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2020/06/25

<異説>親鸞・浄土真宗ノート 玉川信明 <6>

<5>からつづく 

「<異説>親鸞・浄土真宗ノート」 <6>
玉川信明 2004/04 社会評論社 単行本 306p
★★★★☆ 

 玉川信明によるOSHO霊言集(笑)も第4章ともなると、なかなか落ち着いてくる。ざっと読んでいても、あまり違和感を感じなくなる。それは、言葉使いも慣れてくるのと、内容が新奥部分に達して、なかなか興味深い内容になっているせいもある。

 ただ、玉川一流の作文法により、このままどっかのOSHO本から丸写しにしている可能性もないとは言えない。ただ、私にはどっからもってきたかは分からないが、ズバリわかる人にはわかるだろう。

 そもそも玉川は、邦訳本しか原典として採用していないので、大かたの検討はつく。そして、おそらくは、あまり外してはいないのではないか。ここにきて、やはり玉川は晩年にOSHOに傾倒した、と表現されても、決しておかしくはないのだろう。

ーーー親鸞が最後にたどり着いたと言われる悠々自然の境地「自然法爾」と老師のいう「タオ(タオ)」は似通っていますが、どこか違いがありますか?

和尚 二人の思想は共通している面が多く、似ているように見えますが、中身はまったく異なります。それは親鸞自身が文章にそれを認めていて、次のように言ってます。「だから老子や道教の思想が仏教に似たところがあるからといって混同したり、垂迹説を立てたりするのは怪しからぬ。

 況んや老子の説に迷うようでは沙汰の限りである。仏教のいう徳は老子や道教のそれと違って、いかなる徳も備えないものはないというの涅槃である。そしてどんな教えも広く行きわたっているのが菩提である。・・・・・従って老子の学派はすでに菩提の地を踏んでいるのである」。老師は大道というが、それは実は菩提だ。

 自然(じねん)とは独りでそうなることで、阿弥陀仏の方から救済しようというのです。p190「第四章 私には西方浄土は住みがたい土地」

 う~ん、論点はどこにあるのか? 結局、OSHOはどちらかと言えば詩人なのであり、感性的な表現はあったとしても、決して論理家ではない。それに比するところの(元コミュニストの)玉川は、言葉の論理性に重きを置き、その言葉の積み上げに、何事かの根拠を求める。

和尚 (略)自我は作り物であり、現実に必要のない時以外は、死ぬほかはない運命にある。本当の自己(空)はあなたが生まれる前からあったし、あなたが死んでしまった後もあるだろう。

 本当の自己は誕生と死の間だけに存在しているのではない。むしろ逆に誕生と死は、本当の自己の悠久の旅の中でのただのエピソードにすぎない。人間にはただ一つだけの生死があるのではない。今までに何度も起こっているし、これからも何度も起きるものだ。

 自分の本当の核心に気がついたその時、人は永遠なるものに気がつく。そして永遠なるものを知ることは真正浄土を知ることだ。本当の自己は真正浄土への扉となる。p197 同上

 ふ~~~ん、これが霊言集の結語である。ふ~ん。ブッタにとって、質問するものがあってこその答えなのであって、質問者へとどくことを目的としてブッタは言葉を使うわけだから、玉川が受け取った答えは、玉川があったればこその言葉であったということになろう。

<7>につづく

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