<異説>親鸞・浄土真宗ノート 玉川信明 <2>
<1>からつづく
「<異説>親鸞・浄土真宗ノート」 <2>
玉川信明 2004/04 社会評論社 単行本 306p
★★★★☆
さて、いよいよこの本に戻ってきた。15年ほど前にブログを始めた頃は、やりたいこと、読みたい本がたくさんあって、一度はこの本に出合ったものの、この支線を深追いするほどの余裕はなかった。
この度、ある意味やりたいことはやりつくし、読みたい本はほとんど読んでしまった段階で、ふたたびこの本を思い出した、というわけである。
玉川信明については、一度追っかけてはみたものの、当ブログ初期の段階で、リストそのものも十分なものとしては残されていない。21世紀になって、突然OSHO本を繰り出してこられ、身に降る火の粉は払わにゃならぬ、の一心で逃げ切ってきたので、逃げてしまえばそれでいいや、と思っていた。
それに、玉川という御仁、晩年にOSHOに傾倒したものの、最終的にはこの親鸞本を一冊残して身罷った、と理解(誤解)しており、まぁ、縁のない御仁だったな、と勝手に思い込んでいた。
されど、だれもかれもが最晩年には親鸞に行きつく、という現象を遠巻きに見ていて、それは一体どういう現象なのか、と、いつかは親鸞突入のチャンスをうかがっていたともいえる。
今回、この本をもう少し突っ込んでみたいと思い、ネットで検索したら、思いのほか安価にでていたので、資料としてはそれでいいや、と思い入手した。ところがどっこい、最安値にして、かなりの美本であり、なおのこと、新刊同様の帯までついていたのである。前回は図書館本だったので、帯はなかった。
この帯を見て、初めて私は、ひょっとすると、私は玉川を大いに誤解していたのではないか、と思い始めた。「阿弥陀仏による救いはついになかった」これは、親鸞そのものの述懐でもあろうが、玉川が親鸞に対して持っていた思いの、最終決算ではなかったのか、と感じることになった。
前回のそそかしいパラパラ読みに続いて、今回もまだ最初の数十ページを開いたところだが、まずは玉川本人は、人生初期の段階ですでに親鸞とは出会っていたのである。ある意味、彼の宗教心のベースは親鸞にあったといっていいのであった。その玉川が、晩年にOSHOと出会い、結局は、親鸞に別れを告げにいく、という最終章だった、と理解できる一冊であった。
そもそも玉川のOSHO理解も、<異説>OSHO・瞑想ノート、と名づけてもいいくらいの、ちょっとした頓珍漢な部類に属するものであり、全肯定的に首肯できるものではない。そもそもが、どこかの教団なみの、OSHO霊言集みたいな表現は願い下げではあるのだが、視点は、ひとりの先人としての見かたとしては、まずはこれもありかな、と思わせるものがある。
そしてまた帯の裏表紙側もなかなかに意味深い。「親鸞はまたしても阿弥陀仏にすごすご帰らざるをえなかった。」とある。こここそ親鸞の魅力が倍増する面ではあるが、はて、玉川信明その人も、最終的には親鸞に帰らざるを得なかったのか。その辺を、今回はもうすこし見極めたいと思うのである。
それとともに、玉川と交流のあったとされる竹中労、彼との懐かしい接触の一場面が、旧友たる菅野ひろこ氏の「長距離ランナー」に記載してあるのを、ごく最近チラっと見てしまったので、この際、その辺まで足を伸ばしてみることにする。
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