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2019/08/28

浮動票という生き方

いろいろ考えた。ある若い候補者が、あれこれ渡り鳥している姿にあきれ返ってしまったからだが、はて、それを裏返して、浮動票という「渡り鳥」人生は、正しかったのかどうか。

個人投票率生涯100%を誇示するのは、まあいいとして、はて、投票先を、常に政局を見ながら、人気投票のようにあれこれ振り分けてきてよかったのか。それは、ブレていない、と言えるのか。体幹がしっかりしている、と言えるのか。

他方、一貫して、一つの政党、一つの立場に固執し、いわゆる組織票として、トップダウンで決められた候補者に投票する、という生き方を、悪く言えるのか。否定できるのか。

世の中に、堅物で一穴主義者もおられるだろうし、他からはチャランポランにみられるような浮気者もいることだろう。そもそも、浮動票、という言葉は、蔑称として登場したのではなかったか。

選挙、あるいは投票というのは、民主主義の根幹であり、権利でもあり、義務(?)でもある。いや法的には投票は義務ではないだろうが、私個人的には義務に近い。あるいは、私の出身母体から考えれば、投票しないのは義務を放棄している、とみられる風潮があった。

私は必ずしも保守政党を悪者とはとらえていない。私の生地である農村地帯について、細かい施政をしてくれた時も長い。仏教団体を母体とする政党も、まったく言っていることが理解できない訳じゃない。私は仏教は好きだ。天皇制について拒否している政党の言い分も、理解できない訳じゃない。労働者を第一に考える立場があってもいいだろう。誰にも頼らず、自分の意見を世に問うという御仁がいたって、悪くない。

しかし、そうは言ってもすでに投票人生45年。いまさら固定票ぶることもできないし、組織票の一員として隠れてしまうことも好みではない。私は私なりのこの半生、投票人生を考えて、より肯定的に捉え直してみなければならない。

その時に登場するのは、<帝国>VSマルチチュード、という考え方だ。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの大きな論点を借りるほどでもないが、彼らの提示した図式は、私は納得した。<帝国>はどこかの国を言っているわけではない。世界をネットワークする権力構造のことだ。

それに比するところのマルチチュードは、群衆と翻訳されることが多いが、的を得ているとは言えない。一人ひとりの自立したエキスパートの集合性のことだ、と私は理解する。組織ではないが、ひとつの指向性の中で、こまかく有機的な整合性を見せながら、うごめくもの、成長していくもの。

私は暗黙のうちにこのマルチチュード性を求めてきたし、積極的にその流れの中にいよう、としてきたのだと思う。浮動票というのは、やはり蔑称だと思う。ふらふらと動いて、あぶくのように消えていく票、というイメージがある。いや違うのだ。一票、一票の重みを感じてくれ、という一票なのだ。付和雷同の匿名の組織票などよりは、重い一票なのだ、私は私の投票をそう主張したい。

いま、もし、自公民+財界+CSISなどの流れを<帝国>と捉えるなら、それに対峙するところの流れ、特に山本太郎とれいわ新選組の流れは、私の目の届く範囲に登場したマルチチュードの流れそのものなのだ。昔からこの政党を応援してきた、なんて人はいないはずだ。なんせ、山本太郎が政治家になったのは6年前、この政党が登場したのは半年前だ。彼らが浮動票を集めている、なんて表現は、じつは大変失礼だ、ということになる。

マルチチュードの流れは常にあり、ネグリとハート の登場した21世紀初頭になる前からずっとあったのだ。それにどのような名前を付けるかはお好みだが、その潮流はずっとあり、私は私なりにその潮流を求め、見つめ、時には合流してきた。当然それは国境に区切られた一国的なものではない。国境を越えて、地球規模でつながっているべきネットワークなのだ。

ネグリとハートの言説から私がつかみかけたものは、マルチチュードが掌握すべきものは三つあるということ。一つは憲法であり、二つ目は貨幣であり、三つ目は武器だ。フランス語やイタリア語から英語になり日本語になったりすれば、ニュアンスが微妙にずれている可能性はある。されど、ここでは、現在、日本に生きている自分に引き寄せて、この言葉たちにリンクを張っておく。

憲法。これはもちろんのこと、自治権を持っている住民が自ら作成すべきもので、現在の日本国憲法がその見地からはややズレていることは確実だ。いつかは自らで作成しなおさなければならないだろうし、直し続けなければならない。されど、現在の状況においては、憲法9条関連は大きく変更されてしまいかねない危険がある。今、私を含むマルチチュードは、この憲法を守ることこそ、マルチチュードたるゆえんだと思い得る。

貨幣。一時期、ビットコインなどが代表する仮想通貨(暗号資産とも)が、それにあたるかなと考えてみたことがあるが、扱われ方からすると、いまだ、マルチチュードの貨幣とまではいえないようだ。むしろ、現在においては、にわかに登場したかに見える現代貨幣理論(MMTとも)の方が説得性があるようだ。現在の日本においては、消費税廃止、奨学金チャラ、時給1500円補償、ベーシックインカムなどのほうが、はるかにマルチチュードの貨幣感にフィットしているのではないか。

武器。これは、マルチチュードひとりひとりが武器を携えて戦え、ということを意味しているのではない。むしろその逆だ。権力構造を補完するものとしての憲法、貨幣、そして武力構造、これらをマルチチュードのコントロールできる管理下におけ、という意味である。例えば、現代日本が直面している、沖縄辺野古新基地建設問題。ここが住民たちの県民投票の意志を無視する形で進行している状態は、あきらかに<帝国>が暴走しているシンボルなのだ。ここを止められるくらいに、マルチチュードは力を持たなければならないのだ。

私はこの書き込みにおいて、ひとつ明確にしておきたいことは、蔑称を含む浮動票を自称するのは構わないとして、あやふやでどこに投票していいか分からない、という票ではないんだよ、ということだ。<帝国>構造に対するアンチとして、いち<マルチチュード>として、意識を持って一票を投じ、行動し続けていこう、という立場を明確にしておきたい、ということだ。

おそらく私は個人的には、そういう生き方をしてきたはずなのである。

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