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2020/06/15

<異説>親鸞・浄土真宗ノート 玉川信明 <5>

<4>からつづく 

「<異説>親鸞・浄土真宗ノート」 <5>
玉川信明 2004/04 社会評論社 単行本 306p
★★★★☆ 

「第二章 この世に信念・信仰・信心は不必要だ」、「第三章 念仏は自己同一化のための自己催眠」、いよいよ霊言集(笑)は続く。親鸞とOSHO、それぞれに通じたマニアックな読者でさえ、なにがどうなっているのか、一読ではわからないだろう。

 そもそもが論点がズレまくっているのである。玉川はOSHOに対して、ドグマ論争を仕掛けている。親鸞、浄土真宗、阿弥陀仏から連想される論点を、次から次と連射する。それは浄土教関連で話題になっている部分であるのだろうし、玉川が80冊の親鸞本を読んで引っかかった部分でもあるのだろう。

 そもそもOSHOは、ドグマ論争はしない。OSHOにはドグマはないし、ドグマそのものを否定、あるいは無視している。時にドグマに触れることがあったとしても、質問者がのっぴきならない理由で、そこに触れなければ、質問者の個人的な疑問点が解決しない時に限られている。

 まさに玉川の、仮想OSHOに、自らの思いついた振り付けをつけて、一人で対戦する一人相撲である。

和尚 (略)それはマルクス主義者の林田茂雄という人です。彼の結論的な論理を明かすと、阿弥陀仏というのは、どうにもこうにもならなくなった絶望と懐疑の境地において初めて救ってくれるのが、浄土信仰の強いところだというものです。p146 「第二章 この世に信念・信仰・信心は不必要だ」

 こんな文脈を読まされて、誰が、この和尚とはOSHOのことだ、と連想できるのだろうか。

和尚 (略)私は全一に愛したし全一に瞑想した。人はその両方を知って初めて全体となるのです。p150 同上

 少なくとも、OSHOはこんな言い方をしない。人間・親鸞と、エンライトマスターOSHOを比較すること自体、成立しない試みなのだ。OSHOは質問者の具体的な彼自身の問題に対して、光を当てる。その立場から考えれば、「全一に愛した」なんて言い方はあり得ない。エンライトマスターは愛そのものなのであり、愛「する」なんてことはない。

 同様に、OSHOが「全一に瞑想した」なんてことはない。エンライトマスターにおいてもはや「瞑想」は不要だ。ここで玉川は、OSHOにおける瞑想、という概念を、まったく理解していないばかりか、頓珍漢な曲解をして決めつけている。

和尚 (略)愛を円周とするなら「信頼」はそのまさに中心、その魂だ。p154 同上

 泣きたくなる。もし誰かがOSHOを引用したいのなら、その出典を明らかにして、その文言をできるだけオリジナルな形で引用すべきである。そもそもの言語をダイレクトに引用できるのではあれば、そのほうがいい。翻訳ものであれば、できるだけ、一般的な方法で行われている翻訳法に従って、他の翻訳との整合性、連続性をはかるように注意深く対応すべきである。

和尚 (略)マントラの一つである「南無阿弥陀仏」の南無は帰依の意味、つまり阿弥陀仏を絶対に信頼しますの意ですね。六字の名号とも言う。その名号を称えることを称名念仏といいますが、元来仏教での称名は仏に対する帰依を表明するものとされているから、その原型は、仏、法、僧の三宝への帰依ともなる。その帰依の姿はあなたの言う通り、家族みなそろって行うことで美しく見える。しかし一方では膿んだ和合美とも言える。p162 第三章 念仏は自己同一化のための自己催眠

 私は正直泣きたくなる。いや笑っていいのかもしれない。あるいは無視するか。いままでは無視してきた。本当は笑う気にはなれない。

和尚 (略)私は現代人に向くように音楽にのって飛んだり跳ねたり踊ったりするような現代禅とでも言うべき数多くのわざを発明しましたが、それでも超越的に人間変革できるものはなかなか少ないのです。p166 同上 

 基本的な弁明であるならば、自分の言語に落とし込まないで、原文をそのまま記すべきである。

和尚 (略)沈黙を聞き、沈黙を理解するには、とてつもない寛容が必要だ。沈黙は神を理解するにはなくてはならないもの、真理を知るにはなくてはならないものなのです。念仏は不要です。p175 同上

 お付き合いするだけで、大変である。

<6>につづく

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