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2019/08/04

山本太郎の潰し方?

山本太郎の潰し方?

 長年にわたって数々の名勝負をジャッジしたレフリーにしてマッチメーカー・ミスター高橋は、スター・プロレスラーが誕生するには三つの要素が必要だという。

 まず、「勢い」。なんであれさっそうとしていなくてはならない。ヒールであろうと、ベビーフェイスであろうと、得意技、個性、売り、反則、体形、民俗的背景、なんでもいい。とにかく、そいつに勢いはあるのか?

 二つ目は、「アングル」だ。絵になる風景。カッチョイイ~、とファンがしびれる決まりのアングル。何度見ても絵になる、これぞというシーン。ファンの血潮が沸騰する最高の場面構成だ。

 三つ目は「波」。ファンはそれを押すのか? 押すだけのエネルギーは溜まっているのか。どこまで波及する? どれだけ掘り起こせる? 限界はあるのか? 実はここが一番のメインだ。なんせプロレスは、観客が押し寄せてくれなければ、興行が成り立たない。

①力道山型

 黒タイツを履いて短足をカバーした力道山が、元関脇という「勢い」を持って、日本のリングに登場した。「アングル」は空手チョップだ。押し寄せる凶悪外人レスラーを、伝家の宝刀、空手チョップでバッタバッタとなぎ倒す。戦後日本の焼け跡から、立ち上がろうとする民衆は、大きな「波」となってテレビの前に押し寄せた。戦後最初の国民的スーパースター力道山の誕生である。

 この人気絶頂期の力道山を潰したのは、酔客のナイフである。それが単なる事故だったのか、怨念だったのか、陰謀だったのか、今となっては分からない。しかし、彼は一発のナイフの突きで潰された。政界で言えば、石井紘基。国会の爆弾男。巨悪を追い詰めるだけ追い詰めたあと、最後は兇刃によって潰された。

②タイガーマスク型

 欧州遠征中の佐山サトルは、思いがけず本国に呼び戻される。アニメキャラクターの「勢い」を借りて、日本でデビューせよ、と指名を受ける。ストロングスタイルの彼には、フェイクなスタイルに戸惑った。されど、軽量級の佐山には、タイガーマスクがぴったりだった。リングを飛び回る四次元殺法という「アングル」があまりにもハマった。

 ファンは熱狂した。おっさんのみならず、家庭、少年、アニメファンまで巻き込んで、とてつもない巨大な「波」を掘り起こしてしまった。されど、佐山サトルは、そのフェイク性に耐えることができなかった。そのフェイク性そのものが、初代タイガーマスクを潰した。初代以降、二代目、三代目と続いて、名前のみ残したが、未だに初代を超えることはない。

 政界で言えば、民主党の短期政権に当たるか? 次から次へとスターを取り換えるが、結局はベビーフェイスにも、ヒールにもなれなかった。

③クラッシュギャルズ型

 めっぽう強いライオネル飛鳥と、かわいいけど目茶弱い長与千種の女子プロの伝説的タッグ、クラッシュギャルズ。彼女たちの「勢い」は、長与千種の弱さ=泣き。極悪同盟に痛めつけられるだけ痛められた長与千種を、さっそうと助けに入るライオネル飛鳥。これが彼女たちの「アングル」である。

 彼女たちの女子プロに熱狂したのが、鼻の下を伸ばした中年男だけではなく、女子、特に中学生、小学生の女子までが、涙を流して熱狂した。当時中学生だった、のちのWinkの相田翔子とか、のちにタレントとなる小学生時代の山田花子も、熱狂し、人生が変わったという。これを「波」と言わずして他の何をいうか。

 クラッシュギャルズを潰したのは、皮肉にも彼女たちの勢いであり、アングルであり、波であるところの「弱さ」の過度の強調だった。敗者の美学は、1985年大阪の「髪切りマッチ」で終焉した。

 敢えて政界に例えるなら、日本新党の細川護熙に喩ておこうか。もう二度と政界に戻らないと誓ったはずの「不東庵」主は、なぜかふたたび東京都知事選にでて、ふたたび三度負けた。

④山本太郎の場合

 さて、山本太郎の、勢い、アングル、波、はどう捉えられているか。落選し、議員宿舎を出た太郎を「刺す」ことはそれほど難しくはなかろう。力道山や石井紘基のような結末は絶対避けるべきだが、全身傷だらけの彼のことである。スキャンダルの転び石を、ひとつふたつ見つけることは、それほど難しくはなかろう。政策の矛盾、スタッフの齟齬、手は山ほどある。それを、彼自身、どこまで避けて自己防衛することができるか。

 あるいはまた、「消費税廃止」を、「消費税5%に戻す」というフェイク性に、いつまで耐えることができるか。いくら共闘、連帯とは言え、太郎はそのフェイク性に耐えられなくなるだろう。それを避けるには、やはり政策を限りなく「消費税廃止」に戻すこと。潰す側としては、ずるずると「消費税5%に戻す」を伸ばさせる手口が有効となろう。

 そしてまた、下克上という「弱さ」からの脱却。ここで長々と「敗者の美学」に溺れさせれば、太郎を潰すのは容易であろう。政治は結果である。勝たなければならない。弱さの強調は、結局は、弱さの証明となる。いずれ彼は消えるであろう。

 もし、彼が自らの多動性を生かして存命しつづけ、ワザを磨き、よもや多くの議席を獲得し、多くの論者が具体化可能とする政策を更に一歩進めて、権力を奪取してしまえば、そこからは、もう潰すことができなくなるにちがいない。

(これ、ブラックジョークのつもり W)

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