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2019/03/02

「名取せり本」 名取市生活経済部商工観光課

Seri
「名取せり本」
名取市生活経済部商工観光課 2019/01 変形パンフレット 24p 名取せり本のPDFデータ
No.4266★★★★★

 久しぶりに床屋に行ったら、このパンフレットが置いてあった。前に来たお客さんがセリ掘り業の方で、このパンフレットをちょっと大目に置いて行ってくれたとか。なかなかビジュアルで素敵な印刷物である。

 セリと言えば、いろいろな思い出がある。そもそも私はセリ農家の生まれで、米とセリで大きくしてもらったようなものだ。大げさではない。二町歩ほどの米と、五反分ほどのセリが私の家の主たる収入で、ほぼ半分ずつの収入があった。

 そもそも私が子供時代も、セリのことは新聞等の取材を受けており、写真に乗る時などは、地域で一番広い面積を作っていた我が家の写真が掲載されることが多かった。

 私自身がセリ作業をしているところが、NHKテレビで放送されたこともある。近隣にも他のセリ農家があり、セリ自体は、ごくごく当たり前で、ぜんぜん珍しいものではなかった。

 ただ、食べ方は違った。セリのお浸しを食べる、なんて人もいたが、私たちの地方では、お浸しで食べるなんて贅沢だ、と言われていた。ほとんどは白い茎の部分をこまかく切って、お吸い物の薬味などに添える程度のものだった。

 最近、とくにこの3・11後に、地域復興のためにか、地元特産物であるセリの食べ方が、セリ鍋という形で紹介されることが多くなった。茎から葉っぱ、そして、根っこまで食べるのである。今までは添え物・薬味としての食べ方だったが、鍋のメインイベンターとして登場したのである。

 セリ栽培の一番のネックは、寒さ対策である。私たちが子供時代は、セリ苗代に張った15センチほどの厚さの氷を、餅つきの杵のような大きなハンマーで割って入っていく必要がある。お尻までくるゴム長を履き、手袋も厚手で肩までくるような大きなもので、体全体を冷たい水の中に入ってセリを掘る必要があるのだった。

 それでもなお寒く、木製の手桶にワラをいれ、それに熱湯を注いで、それで手を温めながら、作業を進めるのである。掘り方は一日掘り続けることになる。

 次なる工程は、川に運び、豊富な川の水でセリ全体を洗うのである。掘り方が二人であれば、洗い方も二人は必要であった。そしてそれを小さく束ねる仕事が待っている。セリを束ねるのは、主に女性の仕事で、私の母親や親せきの小母さんたち、近所の主婦たちの担当である。

 セリを束ねる作業も、今ならゴム手袋があるだろうが、当時はそんな便利なものはなかった。素手で寒い時期に水仕事をやるものだから、女性陣の手はひび割れだらけだった。桃の花なんていう軟膏をつけたりするのだが、私の母親の手などは、ひび割れの上にひび割れが重なって、まるで、グローブのようなガサガサした手をしていたものだ。

 私のお手伝いは、掘り方から洗い方までの間を一輪車の猫車で運ぶこと。洗ったあとの束ね方までも運ばなくてはならない。そして、束ねるためのワラも必要になる。ワラで束ねるには、ワラを柔らかくするためにワラ打ちをしなくてはならない。これもまた中学校や高校時代は私のお手伝いになった。

 当時は、ビニールテープや段ボールなどという便利なものはなかった。ワラで編んだ俵のようなもので大きく包装して出荷してやるのである。近くには集荷場所があり、業者がトラックで集めに来て市場に運んだ。

 当時の物価との比較もしなければならないが、当時一束で生産者に入ってくるか金は大体5~10円だった。20円なんてことはなかった。ひどい時は3円なんて言われて泣きたくなるような気分でいたこともある。今はスーパーで一束150~200円で売られている。原価を知っている私などには、とても手がでない。

 このパンフレットでは、昔から名取セリは名産で京都などに出荷されていた、と書いてあるが、まさにその通りである。実際に私の親戚は京都の茶道裏千家の業体という家元の側近だったので、その親戚のもとにも、毎年年末になると大量に郵送で出荷されていた。

 このセリがこの地方で名産になった理由はいくつもあるが、大きな理由は水が良質で、大量にあったということだろう。蔵王から閖上に流れる広瀬川の支流名取川の伏流水がふんだんに湧いたのである。

 電動ポンプが普及する時代になると、もう一日中電動ポンプが水をくみ上げ、セリ苗代に注ぎ込まれた。ポンプ水のもうひとつのメリットは温かいことである。自然の流水は冷たいが、ポンプでくみ上げた水は常時3度C以上はある。温かいのだ。

 この豊富な水は酒造りにも利用されていた。実際私の実家の井戸水からは三つのブランドの酒が造られていた。名取市閖上の「浪の音」、岩沼市の「名取駒」、角田市の「大豪」(のちに別のブランドになった)。水量は多く、汲めども汲めども、水が尽きることはなかった。

 そして水量と水質の調査が詳しく繰り返され、合格したために、近くにサッポロビール仙台工場が出来た。

 年末になると、小学生高学年の私は、親戚に自転車でセリのお歳暮の配り方をした。私は年の初めのお年玉というものを家族からもらったことはないが、この年末のセリ配りで、どこの親戚も小遣いをくれた。10軒も回ると、他の友達のお年玉なんかよりはるかに高額になった。

 私の実家は、地域でも一番くらいにセリを大量に出荷していたが、年代とともに、その労働力が不足するようになり、また高度成長時代になると、国道バイパスができて、近隣はドライブインや車販売店が沢山出店するようになった。セリ栽培の環境ではなくなったのである。

 古くは、余田はセリで苦労するので娘を嫁にやるな、と言われたほどだったらしいが、実に重労働ではあった。それを鑑み、私の兄の時代になると、思い切ってセリ栽培をやめてしまった。だから、実際は、最近の特に3・11後のセリ鍋ブームとは直接にはつながっていない。

 おそらく品種も改良されているだろう。栽培方法も、出荷方法も違ってきている。料理方法も大きく変わっているのである。地域振興という意味では実に素晴らしいことだと思う。私もわずかながら観光協会に仕事に携わっているので、セリ農家出身のひとりとして、今後もセリの話を折りあることに伝えていきたいと思う。

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