで済む。そのような心の間隙を見逃すOsho ではない。

禅といい、Zenといいい、では私の禅はどこまで行っただろうか。私の禅はそこまで帰ってきただろうか。禅は見えているだろうか。禅にいるだろうか。

私の慢心は、あらゆる停滞を招いた。私は若い時分から旅をした。神社仏閣は、老人になってから回ろうと思ってきたが、いざ老人となってみれば、どうしてどうして、神社仏閣など回遊している余裕など生まれなかった。

それと同じく、禅と決まった限り、禅は後回しにして、その前に片付けるべきものを片付けよう、として後回しにしているうちに、私の禅に向けるエネルギーに限界さえ見え始めている。

これではいけない。禅は最後の解ではないのである。禅は始まりに過ぎない。禅が消え去るほどに、禅に没頭し、一体化し、無化し、忘れ去るほどに、同化する必要があるのである。

私の67年はなんであったのか。やるべき宿題を後回しにして、遊びまわって、ついに夏休みの終わりが近づいた小学生みたいなものではないのか。

禅という言葉に止まるなら、算数や国語という、教科名をノートの表紙に書きつけただけではないのか。中身はあるのか。何を学んだのか。何を体験し、何を領下したというのか。

禅という言葉は、何の役に立っているというのか。仙台にいて東京といえば、たしかに方向性はあるが、東京にいて、東京に行こうなどいう言葉は意味がない。東京のどこに行こうというのか。

新宿なのか、江東区なのか、新宿なら、そのどこなのか、どの建物の、どの階にいるのか。どの部屋の、どの窓から、どういう形の自分の新宿を見ているのか。

そこから仙台は見えるのか、空は見えているのか。空を見ている、自分は見えているのか。

自分の何が見えているのか。名前か、顔か、仕事か、家族か、残された命か、外なのか、うちなのか。

自分の仏性は見えたのか、本心は悟り得たのか。終わったのか。消えたのか。生まれたのか。その煮詰めは終わったのか。準備はできているのか。

禅、の一言に、逃げてはならない。隠れてはいけない。エンカウンターしなければならない。今こそその時である。

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