「大河の一滴」五木 寛之
「大河の一滴」
五木 寛之 (著) 1999/03 出版社: 幻冬舎 幻冬舎文庫 文庫 328ページ
いつの頃からか、わが家の書棚にある、この文庫本一冊。私が読んだものではないことは確かだが、誰かが読んだに違いないと、放置してきた。今朝、親鸞つながりで、五木寛之を思い出して、そういえば、この本があったな、と取り出してきてテーブルの上においておいた。
これを機会に、奥さんにこれ誰が読んだの?と聞いてみると、彼女も知らないという。おそらく子供の誰かが読んだんでしょう、というお答え。出版は平成11年(1999)とあるから、今からちょうど21年前。出版から遅れて読んだ可能性もあるが、その時期は確定できないが、子供たちが家にいたのは学生時代までだから、それでも十数年前に、家族の誰かが読んだことになる。
となると、仮に20才前後でこの本を読むことのメリットは、どんなことなのだろう、と、まだページをめくりもしないで逡巡した。大河の一滴。大河とは、なんとなくイメージとして、ガンジス河を思い浮かべる。今度のパンデミック騒ぎで、インドの工業もロックアウトされ、ガンジス河もきれいさがよみがえったそうだが、なんとも不思議な現象である。
五木はいつも近くにいるようでいて、決してハマったことはない。いつぞやは深夜テレビで「百寺巡礼」というシリーズをやっていて、ハマったと言えばあれはそうだったかもしれない。単行本もあることを知った。でも本にはハマらなかった。各地の寺社仏閣のレポートの画像が楽しかったのだろう。
さて、彼には立松和平 との対談があり 「親鸞と道元」(2010/10 祥伝社)があるが、立松の急逝により未完のまま終わっている。だが、五木は、親鸞と道元、といえば、親鸞の側に立ちそうなイメージがあり、その面からもちょっとこの際、この作家をせめてみたいな、とは思っていた。
まだ読みもしないうちから、本当に読むだろうか、とちょっと面倒くさい感じがするのは、テーマや作家のせいではない。私自身が、最近あまり本に魅力を感じなくなり、読まなくなっているせいである。その面倒くささを押し切って、私にこの本を読ませてしまうかどうか。そこんところが、私個人は楽しみである。
そして、今夜ふと思ったのは、親鸞は、若い時に出会う宗教家ではないのではないか、ということ。若い時代はむしろ、道元の方が分かりやすく、共感しやすい(だろう)。探求心を鼓舞し、背中を押してくれる感じがする。
片や親鸞はどうか。晩年になればなるほど、人生には成果も上がるだろうし、失敗談も増えるに違いない。きっと煩悩も増え続けていくに違いないのだ。その晩年の懊悩というものを、むしろ道元よりも親鸞のほうが掬い上げていくのではないか。ここが直観である。
52歳まで生きた道元と、行年90才の人生を生き切った親鸞では、おのず最終的な結末が違うのではないか。ここのところが、まったくの同時代人でありながら、開いた世界の違い、支持される範囲の違いに、反映されてくるのではないか。
とくに作家や探求者たちが、結局親鸞に行きつくイメージになんらかの影響を与えているような気がする。今夜のファーストインスピレーションだった。
つづく・・・・・・かなぁ・・・
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