「栄西」臨済宗 京都・宗祖の旅 高野 澄
「栄西」臨済宗 京都・宗祖の旅
高野 澄 (著) 2014/03) 単行本 – 2014/03 5出版社: 淡交社 単行本: 211ページ
縁がないもののと、これまでは栄西についてはノーマークだった。もひとつ訴求力が弱い。なんだかうすぼんやりしている。禅宗にしては、ちょっとオーソドックスでクラシックで、保守的だ。そんなイメージがずっとあった。
されど、この書をめくって気づいたのは、栄西がなければ道元はなかったということだ。それは、法然がなければ親鸞がいなかった、ということとほぼ同じ意味になる。
そうとなると、最澄は、空海は、あるいは日蓮は、このシリーズではどう語られているのだろう、ということだ。つまりは、この鎌倉の宗祖たちの全体的な流れ、補完関係、反目関係、その背景などを、包括して理解していく必要があるのだろうな、ということ。
ただ、そもそもの出発がZENであり、現代の瞑想としてZENを理解するだけなら、枝葉末節に引っかかってしまうのは、困りものだ。ZENを理解するために他力本願の親鸞を訪ねる旅にでている現在の当ブログではあるが、余裕があれば、そちらの脇道も楽しかろうが、無理してまで、足を伸ばす必要もない、と感じる。
されど、法然。なるほどね。人生そのものはそれぞれにユニークだ。まったく別々の道である。だがしかし、この京都・宗祖の旅というコンパクトなシリーズで、同列に比較してみるのも、なかなか面白い企画だと思う。ここまでくれば、この位の感覚で、それぞれの宗祖たちのイメージは必要となるのだろう。
そしてまた、またまた苦手な分野に突入ということになるが、政治や国家の在り方、武家社会の進捗などにも、一本筋の通った理解が必要になるのだなぁ、と思う。
ここから、わが仙台・伊達政宗まで、当ブログはつなげていけるだろうか。
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