« 朝課諷経 総持寺 | トップページ | 放送大学<9> 筋トレアカデミア »

2020/01/18

「道元 典座教訓」 禅の食事と心

51a9m1ifuyl
「道元 典座教訓」 禅の食事と心 ビギナーズ 日本の思想
道元 (著), 藤井 宗哲 (翻訳) 2009/07  角川学芸出版文庫: (角川ソフィア文庫) 174ページ
No.4383★★★★☆

 お米に混じっている砂やごみを見分ける。心しなければいけないのは、お米を見るつもりが、砂を見てしまい、砂を見て捨てるつもりが、米を見てしまう。細心の注意をはらって見分ける。寸秒の油断があってはいけない。

 これは、なにもお米と砂の関係ではない。人の心の、良心、邪心、聖を求めての向上一途、修行という大義名分だけの、無為なるその日暮らし。お米とわれとの三昧、一体。ごみや、砂とも一体。しかし、それでいて二者区別。それが禅である。禅師はそうおっしゃっているのではないか。p32「米を研ぐ即ち禪」

 不思議なものである。ここまで読みかかった時に、奥さんから、「近々袋の米、精米してきてね」と依頼された。さっそく近くの精米機に移動。玄米を精米機にかけた。いつも慣れた手続きだが、今日は、ちょっと違った。ごみや砂の混じり方が半端ではないのである。このままでは食えない。 

 親戚の農家から30キロ単位の袋で玄米をもらうことが多い我が家では、大変助かっているのだが、今回は、古古米が余っているけど、欲しい? と聞かれた。もちろん、と答えて、もらった袋の中の、一体である。でも、これはおかしいなぁ。

 この後は、いつもなら奥さんに任せてしまうのだが、今日ばかりは、何かのお知らせだろうと思い、30キロの袋の米をひと掬いひと掬いして、砂やごみを見分けてみることにした。

 結論からいうと、もっと時間がかかるかな、と思っていたが、二時間ほどでこの作業は終了した。最初は手順がうまくいかず、砂を捨てるつもりが米を捨てていたり、拾った砂を元の袋に捨ててしまったりと、なかなかうまくいかなかった。しかし、だんだん注意深くなると、割とすんなりいくようになり、何かのゲームをやっているような楽しさに集中できた。

 そして、思った。米と砂やごみの違い、とは何か。ごみや砂と言われるものは、実は、いろいろなものが混じり込んでいることが分かった。もちろん少量の砂もあるが、小枝や虫の糞のようなもの、木の実のかけら、未熟だった米、過熟だった米、古米ゆえに黒ずんでしまった米、などなど、様々である。注意深く見ていると、なかなかに変化に富んでいて面白い。

 それに反して、米はどうだ。米は類似性があり、一体性がある。米は一粒一粒では、あんまり役に立つとは思えない。たくさんたくさん集まって、ようやく米として成立しているようだ。大きな30キロ全体の袋として、米、を主張しているように思える。

 さぁ、今日の気づきはここまでだ。これ以上、蘊蓄を深めると、なんだか迷いになりそうだ。米と砂やごみは明らかに違う。米は大事な食糧だが、砂やごみは食えない。食ってしまえないこともないだろうが、砂を噛む味気なさは、実に残念なものである。米は米である。だが、勿体ないから一粒も残してはならないと言われつつ、一粒では役に立たない。

 注意深く、細かい作業をしながら、米や砂やごみを離れて、今ここにいる自分を感じることとなった。

| |

« 朝課諷経 総持寺 | トップページ | 放送大学<9> 筋トレアカデミア »

21)辷の巻」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 朝課諷経 総持寺 | トップページ | 放送大学<9> 筋トレアカデミア »