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2020/06/19

「日本文化をよむ」 5つのキーワード 藤田 正勝<5>

<4>からつづく

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「日本文化をよむ」 5つのキーワード <5>
藤田 正勝 (著) 2017/08 岩波書店 新書: 224ページ
★★★★★

 親鸞がひたすらに目を向けたのは、煩悩に惑わされ、いかにしても迷いの世界を脱することのできない衆生、戦乱や飢餓に苦しみ貧困にあえぐ農民や商人であった。p42 「親鸞の悪」

 道元を思う時、どうしても清純過ぎてゾルバ性が足りないなぁ、と痛感する。その時のゾルバ性とは、まさにOSHOが言うところのゾルバ・ザ・ブッダとしての人間像におけるゾルバであり、道元はまさにブッダ直系と言ってもいい。

 親鸞はすべての罪業を自分一人に負わせている。しかし、その無限の罪業を背負った親鸞をあわれみ、助けようと思って願を立てた仏の慈悲の「かたじけなさ」が同時に意識されている。p55 同上

 親鸞は、OSHOのゾルバ・ザ・ブッダという人間像のにおいては、ゾルバ性に偏っているだろう。ただ、ゾルバと親鸞では多いに違いがある。親鸞は、悪を悪ととらえ、悲しみでそれを乗り越えようとする。しかし、ゾルバは自らを楽しみ、喜び唄う。

 罪業を背負い徹底して懺悔せざるをえない自分であるにも関わらず、そのうえにも光はみちてきて、そのはたらきによって包まれる。この転換を親鸞は経験したのである。p55

 OSHOの人間像は、ブッダでもなければ、ゾルバでもない。ゾルバ・ザ・ブッダなのだ。親鸞は、自らのゾルバ性を脱出するために、外在する阿弥陀仏というブッダ性を必要とする。自らを徹底的にゾルバと規定するがゆえに、バランスをとるために、他力易行としての念仏が必要となるのである。

 親鸞においてはそこにゆるぎのない新人、信仰者としてのゆるぎのない生が確立したのである。その信仰を親鸞は「歎異抄」(六)のなかで「如来よりたまわりたる信心」と表現している。それは自己が自らの力で獲得した信心ではない。賜った信心である。p56 同上

 親鸞や道元が生きた時代は、今から600年前の鎌倉時代である。すべてにおいて人間生活のスタイルが違っているだろう。私たちは21世紀もすでに20年も経過した時代に生きている。この時代において、私たちは生きていくのであり、未来に向かって、伝えるべきものは伝えていく必要がある。

 それは自己の罪業さがなくなるということではない。清らかな花が咲いたとしても、それはやはり汚泥のなかにある。汚泥がその存在の条件であると言ってもよいだろう。自己のなかにはやはり引きつづいてそこのない深い淵がある。p57

 親鸞は、人間性悪説論者なのだろうか。人間は罪業を背負った存在なのであって、絶対他力の阿弥陀仏以外に救いはないとする姿勢。それに対して、OSHOは、まるで人間性善説論者でもあるかのようだ。自分の中にブッタはいるとする。しかもなお、ゾルバのように楽しむのだ。

 救いは、ただ単に汚れたこの世を超出することではない。むしろ汚れた身であることと、汚れを脱することとが一つに結びついたところに成立する。親鸞がそのことを深く理解していたことが、ここから知られ鵜。生死と涅槃、有漏と無漏(煩悩の汚れがないこと)、換気と懺悔によって裏打ちされていること、繰り返し懺悔へと投げ返され、それを通してはじめて歓喜でありうることを、親鸞ほど深く理解した人はいなかったと言えるであろう。p59 同上

 ここの人間像は、かなり近い。されど、OSHOは繰り返し懺悔などはしない。瞑想し、自己に向かいあい、唄い、踊り、歓喜のなかで、日々生きるのである。

 涅槃や救いは生死の外に、言わばそれ自体として抽象的に求められるものではなく、むしろまさに生死の世界にこそ求められるとした点に、親鸞や道元に代表される鎌倉仏教の宗教的精神の大きな特徴を見てとることができる。p59 同上

 私たちは、この21世紀のグローバル社会に生きている。AIやテクノロジーに囲まれ、パンデミックの危機に遭遇しながら、なお、唄い。踊り、瞑想する。これが現代スピリチュアリティの大きな特徴だ。

<6>につづく

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