「禅百題」鈴木 大拙
「禅百題」
鈴木 大拙 (著) 2020/12 河出書房新社 単行本 : 208ページ
No.4451★★★★☆
OshoはDTスズキを評価した。おそらく大拙が存在しなかったら、Oshoの講話内容も大きく変わったに違いない。大拙は、欧米に英語で禅を紹介した。ZENがあるのは、DTスズキのおかげだろう。Oshoの語るZENは、大きく大拙に依存している。
しかし、それはZENという衣装についてである。DTスズキは、大いにその衣装を欧米にばらまいた。そのもの、あるいは、その影響下にある人物や書籍や潮流が、Oshoを大いに刺激した。それを採用し、援用し、さらに解体した。
禅と坐禅とを区別するとよい。近頃日本での流行は坐禅だ、寧ろ坐禅の真似事だ。真似でも親孝行は殿様から褒められると云うから、坐禅の真似も決して悪いことではないが、これを禅そのものと思われたら大変であろう。
印度はあらゆる宗教的行事の本家本元である。坐禅もそこから出て来た。坐禅と禅定とは同じい。結跏趺坐の形で禅定を修する。何事にも形は必要だ。この形を吉祥坐と云う。これで以て心を一処に制する訓練をやるのである。散乱心では何事もできぬ。
併し訓練の技術は畢竟じて技術である、「そのもの」ではない。この区別を知らずに坐禅のまま入定し去った人もある。古廟裡の香が化したのが禅ではない。固(もと)より禅定も一念万年にし去るほどに進めばこの上もないことである。禅はそこにはないのである。
禅には、一種の知がなくてはならぬ、般若の閃きがなくてはならぬ。「知之一宇衆妙之門」と神会は云う、その通りである。併しこの知は相関性のものではなくて、絶対的でなくてはならぬ。相関性の知は「知之一宇衆妙之門」である。禅者もこの点に於て反省すべきであろう。
坐禅は知ではない。知はそれから出るでもあろうが、坐禅はどこまでも方法である。坐禅を目的そのものとすることもある。併しそれは禅ではない。「座脱立亡」は即ち亡きにあらず、先師の意は未だ夢にだにも見ざること在り」だ。定慧不二に到りて初めて禅ありきと云ってよい。近時坐禅の人々、よく思いを此処にいたせ。至嘱至嘱。p71 鈴木大拙「禅と坐禅」
コロナ・パンデミックもいよいよ足元まで押し寄せてきている。知人もひとりづつ隔離生活に入りつつある。大型病院に隔離されるもの。ホテルに隔離されるもの、自宅に隔離されるもの。いずれ私も隔離されるのであろうか。
自宅隔離なら二週間など適当に暇つぶしできるが、病院やホテルだったら、最低でもスマホやPCなどを持ち込まなければ時間がもたないだろう。いやそれだけでも退屈だ。それこそ坐禅三昧にでも更けようか。病状如何によってはそれも不可能か。まぁ、せめて持ち込めるなら一冊この本でももっていけば、あちこちパラパラ、二週間は過ごせるだろう。
1月19日。31年前の今日、Oshoは肉体を離れた。早いものである。 合掌
禅百話くしゃみ一発吹き飛ばせ 把不住
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