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2019年2月

2019/02/28

「オン・ザ・ロード1972」<89>09/04 仙台に戻る

<88>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<89>1972/09/04 仙台に戻る

 戻る予定日はこの日だったが、れおんと悪次郎はその翌日戻ってきた。流峰と私は、予定どおりこの日に戻ることができた。しかし、当時は部屋のアパートの鍵なんて、ほとんど合い鍵を作っていなかったので、流峰より早く帰ってきてしまった私は、鍵がないので、部屋に入れなかった。

 なんとか考えているうちに、トイレの窓の鍵が空いていることに気づいた。そこで私は踏み台を探してきて、トイレの窓から、我が共同生活体に戻ってきたのである。やれやれ。

 この80日間、このアパートは空き家であるはずだった。しかし、生活の痕跡がある。そもそも、トイレの窓の鍵はキチンと締めていったはずではないか。

 実は、流峰のさらなる二年学年上の先輩が、実は、その友人にこの部屋を貸してあげていたのである。別段空き家にしておくより有効活用してもらえばそれに越したことはなかったわけだが、事前にそんなことを聞いていなかったので、私はビックリするやらポカンとするやら、とにかく驚いた。 

 その後、その女性は私たちの生活体の仲間の一人になって、コバルトちゃん、という名前が付けられた。付けたのは私だった。実は彼女、鉄腕アトムの兄ちゃんコバルトに似ていたから、そう付けたのである。後に彼女は、青柳優子として、朝鮮文学者についての著書などをモノすことになる。もちろんずっとすっと後年の21世紀になってからのことである。

 こうして私たちの旅は一周して、完結した。

 私は、あの長崎の虹のブランコ族の雨戸に書いてあった大きな「LOVE」の文字を、私たちのアパートに、通りから見えるように大きく書いた。そののち、「週刊雀の森」というガリ版新聞が毎週発行され、結局108号を数えた。

 この旅を特集する形で、私のミニコミ「すくりぶる」と、流峰のミニコミ「ムルソー」を統合する形で、「時空間」が創刊された。

 コンサートを中心とした「雀の森の音楽会」、互いの啓発を目的としたエンカウンター的な「雀の森の塾」、自由想画法を中心とした絵を展示する「雀の森の展示会」などが、連続企画された。

 翌年春には、後に劇作家・石川裕人となるニュートンも住人として参加し、自らの劇団を模索し始めた。

 この後の経緯については、「雀の森の物語」が継続してくれるだろう。

 『湧き出ずるロータス・スートラ 』 私の見た日本とOSHOの出会い 1992/06 「TSUKUYOMI」 も役立つはずである。

 現在までのつながりは『地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版』 意識をめぐる読書ブログの軌跡 2011/10~継続中 を見て欲しい。

LOVE

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「オン・ザ・ロード1972」<88>09/03 日立駅(茨城)

<87>からつづく

 

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<88>1972/09/03 日立駅(茨城)

 さぁ、仙台に一気に帰るぞ~、と重い腰をあげれば、実は東京から仙台までは一日の行程である。新幹線もなく、急行列車に乗る切符がなくとも、各駅停車の夜行列車だって、8時間くらいで運んでくれるだろう。

 だが私はここで敢えて一気には仙台に戻らなかった。予定が少し早すぎたのと、日立に立ち寄ってみたい人がいたからである。その人の名前は、たしかタザキドーメーとかいう人だった気がする。

 この方は、年の頃私より5年ほど上だが、ミニコミというより深夜放送で名を馳せた人ではなかっただろうか。つまり、私より流峰の分野のほうに近い人であった。年相応のなかなかの論客であったと思う。この時のメモを見る限り流峰は立ち寄っていないが、むしろ以前にすでに出会っていて、私はその紹介を受けたのだったと思う。

 この日はヒッチハイカーらしく、久しぶりに駅に泊まった。

 そして、旅の最後の最後にこの夜、というか夕方、不思議なものを見た。駅裏の繁華街の外れのほうをリュックを担いで歩いていると、そろそろ仕事に向かおうかな、という夜の勤務型の方々の登場であった。

 しかし、18才の私にはどうも解せない和服姿のジョセイを見かけた。うん、アレはジョセイだったのか、ダンセイだったのか、いまだに判明していない。なんせ、身長は明らかに、1975センチの私と同じか、それ以上高いのである。ましてや和服に下駄まで履いているので、なんともチグハグなのであった。

 今でこそLGBTなどと口うるさく言われる時代であるが、世間知らずの私には、なんとも不思議なオカマ~にしか見えなかった。

 世の中広いものだなぁ、札幌駅のあの一件といい、まずまずいろいろあるものだ、とたくさん社会勉強をして、たくさんの収穫を持って、80日間のヒッチハイク日本一周が終わりになるのであった。

<89>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<87>09/02 れおんずハウス

<86>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<87>1972/09/02 れおんずハウス

 さて、9月になってしまった。6月18日に仙台を出発してから、私たちの日本全国ウルトラトリップ、私にとっては80日間日本一周ヒッチハイクの旅も、そろそろ終焉に近づいてきた。街の風景も、これまでの夏休み気分から、少しづつお仕事モードに戻りつつある。

 ヒッチハイクの最中はずっとリュックサックを背負っての旅だったが、東京においてはヒッチハイクはそもそも無理だった。電車や流峰のバイクの後ろに乗せてもらっての移動だった。この10日間、すっかり東京気分に浸っていた。

 そろそろ帰宅の準備を始めなければならない。いやいや、それにしてもれおんずハウスにはお世話になった。感謝。

 れおんはその後、鳥取の私都村での出会いから関西に住むようになり、隔たれば日々に疎しで、次第に連絡が薄くなっていった。それでも1991年の国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」では、スタッフともども仙台に戻ってきてくれて、同時通訳の役を担ってくれた。

 そしてごくごく最近、昨年2018年には、仙台でまたゆっくりお茶しながら、話することができたのでとてもうれしかった。

 流峰は、福島や関東圏を根城にしていたが、中部地方の山岳地帯の山小屋活動に長年参加しており、その活躍もまた、彼らしいものであると、ずっと眺めてきた。1990年前後には、OSHOマルチバーシティのM作戦の場面で登場し、プーナまで足を運んだりした。

 最近では、なにやら仮想通貨とかに夢中とか聞いたが、その後、どうしているだろうか。

 悪次郎は、この旅でも多少すれ違いがあったが、私たちの共同生活体の名づけ親でもあったし、またユニークな存在でもあった。連絡は途絶えてしまって久しいが、どうやら同じ仙台に住んでいるらしい、とは聞き及んでいる。

 今回、こうしてあらためて47年前を振り返り、実に懐かしく、また、私の人生の原点でもあるなぁ、と痛感しているところである。同じ「時空間」仲間であるニュートンやほかのメンバーもひとりづつこの世を卒業して行きつつある。

 もし何かの起爆剤があれば、私はあのミニコミ雑誌を何らかの形で復刊させたいものだ、と考える時がある。流峰やれおん、その他、名前こそ出さなかったが、多くの仲間たちに支えられてきたこの人生である。何事か感じてくれた友人知人、そして新たな出会いがあるとすれば、何等かの連絡をくれたら、うれしい。

 私は「時空間」復刊にスタンバイしている。連絡を乞う。

<88>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<86>09/01 末永蒼生氏宅訪問

<85>からつづく

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<86>1972/09/01 末永蒼生氏宅訪問

 この日は、れおんと流峰、それに私と三人で、末永蒼生氏を訪ねることにした。もともと雑誌「黒の手帖」でその文体の美しさや、アサリ式色彩診断法にかなり魅了されていた私たちは、すでに山形のサバイバル・ゼミで出会っていた。

 再会だったので、気安く会っていただき、その色彩診断法の軽い手ほどきを受けた。そして近くの幼稚園の建物を借りて開かれていた、子供の絵の教室を見学し、手伝いもさせていただいた。

 彼には、のちに私たちのミニコミ雑誌「時空間」にも寄稿していただいた。その原稿用紙の綺麗な文字には、実に敬服した。口ひげを生やし、長髪である彼は、かなりなハードロックをして街頭イベントなどを展開していた方であることを存じ上げていたが、その人当りの良さには、参りました。

 彼は「ウルトラトリップ」という単行本も発行しており、その本は流峰が見つけてきて、私たちの共同生活体のバイブル的な位置に飾られていた。

 私たちはその数年後、長崎であった児童が研究会の全国大会のお手伝いをしたことがある。長崎出身の彼がこの大会の事務局として開催したのである。

 また80年頃には、彼もOSHOサニヤシンとしての名前をもらった時期もあったと記憶する。お互い長い人生であり、いくつも重ねられた人間模様がある。懐かしいと言えば、実に懐かしい思い出である。

<87>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<85>08/31 横尾忠則アトリエ訪問

<84>からつづく

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<85>1972/08/31 横尾忠則アトリエ訪問

 東京にたどりついてすでに一週間も経過すると、だいぶ体の疲れも取れ、東京の都会ぐらしにも慣れてきた。私は思い切って、横尾忠則氏を訪ねることにした。いや別にアポを取っていたわけでもなく、住所すらよく分かってはいなかった。

 だが、仙台を出発する前に、グラビア雑誌の見開きページで彼の特集を組んでいて、白黒ではあったが、彼のアトリエの写真が大きく掲載されていたのである(このグラビア誌、そのうち探して、ここに貼り付けようと思っている)。

 平屋の天井の高い洋風の住まいで、庭が広く、大きな木が茂っていた。ガラス張りのアトリエに、彼は自分の作品やら、デザインの参考となるような写真をたくさん並べて、作業をしているような風景だった。

 その記事の特集には、近所のおばちゃんのインタビューなども登場していて、何かと類推できるような内容だった。土地勘のない私ではあったが、あてずっぽうにそれらしき建物を探しているうちに、本当に、あのグラビア誌で見た建物に出会ってしまったのである。

 実に驚きだった。庭と言ってもほとんど垣根もなく、小学校の花壇の柵程度のものがある程度だった。入ろうと思えば誰でも入れた。ここまで来て、私は建物を見るだけで引き返すわけにはいかない。怒られることを覚悟で、すでに長旅でド根性がでてきていた私はつかつかと大きな庭に入っていった

 入口は建物のちょうど中間にあり、透明ガラスでできていた。その屋根の壁には大きな警報器がついていた。いくらセキュリティが甘い時代とは言え、彼のような有名人はさすがに危険なこともあるだろう。そのベルの大きさに驚きながら、玄関に立つと、ビックリすることに、そのドアは開いていたのである。

 いや、正確に言えば、もうその家は引っ越した後の空き家だったのである。荷物らしきものはほとんどなかった。だが、あのグラビア誌にでていたあの部屋は確かにここだった。表札などはもう出ていなかったが、そこが間違いなく横尾忠則氏のアトリエであったはずなのは、すぐに分かった。

 なぜなら、このようにしてこの建物に侵入したのは、決して私が一人目ではなかったのである。おそらく私のようなファンが、毎日毎日訪れては名所となっていたのだろう。壁という壁、柱という柱には落書きがしてあった。まるで観光名所である。

 あるいは、彼もまた、すぐに引っ越すことを前提に写真を撮らせ、住所もなんとなくわかるような表現を許していたのだろう。その落書きの中にとても印象的な一文があった。

 「横尾ちゃん、だーいすき」。うん、確かに私の気分もその通りだった。とても印象深いフレーズだった。

 後年、1977年になって、インドで出会ったシャンタンは、映画監督を経験しており、映画「横尾ちゃん、だーいすき」を制作していたのである。そのフレーズは、シャンタンの台詞だったのだ。深い縁を感ずる。

 もし、あの時、18才の私が横尾氏と巡り合っていれば、そこからまた別な人生が展開したかもな、なんて思わないわけではない。不在だったからこそ、また別な意味を持ち始めたのだ。

 1990年代になって、横尾氏は仙台で自らの画集の販売とサイン会があった時、私は彼に握手をしてもらい、若い時代にあなたのアトリエに無断に入ってしまいました、ごめんなさい、と謝っておいた。(笑) もちろん、彼は笑って許してくれた。

<86>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<84>08/30 ドッキング at れおんずハウス(東京)

<83>からつづく

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<84>1972/08/30 ドッキング at れおんずハウス(東京)

 れおんは、私たち仙台の雀の森の中心仲間4人のうちの重要な一人であったが、すでに春から東京で一人で暮らしており、後には雑誌「時空間」の編集時期になると、仙台にもどってきて一緒に編集作業を繰り返すというスタイルと取っていた。

 この時の彼の身分は大学浪人だったが、すでに大学進学からはドロップアウトしていたようだった。世田谷の一角に四畳半のアパートを借り、自炊生活をしていた。彼のアルバイトは主に成田飛行場の機内清掃であった。たしかオリエンタル航空とかいうものではなかっただろうか。

 彼のアルバイトの大きな貢献は、その機内食の余った食材を、アパートでゴロゴロしている我々に持ち帰って来てくれることだった。ジャム、マーガリン、コーヒー、お茶。時にはサンドイッチなどがあったように思う。

 東京の出身の流峰は東京に土地勘があったし、実家が池袋にあったので、それほど依存度はなかっただろうし、東京に友人の多かった悪次郎も、あちこち訪ね歩いていただろう。だが、私は、このれおんハウスには大変お世話になった。この旅の後にも、たびたび利用させてもらった。れおん、ありがとうございました。

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 この写真は、世田谷のそのれおんハウスのすぐ裏にあった神社の境内でのスナップである。撮影は誰だったのだろう。私はすでにヒッピー風になっていて、沖縄で求めた木綿のインド服を着ており、首には貝でできたネックレスを下げている。

 そして足は草履履きで、坐る時には、いつもこのような結跏趺坐を組んでいた。若くて、体もまだまだ柔らかかったな。後のことを考えると、こうして坐っている姿のスナップは、私にとっては、これが最古となる。

<85>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<83>08/29 東京あちこち(4)

<82>からつづく

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<83>1972/08/29 東京あちこち(4)

 ここで書いておくべきことはいろいろあるが、ひとつの記憶をまず書いておこう。鳥取のサクランボユートピアで偶然目にした「名まえのないしんぶん」、その発行元のあぱっちを訪ねたのだ。どうも私の記憶は冬の風景なので、この夏の記憶ではないかもしれない。

 だけど、とても印象的な風景だったので、どこかに書いたが、また書いてておく。

 私は彼のアパートを訪ねた。しかし当時の彼のガーフレンドがいるだけで、彼はアルバイトに行っているという。どこで?と聞くと、それは吉祥寺駅の前だという。プラカードを持って、サンドイッチマンのアルバイトをしているのだった。

 夕方だった。駅前の雑踏に彼は立っていた。背中から腰、お尻までかかるような、超ロングヘアーだった。大き目の黒縁眼鏡をかけた、うりざね顔の実に美青年。まるで少年剣士のような方であった。

 私は歩いていて彼に近づき、初めてなので、躊躇しながら、なんて挨拶しようかな、と考えていた。と、その時、どこからともなく、同じような長髪のややごついカラダの青年が近づいてきて、ひとことふたこと話しあっているようだった。

 あぱっちは、あまり表情豊かではない。あまり表情を変えない。まるで能面のような動きのない顔である。しかし、それはとても美しく、角度を変えてみれば、いろいろな意味を読み取れるような顔をしていた。

 何かの連絡を取るかのように近づいてきた別の青年は静かに離れ、夕闇の人並みにまぎれて行った。と、また別の仲間らしき青年が近づいてきた。ほとんど表情を変えないあぱっちは、なにか手短に指示を与えているようだった。あくまで手にはプラカードを持ち、静かに立っていた。

 その後、私は彼の住まいを何度か尋ねることができた。自作の本棚が素敵だった。帰宅したあとは、私もそれをまねて作った。彼は当時「DEAD」という雑誌を制作していた。私がこの旅を終えて、雑誌を作ろうとした時、まず思ったのは、この「DEAD」だった。

 この数年後、あぱっちは、熊本のZEN(のちのプラブッダ)や、やがて友人となるキコリなどと76年には、ほびっと村やプラサード書店、プラサード出版などとして合流していくのだから、とにかく、私はこの旅で、ひとつの日本の若者文化、カウンタカルチャーの源流を見ていたことになる。

<84>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<82>08/28 東京あちこち(3)

<81>からつづく

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<82>1972/08/28 東京あちこち(3)

 私には、この旅で、どうしても行ってみたい東京のあるポイントがあった。山谷のドヤ階である。岡林信康の「山谷ブルース」はとてもハートを打つフォークソングだった。18才の少年であったが、山谷に行って、ルンペンプロレタリアートを気取りたかったのだろう。

 しかし東京の地理もよく分からない私は結局、高田馬場にも同じような日雇いシステムがあるよ、と教えてもらい、そちらに早朝訪れてみた。

 朝早くではあるが、すでにそれらしい労働者たちが沢山集まっており、何の肉かは分からないような、大鍋の肉汁などが朝食として売られていた。手配師は割と若い感じがした。おそらく30前後の若者が、次から次と、希望者を募ってワゴン車などに労務者を乗せ、工事現場などに向かった。

 私も体験的に工事現場に向かった。至って簡単な建材の移動や、猫車での生コンの運搬などであった。一人だけではなく、他にも学生なども多くいたから、見よう見まねであれば、ほとんど誰にもできるような作業だった。

 旅の途中の私には、結構なアルバイト収入になった。実際、あの当時日本は高度成長期に向かう時であり、全国どこでもあのような仕事があったように思う。だから、カネなんぞはなんとかなる、という思いが、どこかにでてきたことは事実である。

<83>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<81>08/27 東京あちこち(2)

<80>からつづく

 

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<81>1972/08/27 東京あちこち(2)

 ある友達、と言っても先日鳥取のサクランボユートピアで会ったタケシだが、彼は中央線の奥の方で数人で一軒家を借りて住んでいた。劇団活動をしながら、空いた時間は様々なアルバイトをしていた。

 私が彼を訪ねた時は、遺跡発掘の仕事をしていた。それはほとんど日雇いアルバイトで、時間があれば、その日現場に行けば、名前をノートに書いて、誰でも発掘作業に参加できるのだった。

 せっかく遊びに行ったのに、彼らがアルバイトに行くというので、私も出かけ、ちゃっかりアルバイトもした。おそらく一日働いて2000円程度であったように思うが、なかなか貴重な副収入だった。

 遺跡発掘には関心を持ち続けてきているが、自ら遺跡発掘をして対価を得たのは、この時、一回だけである。

 彼らとはその後も、スリムカンパニーなどの公演などの手伝いをしたりするなど、結構濃密な付き合いをした。

<82>につづく

 

 

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「オン・ザ・ロード1972」<80>08/26 東京あちこち(1)

<79>からつづく

 

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<80>1972/08/26 東京あちこち(1)

 この時、東京あちこちのタイトルで4日間滞在したことになっている。すでに47年前のことでもあり、詳しいメモや記録が残っていないのなら、当然ながら正確な記述をすることはできない。

 しかし、あの時、あの頃、こんなことがあったなぁ、という思いではある。この旅のこのタイミングだったのかどうか、定かではないところがあるが、思いつくところ、いくつかのエピソードをメモしておく。

 まず思い出すのは、小さい時、近くの野原などでよく遊んだシゲヒロさんのことである。3学年上の兄貴と同学年だが、私は、兄よりも彼のほうが好きだった。優しかったし、アイディアマンで、いろいろ楽しい遊び方を創り出した。

 バイパスの工事現場をホックり返して遊んでいたら、一升瓶に蛇が巣くっていて、瓶一杯の蛇の子どもが絡み合っていたりした。それをみんなに囃すと、他のみんなが遊びに来なくなるから、秘密にしておこうね、と約束した。

 夏休みのお化け屋敷大会もなかなか面白かったな。中学生くらいからは、独学で油絵を描き始めて、なかなか芸術的な面も見せていた。

 1970年の三島由紀夫の自決事件の時は、自分は右翼だと自称し、実は盾の会に入ろうと思っているんだ、と言って私をビックリさせた。

 この旅の当時、彼は東京の大学に通っており、住まいは、新聞販売店の二階の三畳間だった。旅の途中でも狭い住まいがなくもなかったが、とにかく彼の住まいは狭く窓もなかった。彼は朝は新聞配達をしながら、大学に通っていた。

 私はある意味、そういうライフスタイルをとても尊敬していた。私も新聞配達をしながら、東京暮らしをしたいな、と話すと、いや、いろんな奴らがいるからね、勧めないよ、と止められた。

 ずっとあとから知ったことだが、結局は彼は大学のほうは横に卒業してしまい、その後はその新聞配達店に仕事を見つけたらしい。その後、どのような縁があったのか、2000年頃には福島で新聞配達店で働いていたが、どうやら病気で亡くなったったらしい。とても親しみを感じていた先輩だったので、かなりショックだった。 ご冥福を祈ります。合掌

<81>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<79>08/25 舎弟宅(東京)(2)

<78>からつづく

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<79>1972/08/25 舎弟宅(東京)(2)

 さて、この舎弟という謎の人物の推理第二弾。実は関西出身のミニコミ発行者だった、といいう説。舎弟とは弟という意味ではなく、単に旅仲間たちの通り名だったりする。ちなみに私の当時の通り名は、せぇこぉ。口の悪い奴は、ふぁっく、と言った。

 この舎弟二号は、他の誰かのキャラクターとダブってしまうかもしれないが、エピソードの一例として、書いておく。

 彼は広島出身の20代中頃の男性。会社員とか学生をやっているわけではなく、工事現場などの力仕事や、街でバッチ売りをしていたりする。朗らかな好人物だが、広島が話題になったので、私も原爆記念館を訪ねてきました、言った時、すこし雲行きが変わった。

 実は彼も被爆二世なのだという。父親も母親も被爆しており、近親者では亡くなった人もいるという。自分も今はなんとかやっているが、いつ発病するか分からないという不安を抱えているのだと。最近ちょっと体力が落ちているので、どうだかなぁ、と思わせぶりな語り。

 この当時の若者にありがちな文化で、いっぱつキメルのが好き。病気なんだか、薬害なんだか、分からない状態であったんだろうな。

 ミニコミ内容は、例によってのガリ版新聞。内容も至ってプライベートな内容だったが、そのことがかえって良くて、そのような発信媒体を持っているということが、お互いの安心材料になり、またこの後のネットワーク化の基礎となった。

 ただし、この人物とはかなり親しい付き合いをしたつもりだが、いつのまにか私たちのレーダーからは消えていった。おそらく、広島に帰り、ミニコミなどの発行もいつの間にかやめたのだろう。今でも病魔に負けず、元気でいてほしいが・・・。

<80>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<78>08/24 舎弟宅(東京)(1)

<77>からつづく

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<78>1972/08/24 舎弟宅(東京)(1)

 この日と次の日は、舎弟宅に滞在したことになっている。はて? 舎弟とは誰? 読みは二通り。ひとつは、前日宿泊させていただいた篠原さんに確か弟さんがいたような気がする。たしかノンポリに近い大学生で、優しい人。

 いくらなんでも女性一人住まいに長逗留させてはもらえず、弟さんを紹介されて、歓迎されて、邪魔にもされず、ゴロゴロしていたか、近所をブラブラしていたか。ここでは、弟さんがいたと仮定して、メモしておく。

 男住まいは、とにかく小ぎれいなところは少ない。台所も共用だったりする。トイレが共用なのは当たり前。風呂は近所の銭湯が定番。そういうぶっちゃけたところが、また私みたいに転がり込んでいく人間には、割りと入りやすい。

 銭湯はなかなか気持ちがいいもの。誰であろうと、数百円払えば、対等に時間を費やすことができる。伸び放題になっている頭をシャンプーし、いよいよ臭くなっている下半身などを、気持ちよくゴリゴリ擦る。

 共用の台所と言っても、まともな冷蔵庫もなく、トタン張りの流し台とまな板と包丁がある程度。鍋かま類は、誰かが忘れていったような古いものを使用する。水道は蛇口が短く、使い勝手が悪い。でも、あるだけまし。銭湯に行かない時は、その蛇口の下に頭を突っ込んでシャンプーする。

 水でタオルを絞り、体を拭く。これでなかなか快適なものだった。男部屋には余計な寝具が準備されてないことも多いが、夏だし、別段不自由はしない。畳の上に裸で寝て、持参したシュラフを寝袋にする。

 飯も外食などしていたら、すぐにカネがなくなるので、近くの商店で買い出しして、ちゃちゃっと、ラーメンライスなどをつくる。冷やし中華や、チャー飯や、ひやむぎなど。食費まではお世話になれないことが多いので、積極的に台所に立つ。少なくとも洗い物は任せてください、みたいな姿勢が大切。

 エアコンなんてあるわけがなく、とにかく真っ裸になって、汗をかきかき過ごすのである。

<79>につづく

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2019/02/27

「オン・ザ・ロード1972」<77>08/23 篠原女史宅(東京)

<76>からつづく

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<77>1972/08/23 篠原女史宅(東京)

 80日間の日本一周ではあったが、そのうちの12日を、花の都・東京で過ごすことになる。それだけ多くのコネクションがあったことは確かだし、もうあとは仙台に帰るだけだという安心感もあったのだろう。

 昨日は、近くの公園に一泊し、午前中にすぐ目と鼻の先にあった篠原さんという女性の住まいを訪ねた。彼女は当時はやりのウーマンリブの闘志であった。そして彼女はその目的の雑誌を編集していた。

 仙台を出発する前に、お互いの雑誌を交換し、おおよその訪問日を伝えておいた。だから、突然訪ねても、大いに歓迎していただいた。とにかく、公園で一泊した、ということを最大評価してもらったようで、なるほど、いくらリブの女性でも、それは真似できなかっただろうな。

 情報交換をしたり、なにか食事を提供していただいたりして、結局はその日は彼女の部屋に泊めていただくことになった。当時の単身者の住まいなどは、ほとんど台所とリビングだけ、というものであった。風呂などは近くの銭湯、というのが通り相場だった。

 夜は、布団を二つ、ちょっと離して、寝る事になった。彼女は私より6~7歳ほど年上だった。体もちょっと大柄だったし、顔つきも、いわゆる闘士型である。私に不埒なことなどできるわけはなかった。リブの女性に不届きな思いなど考える訳などない。

 私はぐっすりよく眠らせていただいた。とにかく久しぶりの屋根の下のふかふか布団である。感謝感謝。でも彼女は、私はよく眠れなかったわ、とおっしゃった。う~ん、どういう意味だったのかなぁ。据え膳食わぬは男の恥とも言うし、武士は食わねど高楊枝、とも言う。

 何はともあれ、当時18才の私は、リブの女性群には、一目も二目も置いていて、心から尊敬していたのである。私は当時からフェミニストだった(と自称しているのだが・・・・・)。

<78>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<76>08/22 下井草公園(東京)

<75>からつづく

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<76>1972/08/22 下井草公園(東京)

 この日、旅に出て二か月と5日後、ようやく東京にたどり着いた。東京には、旅仲間であるれおんのアパートがあったが、彼自身がまだ帰ってきていない。それにあの「朝日ジャーナル」のミニコミリストで知り合った、篠原さんという女性と会う予定になっていた。

 しかし、ようやく東京にたどり着いたのは、夜も遅くなっていた。とても女性のお宅を訪ねる時間帯ではない。しかたなく、というか、もう習い性となっている、近くの公園での野宿となった。

 なに、真夏の暑い夜である。雨など降る雰囲気もない。蚊に食われるほどでもなく、公園の赤々と照らしている街頭に見守られながら、シュラフを枕にベンチで寝ることにした。当時は、割りとセキュリティも高く、また排撃エネルギーもほとんどなかった。

 とにかく、汗だくになりながら、ちょっと薄汚れてしまったが、なんとかかんとか東京にたどり着いた夜だった。

<77>につづく

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「オレンジ・ブック」 OSHOの瞑想テクニック<4>

<3>からつづく


「オレンジ・ブック」OSHOの瞑想テクニック <4>
OSHO ホーリスティック・セラピー研究所 1984/04 単行本 245P

 私にとっての三番目のブログ「把不住述懐」返の巻は、この「オレンジ・ブック」から始めよう。あらためて手にとってみれば、実に良い本である。衒いがなく、ダイレクトに、瞑想とは何か、という部分にストレートに導いてくれる。

1387651_2 原書は英語版。新書ほどの大きさで227ページ。実に小さな本で、当時の価格で4・95ドル。600円程度のお手軽本と言える。現在なら、英文だけどPDFでも読めるみたいだ。

 何を今更、ZENだ、マインドフルネスだ、と大騒ぎするほどのこともない。敢えていうなら、これはOSHOの普勧坐禅儀だ。

 もしこの本で満足できたら、他の本など必要ない。もしこの中のひとつの瞑想がヒットしたなら、他のページさえ読む必要もない。

 物事はなにも難しく考えることはない。OSHOの面目躍如の一冊である。すでに読んだ人も再読の価値あり。

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地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<75>「退の巻」について

<74>よりつづく

 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

 

<75>把不住述懐「退の巻について

 当ブログ「把不住述懐」も108記事ごとのカテゴリ名も、「禅の巻」、「述の巻」、「迷の巻」、そして「退の巻」までやってきて、それとなく体制は整ったことになる。ただし、このブログサービスを提供しているココログが、また3月に全面改訂される予定で、結果的にどのような影響がでるか分からないところもある。

 思えば、私の生活はこのブログにかなり大きく依存しているところがあり、この十数年の記録が、たとえば何かのきっかけで消えてしまうようなことがあれば、個人的には大損害だなあ、と痛感する。その前に、別ディスクやハードコピーなどに記録しておかなければならないのではないか、といつも思うが、なかなかできないでいる。

 把不住は、Bhaveshの日本語表記として使用しているが、最近、瞑想センター名であるスバガットの日本語表記を素晴楽堂とすることを思いついた。現在試用期間であり最終的に採用するかどうかはわからないが、俳句の短冊などには、そう表記し始めている。

 述べ始まって、迷って、退いてみた今回のカテゴリだったが、私の場合は、基本保守的で、割と当たり前の岩盤に退いているのではないか、と危惧する。  

「再読したいこのカテゴリこの3冊 退の巻」は次のとおり。

「これで眠くならない! 能の名曲60選」
中村 雅之 (著) 2017/10 誠文堂新光社 

「仏像がわかる本」 基本の種類と見わけ方ある。
岩崎 和子 (監修)  2001/10  淡交社

「曹洞宗のお経」 (わが家の宗教を知るシリーズ)
中野 東禅 (監修) 2000/07 双葉社 

 以前より記録を残しておきたいと思っていた「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅の記述も、割と順調に走り出し、80日中の60日分を走破したことになる。ある意味、この人生の原点となる旅である。今は走り書きの程度だが、今後はもうすこし資料を重ねて、より明瞭なものとしてみたい。

 次のカテゴリ名は「返の巻」とする。積極的な意味はないが、振り返る、見返る、返す返す、などの意味があるかとも思う。実質は、「退の巻」の後継となろう。

<76>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「退の巻」編

<前>からつづく  

再読したいこのカテゴリこの3冊 

「退の巻」

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「これで眠くならない! 能の名曲60選」
中村 雅之 (著) 2017/10 誠文堂新光社 単行本: 255ページ

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「仏像がわかる本」 基本の種類と見わけ方ある。
岩崎 和子監修  2001/10 出版社 淡交社 単行本: 204ページ
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「曹洞宗のお経」 (わが家の宗教を知るシリーズ)
中野 東禅 (監修) 2000/07 双葉社 単行本: 205ページ

★★★★☆

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<28>

<27>よりつづく 

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <28>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

仏像彫刻を趣味とすることについて。

 表題のようなテーマでなにか一文書くなんてことは、ごくごく最近まで思いもつかなかった。そもそも、いまだに仏像彫刻を趣味としているわけではない。ただそうなってしまう「危機」が迫っているかも、という非常事態を身に感じるのである。

 そしてそれは、自ら望んだ、ということではなく、環境や出会いや運命が、どうもそちらのほうに向かっているのではないか、という妙な予感がするのである。それは嬉しさ反面、戸惑いや、避けたい気分も醸し出し、自分としてはまったく結論の出ない状態となっている。

 その気分を吹っ切るために、この一週間ほど、ひさびさに彫刻刀を握ってみた。そして、アイ,ロボット用のお面を彫りかけてみた。なかなかうまい具合に途中まで半完成の状態まで来た。

 彫刻などは、誰かに依頼されたり、どこかに出品するのでない限り、どこが完成ということはない。これでいいだろう、と思えば、他人には中途半端に見えてもそれはそれでいいのだ。他人がいくら褒めてくれても、やり足りないものはやり足らない。実に不思議なものである。

 さて、今回久しぶりに彫刻の感触を思い出したところで、率直なことを、自分のためにメモしておく。

①彫刻刀を新調した。といえば大げさだが、以前使っていたのは子供たちが使ったもののお古で、しかも私が使っているうちにほとんど欠けてしまって、ボロボロになって捨ててしまった。近くの大型文房具店に行ったが、子供たちが使うようなものが二種類あったが、次回からは、やはりもうすこし吟味しなければならないだろうな。

②一週間ほど彫刻刀をいじっていて、今回はほとんど指をケガすることはなかった。のこぎりやノミ、かんな、カッターやハンマー、電気ドリル、キリや画びょうなど、さまざまな危険な道具を使うので、これまでは生傷は絶えなかったが、今回は、ちょっと木片の刺が指先にちょこっとだけ刺さって、点状の傷が一時的に見えた程度だった。

③材料の材木は、いつもは廃材や余り木で、別段吟味したものではない。むしろ雑木なので、練習用と割り切っているが、これだけの精力を傾けるのだから、結局最後は作品とするならば、最初の最初からキチンとした材料を使うべきだろう、と、今回も痛感した。

④やればやるほど目が肥えて来るもので、以前作った作品のアラばかりが見えてきて、ありゃ、これはいかん、と何回も思った。作れば楽しいのだが、気まぐれに作った作品などに、完成度など、最初から求めてはいけない。人の目に触れさすなど、気恥ずかしいことは、今後避けるべきかな、と反省した(笑)。

⑤彫ったり、組立てたりして、木目が大事と思って、彩色などはまったくしないで来たが、経年劣化もしてくることになる。ある程度の彩色や装飾は必要であろう。ただし、それはそれ、あらたなる技術と発送、アイディアも必要となる。それに伴って経費もかさむ。どこまでを自らの領域とするかは、実に微妙なところである。

⑥どの分野に首を突っ込んでも、実に世界は広い。満遍なく全体を見渡してから自らの分野を決めていくのか、最初から猪突猛進で自分の世界に没頭するのか。あるいは、どの分野においても、先達さんたちがおり、また、道もさまざま微妙な違いを見せる。それらをどうかき分けていくのか、新たなる迷いを生じさせることとなる。

⑦完成度をどの程度にするのか。そのためには、どれだけの時間と経費をかける余裕があるのか。自らの希望と技量を推し量る必要がでてくる。いかに趣味の世界とは言え、中途半端はいけない。ここまでならここまで、と最初から目標を立てておくべきだろう。また、人生の中で、自らのどれほどの時間が残されているのかも、逆算しなければならないのではないか、と毎度痛感するものである。

 書き出せば、他にもいろいろでてくる。まぁまずは7つほど上げておいた。このテーマ、また続きを書きそうな気がする。

<29>につづく

 

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「オン・ザ・ロード1972」<75>08/21 清水駅(静岡)

<74>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<75>1972/08/21 清水駅(静岡)

 この日は、長野県小諸から静岡県清水まで移動したことになる。規定の国鉄線などを利用したわけじゃないので、どこをどう走ったのかは、今となっては判別不能。なにせ行き当たりばったりのヒッチハイクの旅。出たとこ勝負の度胸旅行である。

 静岡県に行き、わざわざ清水駅に泊まったということは、その時そこに降ろされてしまったのか、あるいはわざわざ清水にあこがれて行ったのか。もしあこがれて行ったとするならば、そう、それはあの清水の次郎長オヤブン目的であったに違いない。

 仮に次郎長オヤブン目的で行ったにしても、おそらく失望したに違いない。講談の世界がそこに展開されているわけでもなく、次郎長の片鱗さえ、町にはほとんとなかったはずだ。

 いまなら観光資源として、合羽からげて三度笠みたいなモニュメントや、せめてタテカンくらいは見つけることは可能かもしれない。ただ、夕方になって到着した、行きずりの若者の旅などに、それほど親切な時代ではなかったはずだ。

 なにか町に「ヤクザ」なものを見つけてウロウロしたような気もするが、他に別な興味をひくようなことがなかったのかな、と、今となってはちょっと恥ずかしい気分だ。

 ここからいよいよ、東京に戻ることになる。

<76>につづく

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2019/02/26

「オン・ザ・ロード1972」<74>08/20 小諸駅 

<73>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<74>1972/08/20 小諸駅

 そもそもこの時の旅は一体何が中心の目的だったのだろう。もちろん神社仏閣の探訪ではなかった。そして観光旅行でもない。有名な観光地を巡ったからと言って、なんの面白いこともない。若者文化の拠点についての情報であり、未来についての活動の展望のリサーチである。

 小諸というフレーズからは、私の中からは生まれるものは少なかった。小高い丘から下界を眺めていた記憶があるが、それこそ、寂寞とした旅情を感じることはできても、まだまだ18才の少年には、似合わない風景であった。

 この日は小諸駅に泊まったようだ。小諸駅は小さな駅だったように記憶している。それにしても、各地で駅にお世話になったものだ。ベンチを確保し、シュラフを引いて、そこに座って地図を広げ、夜も10時頃になると、眠りにつく。

 朝は結構早い。一番電車ですぐ起こされる。当時は、駅員が邪魔することはなかったし、むしろ、夜間の警備は駅員がしてくれていたので、むしろ安心だった。夏は暑い。すっかり汗をかき、近くの公園の水道でタオルを絞って体を拭くこともたびたびあった。

 そういえば、通りがかりの商店で、ビニール袋入りの野沢菜を買い込んで、それを切る包丁も持っていなかったので、手づかみで、そのまま食べたこともあったな。味もおいしいもあったものではない。ただただアリバイ作り、という時もあったな(笑)。

<75>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<73>08/19 ドッキング at アミ 小諸駅前 

<72>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<73>1972/08/19 ドッキング at アミ 小諸駅前 

 小諸は、私たち4人の旅仲間のリーダー格である流峰の一押しのスポットである。高校生時代から、彼は避暑や合宿などで利用しており、その後は夏休みなどのアルバイトなどもしていたようだ。

「小諸なる古城のほとり」  島崎藤村
                             

小諸なる古城のほとり          
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
日に溶けて淡雪流る

 文学青年・冬崎流峰の面目躍如たるところである。その後、小諸に深入りしたかどうかは定かではないが、後年、「山小屋」運動に深入りしていく彼の素質の、本質的な部分と共鳴していたのだろう。

 この日は、小諸駅前の「アミ」という喫茶店での4人のドッキングである。小諸に土地勘のある流峰が提案したスポットであった。ひさしぶりに4人で会って、さてどんな話をしたのだったか覚えてはいないが、あちこちの情報の交換をしたはずである。

<74>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<72>08/18 上高地 トラック

<71>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<72>1972/08/18 上高地 トラック

 この日は、小中高時代のガールフレンドが働いているという、立山の山小屋を訪ねることにした。彼女が山に入ったと聞いたのは、今回の旅に出る直前。旅に出るから立ち寄るよ、と手紙は出していたが、その後すぐに出発してしまったから、その返信は受け取っていなかった。

 彼女は高校生時代から、もう一人の同級生と、福島県内の山中にある廃校を借りて何事かしようというプランを持っていた。いやはや勇ましいなぁ、と見つめていたが、結局は、立山の山小屋ペンションに修行に旅立ったのである。

 はてさて、どのように成長したかなぁ、と再会するのが楽しみだったが、いざペンションに到着してみると、体調を壊し、ずいぶん前に下山したよ、とのことだった。う~ん、残念。あよなぁ、なかなか難しい。それきり、彼女とは連絡が途切れてしまった。

 彼女は、高校生時代、今となって考えれば、謎解きのようなセリフをつぶやいていた。「男と女って、友情で一生付き合っていけるのかしら・・・?」

 ん?と思った。それは当然、ありうるよ。僕たちは一生友達でいようよ。

 その私の返答は、いかがなものだっただろうか。今となっては取返しがつかないが、謎のような問いに、18才の私は、ひょっとすると、頓珍漢な答えをしてしまったのかもしれない。反省しきりだ。

 結局彼女はその後、一浪して中部地方の大学に入学したらしい。それっきりの今世の付き合いになったが、今でも後ろ髪引かれる思い出である。

 この日はトラックにヒッチハイクした。ダンプのような石材を運送するガッチリした運送車だった。その運転手は、もと力士のガッチリした体躯の頑強な男性。まだまだ若い優男だったが、石材運送業としては、実にぴったりだと思った。

 ほら、あそこの山肌が削られているだろう。あれは、数日前の嵐で崩れて全国ニュースになった被災の現場だよ、と説明してくれた。だが、もうすでに数か月旅暮らしの私には、新聞も見ていなかったので、全然、そんなことに気づいていなかった。

 そんなことより、彼女はどうなったかなぁ、と上の空で、元力士の運ちゃんの説明を聞き流していた。

<73>につづく

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2019/02/25

「オン・ザ・ロード1972」<71>08/17 飛騨高山駅

<70>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<71>1972/08/17 飛騨高山駅

 1970年に創刊された若い女性向けの雑誌『an・an(アンアン)』と、1971年創刊の『non-no』(ノンノ)は、多数のカラー写真による旅行特集を掲載した。美しい写真や記事に刺激され、これらのファッション雑誌を片手に持った多数の若い女性が特定の観光地に押しかけたので、アンノン族と命名された。Wikipedia

 1972年のこの年は、いわゆるアンノン族の走りの年でもあった。広島で会った(仮称)小百合ちゃんもその一人だっただろうし、 ある意味、私なぞも、男性版アンノン族と振り分けられたかもしれない。別名カニ族などというのもあったが、いわゆるアンノン族は、私のようには野宿や駅に泊まったりはしなかっただろう。

 ある意味、白洲正子のような人は、60年代から一人旅を始めていたのであり、私なんぞは勝手に彼女を元祖アンノン族と揶揄している。女性進出の時代、一人旅の女性なんて考えられない時代から、一人旅もなかなか素敵だね、という時代になった。少なくとも、団体旅行でバスで回るなんて窮屈な旅を女性が嫌い始めたのだ。

 この飛騨高山は、豪雪地帯の茅葺屋根という意味では、鳥取の私都村などと共通していたが、すでに観光地として、立派に自立した地帯だった。見事な合掌造りの農家が並び、なるほど、これは一見にしかずという眺めである。

 この地方をあの女性週刊誌アンアンやノンノが見逃すはずはなく、すでにアンノン族が多数闊歩するスポットとなっていた。声をかけようと思えば、いくらでも、笑顔で答えてくれそうな短大生などがいそうだった。

 しかし、たまたま私が声をかけたのか、相手から声をかけてくれたのか、私知り合いになった女性は、もっと年上で、自称看護婦というふれこみであったと思う。二言三言話した後に、彼女が私に依頼したのは、一通の紙切れを寄こして、ここにダイヤルしてほしい、とのことだった。

 つまり、この当時、携帯やスマホなどというものはなかった。ひたすら、外部から電話する時は、赤電話で十円玉を入れて掛けるものだし、受ける方も大体は一家に一台しかない黒電話で受けるしかない。

 受け取るのも、頑固おやじや、耄碌した年寄りだったりして、全然容量を得ないことも多かった。彼女は、ボーイフレンドのひとりと連絡を取りたがっていた。そして、彼氏の家に、いきなり女性が電話したら、断られる可能性が大きいと踏んでいたらしい。

 そこで、まずは男性の私に電話をかけさせて、うまいこと、目的のボーイフレンドが出たら、そこからは私が代わるわ、ということであった。まぁ、うまいこと私はこのちょっと年増のアンノン族に、メッセンジャーボーイにされてしまったわけである。

 上には上がいる。(笑)

<72>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<69>08/15 奈良駅

<68>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<69>1972/08/15 奈良駅 

 この日は奈良市内見物と洒落込んだ。と言っても、時間帯は午後からだっただろうし、ヒッチハイクが主な移動手段ゆえ、思ったようなコースを取れるわけではない。その時その時で、思いついた時、あるいはヒッチの運転者の好意に甘えて移動するだけである。

 奈良で覚えているのは、奈良公園。鹿がたくさんいて、かなり長時間、鹿たちとエサをやりながら、戯れていた。ここの公園だったかどうか忘れたが、フーテンの小汚い恰好で公演に長時間いると、親切なオジサンが声をかけて来たりする。

 親切そうで、やさしそうなのであるが、何か仕事を紹介しようか、なんて近づいて来るが、安易にその人について行ってはいけないことが、旅も二か月ほど過ぎると分かってくる。大体が、まともな話ではない。

 人の話によれば、当時、日本は高度成長時代に突入していて、労働力不足が騒がれていた。都市部もそうだっただろうが、地方や、辺境地域でも、同じ状況だったらしい。私に警告してくれた人が言うには、そういう話に乗ると、最初はうまい話しだが、どこかの炭鉱の「たこ部屋」などに監禁され、長期間にわたって、過重労働をさせられるとのことである。クワバラ、クワバラ。

 この後、ヒッチハイクの運ちゃんに誘われて、天理市のあの大きな建物の前を通った。大学だったのか、病院だったのか、判然としないところがあるが、あの特徴的な一種異様な建物の印象は今でも脳裏に焼き付いている。

 後年、ラジニーシ郷として、日本のOSHOコミューンの模索が始まった時、リーダーのひとりナルタンが、日本における宗教都市の先例として、この天理市のことを上げていたことがある。私はあそこを通ったことで、即座にそのイメージが湧いたが、逆にそのことが、逆効果を生んでいたかもしれない。

 いずれにせよ、当時18才の私は、神社仏閣を回るのは老年になってからでいいだろう、という読みで、この時、あまり奈良文化圏を積極的に回ったりはしなかった。いずれ、この生涯で、そういう機会もやがてやってくるに違いない。

<70>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<68>08/14 マキノスキー場 AWF

<67>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<68>1972/08/14 マキノスキー場 AWF

 マキノスキー場は、滋賀県、琵琶湖の西北に広がる高原にある。8月14日の真夏になぜにスキー場なのか、と言えば、それはここでいわゆる野外コンサートがあったのだ。AWF。もう明確には思い出せないが、当時流行していた、ウッドストック流のエピゴーネンが沢山開催されていたのである。

 私はこのコンサートを悪次郎から聞いたのであろう。彼もまた私より数日前にこのコンサートに入っていたようだった。現地でうまく再会できたかどうか、今ではよく覚えていない。悪次郎は、私たちの中では、もっとも政治的に先鋭な意見を持っていた若者であったが、また、フォークギターを抱えて、歌を歌ってコンサートなどにも登壇し、作詞作曲もこなす人物だった。

 コンサートもともかくとして、この琵琶湖湖畔には、なぜかかすかに記憶が残る。琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島。その姿が何とも印象的であった。あとから、ここには弁財天が祀られており、日本三大弁財天のひとつであると教えられて、なるほど、と納得した。

 湖畔の若者のバイクにヒッチハイクしたこともあった。琵琶湖の漁業に関係する若者たちは、割と開放的で、茶目っ気がある。気質としては、東北人の私などを笑い飛ばしてしまうような、豪快さを感じたものである。

 ある時、過去世を見るという人が、私と家内は、かつてこの近江地方で暮らしていた、と占ってくれたことがある。残念ながら、私にはリアリティはないが、もしそうだったとしたら、と、ちょっと真面目にこの地方のことを知りたいな、とずっと思ってきたのは間違いない。

<69>につづく

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「仏像がわかる本」 基本の種類と見わけ方 岩崎 和子

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「仏像がわかる本」 基本の種類と見わけ方ある。
岩崎 和子 (監修)  2001/10 出版社: 淡交社 単行本: 204ページ
No.4265★★★★★

 お身内の方からの贈本である。ありがたい。それにしても、こういう方が身近にいらっしゃったとは、ビックリ。始めてその話題を聞いた。

 この本なかなか素敵である。35歳で悟りを開いたエライ人「釈迦如来」から始まるのは当然としても、次に登場するのは、「この世」の悩み、すべて解消します「薬師如来と十二神将」なのである。これには感謝。  

 その他、阿弥陀如来、弥勒菩薩、弁財天など、合わせて12のホトケさまについての、実にわかりやすいガイドブックである。1949生まれの著者、40代に雑誌に連載した記事が50代初めに一冊の単行本となって出版されている。

 気が付いてみれば、わが図書館にも他にも多数著書が納められている。時間があれば、またおっかけをするタイミングが来るだろう。

 ビギナーと専門家と、アシスタント的な三人の女性が、各寺院を周遊し、それぞれの仏様と遭遇するという設定である。あくまでわかりやすく平易で、しかもキチンと的を外さない論旨はさすが。

 この本を読むと、自分の知識が、いかに偏っているかがわかる。満遍なくひととおり仏像の世界にも目を通して、ごくごく当たり前に、このようなトリビア(?)が口から飛び出してくるようになったら、大したものだと思う。

 なにはともあれ、大変貴重な本、ありがとうございました。大事にして、愛読させていただきます。 合掌

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「オン・ザ・ロード1972」<67>08/13 私都(きさいち)村(鳥取)

<66>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<67>1972/08/13 私都(きさいち)村(鳥取)

 4日間滞在したサクランボユートピアの次に訪問したのは、同じ鳥取県の私都村。この若者共同体について、私(たち)は、おなじ1972年春発行の「ジ・アザー・マガジンYOU」の特集記事のグラビアで知った。

 「YOU」は、ブロンズ社が発行していた雑誌で、当時はやり出した若者文化に特化した特集を組んでいた。最初は読み方も分からない名前だったが、とにかく私たちはこの共同体を日本一周の行程に入れたのであった。

 そもそもは、この私都村(うんどう)は、医師の徳永進氏が主宰したもので、なんらかの明確な目的を持っていたはずなのだが、私たちは、過疎の山中の廃屋を拠点として、多数の若者たちが集合して、今後なにかをやろうとしている、集団と見ていた。

 この旅の後、私たちはミニコミ雑誌「時空間」を創刊することとなり、その中で、大きく「私都村」についてのレポートを特集することとなった。このことからしても、いかにその集団の存在が大きかったかが分かる

 されど、その感銘の度合いは、流峰をトップとして、れおんが中心で、私は割と冷静だった。そもそも訪問しなかった悪次郎は、レポートも書いていない。雀の森という共同性の名前の名づけ親ながら、割りと早期に私たちの共同性から悪次郎が離脱したことは、このあたりから、なにか推測できるものがある。

 私は同じ鳥取であるサクランボユートピアに4日間参加しておきながら、私都村には一泊しかしていない。それに比し、流峰は一週間、れおんは4日間滞在している。この差が、結局このあとの雀の森の活動の指針を指し示していたように、2019年現在の私は思う。

 私が割とこの共同体に夢中にならなかったのは、つまり私は東北の農家出身で、しかも藁葺家屋の大家族に育った、ということが影響していると思う。私はその生家が好きだったが、そのようなモノを求めるなら、何も旅をする必要などない。自宅に留まればいいのである。私はなぜ旅に出るのか。それは、新しい何か別なものを求めていたからである。

 それに比して、流峰は東京池袋のサラリーマン核家族に育った人間だ。他に近親者が側にいたとしても、それは都会っ子の育ち方をしていたことは間違いない。そして彼自身は、そういう環境を否定して、親が勧める東京の大学進学を拒否して、東北の大学に活路を見出して仙台に来たのだった。

 田舎で育った私が、都会で育った流峰の都会的センスに惹かれたことは確かであるし、彼もまた、私の田舎的センスに何事かの一目を置いていたことはたしかである。その流峰が、鳥取の山奥の田舎に、ある種の夢を持ったことは理解できる。

 彼はそもそもそういうモノを作りたかった。一時はその名前を「ちろりん村」と仮称して、県内外の空き農家などを探索したものである。福島の山中や、山形の豪雪地帯、宮城県内の生産農家組合、県北の陶芸村など、それなりの可能性を探っていた。

 その彼が、結局は、その立地条件もさることながら、そこに織りなす人間関係に魅了されたことは理解できる。れおんもまた、宮城県内のサラリーマン家庭に育ったとは言え、茅葺屋根の農家スタイルは新鮮であっただろう。そもそも彼もまた「おもちゃ箱」と仮称した共同体の模索をしていた。

 この二人がこの私都村にほれ込み、このあと何度も足を運ぶこととなり、結局はその流れから、生涯の伴侶を得たことを思えば、彼ら二人にとっては、この私都村は、人生上の大きな出会いであったのだろう。今なら私もそれを理解できる。

 されど、私は私である。18才の少年の夢は、鳥取山中の廃屋農家にとどめることはできなかった。私は、もっと大きな夢を見ていたのである。

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<68>につづく

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2019/02/24

「アイ,ロボット」 原作アイザック・アシモフ<45>

<44>からつづく

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「アイ,ロボット」 
<45>
原作:アイザック・アシモフ 監督: アレックス・プロヤス  出演: ウィル・スミス, 他 2004年作品 DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 時間: 115 分

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つづく

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2019/02/20

「オン・ザ・ロード1972」<66>08/12 サクランボユートピア(鳥取)(4)

<65>からつづく

Jkk1
「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<66>1972/08/12 サクランボユートピア(鳥取)(4)

 こうして当時の記録をみると、私はこの共同体に4日間お世話になっていたのである。よほど気に入ったのだろう。タケシとの久しぶりの再会もうれしかった。たしか共同の衣類のボックスがあって、その中からヒョウ柄のジャンパーがでてきて、私はそれをいただいて、長く着ていたことも、今になって思い出した。

 考えてみると、この翌日に訪れた、同じ鳥取県内の共同体「私都村」には一晩しか止まっていない。これからの付き合いを考えると、この私都村の若者たちと、仙台の若者たちの付き合いは、長く、広く続いた。ここで人生の連れ合いを見つけたカップルも何組もある。

 それに比すれば、当時の納得度から考えると、このサクランボユートピアとの付き合いはそれほど続かなかった。

 東京に帰ったあとは、たしか東京キッドの活動は下火となり、そこから派生したスリムカンパニーのスタッフとして、タケシは移籍していった。私もその公演につきあい、打ち上げなどにも参加させてもらったりして、のちのち有名となる役者たちとも、ずいぶん親しくさせてもらった。

 青森の天井桟敷といい、この東京キッドといい、縁と才能があれば、私は演劇畑の人になったのかもしれないが、この人生ではそうはならなかった。石川裕人は自ら劇団を率いる劇作家として、タケシは有名無名劇団を歴任する舞台監督して、一生涯を送ったことを考えれば、なんということだったのか、と、今でも不思議に思う。

 石川裕人は先年、100本の演劇シナリオを書いて、公演して、亡くなってしまった。タケシとは、あれからだいぶ連絡が疎遠となってしまい、40歳だかの同級会以来、会うこともなくなった。機会があれば、彼とはぜひ再会してみたいと、今でも思う。

<67>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<65>08/11 サクランボユートピア(鳥取)(3)

<64>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<65>1972/08/12 サクランボユートピア(鳥取)(3)

 私はこのサクランボユートピアの滞在中に、今日までつづく人生上の、大きな出会いに立ち会った。それは、ほんの序章であったかもしれない。しかし、相当にショックなものだった。

 それは「名まえのないしんぶん」との出会いである。サクランボユートピアの住居スペースの壁に画びょうで簡単に張り付けてあった、謄写版単色刷りのミニコミである。内容はだいぶ忘れてしまったが、「趣味の切手」シリーズなどが掲載されていたように思う。

 「趣味の切手」とは、別段に記念切手を集めようというお勧めではない。私たちミニコミの流通には、いろいろなネックがあった。その中のひとつに、郵送料があった。第三種郵便などの許可をとるには大変な発行部数も必要だったし、時間も必要だった。

 周囲の人々に手渡しで配る分にはそれほど手間はかからないが、遠くの人に、まして全国的にネットワークを作ろうとした場合、印刷代や原稿料に比すれば、郵送料は莫大なものとなる。そこで、なんとかならないか、と考えた人が、きっといたのだろう。

 これから書くことは、もう誰もやっていないだろうし、すでに当時のことは時効だと思うので、書いておく。誰が考え出したのか分からないが、お互いのミニコミを出すときは、切手を貼って、さらにその表面に糊を塗って投函しましょう、と、ただこれだけのことである。

 そのことが合法なのか、非合法なのか、今だに分からない。しかし、あとあと私たちがミニコミ活動をし始めて、お互いの連絡をする場合、到着した郵便物から、切手の部分だけを切り取って、コップの水に浸けておくのである。

 すると、あ~ら不思議、乾いた糊の上からスタンプされたはずの消印が、消えてしまうのである。実験だけなら、今でもできるだろう。消えることは消えるはずである。ただ現在は消印のシステムも違っていて、切手の再利用はできなくなっているだろう。

 このエピソードは、他のミニコミなどにも書いてあって、おそらくかなり流行していたオアソビだったのだろうが、とにかく私はこの「名まえのしんぶん」で知ったように思う。

 そして、一番びっくりしたのは、このミニコミの手書きの文字の美しさである。それは、明朝とかゴシックとかいうたぐいのものではなく、手書きの丸文字なのである。やさしい、実にゆったりした文字と、その文章が、とてもマッチしていて、これはピカイチだな、と感じた。

 その編集人のあぱっちは、いずれその人柄とともに、あるムーブメントの中心地に立つことになるのだが、とにかくすごいインパクトだった。のちの「存在の詩」のプラブッダの手書き文字も美しかったが、あぱっちの、その気負わない、スマートな文字が、とてつもなく気持ちのよいマッサージに思えたのであった。

<66>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<64>08/10 サクランボユートピア(鳥取)(2)

<63>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<64>1972/08/10 サクランボユートピア(鳥取)(2)

 実はこのサクランボユートピア活動に、友人のタケシが参加していたのだ。彼は、小学校5年の時に私たちの小学校に転校してきて以来、小学校、中学校、高校時代(高校は違ったが)と、ずっと大親友だった。

 身長も高く、長髪でカッコよかった。高校時代は同じ高校の石川裕人(ニュートン)と、文化祭で二人芝居団を結成し、公演なども行っていた。彼は早熟で、高校を横に卒業して、東京キッドの活動に参加していった。

 いろいろ要因があっただろうが、ひとつはすでに上のお姉さんが東京にいたことと、彼自身が、何かこのショービジネス分野で身を立てたいという意志があったのだと思う。直接の要因は、私や石川裕人のもとに郵送されていたキッドのDMだった。

 最初は東京での活動だったが、アメリカへの公演に参加し、そして鳥取でのこのサクランボユートピア活動に参加していたのだ。まぁ、活動と言ってもも、正直言って、どの程度の成算があって、どれだけ具体化したのかは、結局私にはわからなかった。

 ただ、私がこの山の中にたどり着いたときは、たしかプレハブの工事現場のような建物があり、そこに十数人の劇団仲間と中心として、共同生活をしていたものと思われる。タケシは、階段の下の、三角スペースに自分のベットスペースを持っていた。

 私は、ここでの生活をほとんど覚えていないのだが、たけしと長時間じゃれ合っていたことは覚えている。

 二人して、山からふもとの町までヒッチで買い物にいくことになった。鳥取の山の中ゆえ、ヒッチハイクと言っても、道路があっても、走るクルマがない。二人して、大きな声で冗談をいいながら道一杯に広がって、歩いていても、なんの邪魔にもならない。

 時に、耕運機や牛が歩いているだけだ。私は旅人で、だいぶ髪も伸びて陽にやけていたし、ジーパンの膝などすっぽり穴が開いているような状態だった。タケシはタケシでなかなかカッコよかった。私からすると彼は、当時の沢田ジュリーみたいで、とにかく女の子にはモテた。

 そのふたりして、山道を下ってくるものだから、すれ違う農夫の人が声をかけてきた。その時の台詞が今でも忘れられない。

 「あんたたち、ジプシーか・・?」

 二人して、大笑いした。確かになぁ、オレたち、ジプシーかも。

<65>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<63>08/09 サクランボユートピア(鳥取)(1)

<62>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<63>1972/08/09 サクランボユートピア(鳥取)(1)

 サクランボユートピアは、劇団の東京キッドブラザーズの東由多加を中心とした集団が、時のハヤリの共同体=コミューンを、鳥取の山の中に作ってしまえ、というプロジェクトである。

 東京キッドは、寺山修司の天井桟敷の流れを組む劇団で、積極的にマスコミ受けするような企画をするのが好きなようだった。アメリカのオフオフブロードウェイあたりの公演をしたり、深夜放送11PMなどに出演したりなど、なかなか話題豊富な団体だった。

 このグループのこのユートピア活動は、あの朝日ジャーナルのミニコミリストをもとにDMが送られてきていたので、今回の旅の出発前に知っていた。同じ内容のものが、畏友ニュートンこと石川裕人のもとにも送られてきていたので、仲間内でも話題にはなっていた。

 劇団の代表とは別に、このサクランボユートピアの代表世話人(的な立場)として、当時高名だった漫画家やなせ・たかしの名前が出されていた。出資金を募っていたので、それなりに信用が必要だったのだろう。

 しかし、いま考えてみれば、どれだけの実効性・可能性があったのだろうか。どれだけのビジョンがあったのかどうかも、私にはいまだによくわからない。ただ、後述する機縁があって、私はぜひともここを訪れたいと思っていたのである。

<64>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<62>08/08 出雲大社 広島島根県境

<61>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
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<62>1972/08/08 出雲大社 広島島根県境

 この日は広島から、いきなり島根県の出雲大社へヒッチハイク。別段に観光旅行や神社仏閣を回っているわけではなかったが、やはり有名な観光地には行ってみたくなる。出雲大社は、出会いの神様ということだが、こちらでの出会いはなし。

 しかしまぁ、あとになって気が付けば、出雲大社は実に重要な歴史的ポイント。この時行かなかったら、一生行くチャンスを失ったかも。

このあと鳥取のサクランボユートピアに向けて出発。だいぶ日が暮れてしまった。地図を見る限り、あの山を超えれば目的地なのだが、どうもこの時間からでは難しい。山を越えると言っても、急こう配のヤブの中を超えて行かなければならないのだ。

 こりゃ、無理だ。遭難するかも。今日はこの辺でビバークだな。ただ、田舎町の小さな町ゆえ、適当な公営地がない。そこで、すでに雨戸を閉めてしまった商店に掛け合い、軒下のベンチを借りたい、と申し出た。

 出てきたのは、中年の小母さん。気の毒そうにこちらを上から下まで眺め、いいから中に入りなさい、と家の中に入れてくれた。

 実はその夜、彼女はこの家に一人だった。訳も分からない若者が突然やってきて、軒下を貸してほしいと言っても、気持ちが悪かったのだろう。断ることもいかず、家の中に泊めてくれることになったのだ。ありがたいものです。

 山奥の静かな地方だった。布団も貸していただいて、横になるとすっかり寝入ってしまった。真夜中に、柱時計が、ボーン、となって、ちょっと目が覚めた。

 翌日は軽い朝食もごちそうになりました。いやはや申し訳ありません。どうもごちそう様でした。

<63>につづく

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2019/02/19

「オン・ザ・ロード1972」<61>08/07 福岡駅 宮島

<60>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<61>1972/08/07 福岡駅 宮島

 福岡から本州に戻った。この時、フェリーどかではなくて、確か海底トンネルだったはず。思ったよりも短かった。この時もヒッチハイクだったはず。久しぶりの本州は、長距離トラックも走っており、一気に広島まで行った。

 原爆ドームも見学し、たしかあの公園の中にテントを張ってはず。前後して、宮島に渡った。この宮島でのことは克明に覚えている。まぁ、宮島も素晴らしかったが、実は、そこで出会った女性がまた超素晴らしかった。

 もともと内向的(と自分ではおもっていたがw)だった自分だが、この旅でだいぶ図太くなっていた。旅の恥はかき捨てともいう。ちょっとチャンスがあると、誰彼かまわず声をかけることができるようになっていた。

 宮島で、彼女は一人旅だった。あ~、とこの前まで名前を憶えていたはずだが、もう忘れてしまった。かわいい名前だったな。どこかにメモでも残ってるかな、もう残ってないな。仮に小百合ちゃん、としておこう。

 彼女は、東京の音楽大学に通う女子大生だった。当時日本はアンノン族ブームで女の子の一人旅なんて珍しくなかった。もちろん彼女はヒッチハイクの旅ではない。当時国鉄と言われた列車の旅だった。

 何を思ったか、私はいきなり今夜僕のテントに来ないか、と誘った。彼女は大笑いしたが、それほどイヤそうでもなかった。もう一押し、と僕は僕で頑張ったが、無理だった(大笑い)。彼女は、民宿を予約してあるから、もったない、とその一点張り。(だろうなぁ爆笑)

 私は結局決して嫌われた訳ではないと判断していた。なぜなら、彼女は自分の名前とアパートの連絡先を教えてくれたのである。これは、この旅の中での、私にとっては大きな収穫であった。(ああ、馬鹿者~www)

 後日談だが、この後、東京にたどり着いてから、私は彼女のアパートを訪ねることとなったのである。いや行くことは行ったが会えなかった。当然であろう。電話で自由に使える時代でもなかったし、手紙だって、旅先ゆえまともに出すこともできなかった。

 そして、もう一つ、彼女の兄は、中央線沿線で、ロック喫茶を経営していたのである。このロック喫茶の名前は憶えている。「ジェファーソン」と言うのだ。この兄妹は確か山梨県出身だった。ここから辿っていけば、ひょっとすると、あの憧れの(仮称)小百合ちゃんに会えるかもしれない。(いや、僕のことなんかすっかり忘れているだろうなぁ←当然じゃ)

 僕は、ひょっとすると、お兄さんのロック喫茶に行けば、ひょっとすると彼女に会えるかもしれないと、ジェファーソンを訪ねることにした。そこは、ちょっとした裏通りではあるが、ドアからすぐに半地下みたいなところにつながるお店だった。

 私はその店のドアを開けて、度肝を抜かれた。つまり当時流行してたハードロック系のおお店で、なんとドアを入ろうとした瞬間に、メタルをガチャガチャつけたお兄さんが、こちらをギラりと睨んできた。

 あ~、私はこれでギブアップした。怖い。気弱な私はここで撤退した。いや、最初からロックを楽しみにいくのなら、それはそれで良いお店だったと思う。兄貴もギターをやって、バンドもやっているという。その演奏も聞けたかもしれない。それはそれで、私の人生を大きく変えるチャンスになったかもしれないのだ。

 しかし、ちゃらちゃらと、優しい(仮称)小百合ちゃんのイメージばかり追っかけていた私は、泥水をかけられた野良犬のような心境になってしまった。キャイーン、と呻いて、逃げ帰ってきたのだった。(爆笑)

 そして、そのあと、結局手紙を書いて、彼女とは一・二度文通をした記憶があるが、会えるチャンスはなかった。彼女はその後、ピアニストにでもなったんだろうか。それとも音楽の先生になているかな。あるいは、すっかり家庭のイイ奥様かな。だとしても、私よりも若干年上だったから、もう70近いおばあちゃんだな。あはは。兄貴は今でもハードメタル・ロックやってるだろうか。もしやっていたら、それはそれで、すごいことだなぁ。

 で、18歳の私は、宮島の何たるか、なんて何も知らなかった。へ~海の中に神社が、ね~、程度のことで、いろいろあるなぁ、と感じた程度だった。後年になって、宮島には、実は弁財天が祀られており、日本三大弁財天の一つであることを知った。

 そして、あの時の宮島でのエピソードを思い出す度、ひょっとすると、私の目の前に現れた(仮称)小百合ちゃんは、弁財天の化身だったのではないか、と思うようになった。いや、きっとそうだ。そうであるに違いない。淡い恋心で終わってしまっただけに、(仮称)小百合ちゃん弁財天説にまで伝説化しないと、なかなかあの日の思い出は収まらないのである。

 そう、思い込もうとするのは、実は別な体験があるからである。あの奈良県の天河神社に初めて行った時、何のいわれも知らかった。1985年のことであるが、あの時、シャンタンやヨシローと泊まった民宿も不思議な旅館だった。

 布団の脇にずっと女将さんみたいな人が、坐って一晩見舞ってくれているのである。その民宿は、宮司さんのお姉さんが経営しているということなので、彼女が見守ってくれているものだと思って、すっかり寝込んでいた。

 しかし、ふと気づいてみれば、そんなことはあるはずがない。そんな女将さんが布団の横で座って一晩見張りをしてくれるなんて、おいおいいつの時代の、どこの国での話だ。ああ、そうだよねぇ、バカだな、オレは。

 朝早く目が覚めてしまって、散歩することにした。夏の天河神社の早朝はすがすがしく、まだ人影もなかった。ふらふらと境内を散歩していて、私は、夜中にたどり着いたこの神社に祀られているのは、実は弁財天であることを知った。

 まぁ、ここからが私のトリップであるが、これで納得した。ああ、そうなのか、あの、一晩私をしっかりと見ていてくれたのは、この弁財天だったのだ、と納得した。

 まぁ、そんなこんなで、18才の時に宮島に一回しか行ったことがないが、宮島は弁財天なのである、と揺るがない事実に納得するのである。そして、(仮称)小百合ちゃんの面影が、ふーっと湧いてくるのであった。終わり。

<62>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<60>08/06 福岡

<59>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<60>1972/08/06 福岡

 すっかり長崎SOONでのんびりしてしまったが、そろそろ再出発しなければならない。ヒッチハイクで福岡に向かったが、この日はあまり長距離トラックが止まらなかった記憶がある。短距離の乗用車を繋ぎ繋ぎでようやく福岡までたどり着いたのであった。

 この日のことで、ひとつ気がかりなことがある。この80日間ヒッチハイク日本一周で、私は是全国都道府県すべてを踏破したはずである。だが・・・・、実は、どうも佐賀県だけは確かではないのだ。

 当日もそのことがとても気になっていて、手持ちの全国地図で自分の走っていて、国道を確認していたはずで、たしか、何キロかは、佐賀県の県域を走っていると記憶している。あのあとちゃんと確認をしていない。

 そのことが今でも気になっている。そんなことなら、長崎ですっかり観光気分にのめりこまないで、一日佐賀に足を延ばせばよかったのにな。

 だけど、どうもヒッチハイクがうまくいかなかったので、とにかく乗せてもらうクルマに従うしかなかったのあろう。結局、この日は福岡の駅に泊まることになったのだ。

<61>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<59>08/05 オランダ坂

<58>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
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<59>1972/08/05 オランダ坂

 この日はオランダ坂としかメモしていない。この時の写真は押し入れのどこかに残っているはずだから、そのうちここに貼り付けることとしよう。

 もうすっかりヒッピー風のスタイルになっていた。

 それにしても、ずいぶんとのんびりナガサキ観光と洒落たもんだ。SOONのスタッフの皆さんも、こんな流れ者を長逗留させてくれたもんだ。感謝感謝。

<60>につづく

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2019/02/18

「オン・ザ・ロード1972」<58>08/04グラバー邸

<57>からつづく 

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<58>1972/08/04 グラバー邸

 「SOON」の人々のご厚意に甘えて、数日滞在させてもらい、その間、観光の町、長崎の街見物と洒落ることになった。被爆地となったナガサキの平和祈念堂、グラバー邸など、ランダムに遊んだ。

 グラバー邸など、へぇ、ずいぶん金持ちの外国人がいたんだなぁ、くらいのレベルであったが、今考えてみれば、なかなか大変な歴史的な場所であったのである。そんなこととはつゆしらず、のそのそ、あちこち見て回った。

 なにせ、こちとら他に用事のない旅人である。ましてや真夏の夏休み中。日本全国、夏~~。すっかり南国の太陽の下で、リゾート気分を味わっていた。

<59>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<57>08/03 SOON(長崎)

<56>からつづく 

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<57>1972/08/03 SOON(長崎)

 この日はうまいこと長距離などを捕まえることができたようで、一気に鹿児島から長崎市内まで入った。長崎は、数年後、末永蒼生氏が中心となって児童画研究会の全国大会が行われ、その時スタッフとして参加したので、なんとなく、親しみやすい街である。長崎ちゃんぽん💛

 ここに書いてあるSOONとは、スーンと読んで、その名の通りのミニコミを出していた集団だった。一軒家、あるいは集合住宅の二階だったように記憶するが、事務所兼共同生活の場になっており、割りとよそ者は入りやすく、受け入れてくれた。

 というのも、この集団は音楽の企画もやっており、この日あたり、福岡沖のののこ島とかいうところで野外コンサートが行われていたのだ。多くのスタッフがそちらに出向き、残りの留守番役の数人のスタッフが事務所を守っていた。

 「SOON」というミニコミも、当時では当たり前の謄写版印刷であったが、なんとユニークなことに、模造紙一枚の大きな色紙がベースになっていた。通常の印刷だと、せいぜいA3ぐらいの大きさがマックスなはずなのだが、その模造紙全体が謄写版印刷になっているのである。しかも斜めとか、互い違いとか、とにかく、度肝を抜かれるようなデザインだった。

 あの印刷はどうしたのか、結局、聞き逃してしまったが、当時考えて、今もそれしかないだろうな、と思うのは、謄写版のスクリーンの部分を外して、一枚一枚その部分だけ印刷し、何回も何回も、位置を変えて謄写版のローラーを擦ったに違いない。

 私は、このグループがよっぽど居やすかったらしく、次の日も次の日も滞在させてもらい、観光地巡りをしていたようだ。ありがとうございました。

<58>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<56>08/02 鹿児島汽船中

<55>からつづく 

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<56>1972/ 08/02 鹿児島汽船中

 れおんは、最近まで東京で働いており、遅れて九州ドッキングに参加した。だから、ある意味、これからが本格的な旅の始まりである。沖縄本島に一緒に滞在した後は、連絡のついていた島々などを歴訪することになる。

 そのような準備のなかった私は、決して南の島々に肩入れすることなく、万遍に各地を回ろうと、そのまま九州まで戻ってきた。今思えば、もう少し余裕を持って、せっかくだから真夏の南の島々を訪問するのも良かったのだろうが、18才のヒッチハイカーには、まだその余裕がなかった。

 その分、旅のあちこちで土産物などを買い入れ、いつの間にか、インド服に、貝のネックレスを首にかけ、次第に伸びて来たロングヘアーで、なんとなくヒッピー風に磨きがかかってきた気がした。

 行きの汽船の中でもそうだったが、帰りの船中も、多くの沖縄人と観光客が混じった、一種独特の風情があった。おそらくオキナンチューだろう。荷物から取り出した、ジャミセンで、島唄を奏でだした。

 大喝采を浴びるというわけでもなく、かと言って無視されるわけでもなく、邪魔にされるでもなく、その風景がごくごく自然にみんなの中に溶け込んでいた。外は暑い。真夏である。

 強烈なオキナワ体験をずっしりと体に感じながら、心はやがて本州のカウンターカルチャーへと早っていた。

<57>につづく

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三尊

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2019/02/17

「オン・ザ・ロード1972」<55>08/01 伊礼優氏宅(沖縄)(4)

<54>からつづく

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<55>1972/08/01 伊礼優氏宅(沖縄)(4)

 伊礼氏のお宅は、よくテレビで見るような平屋に沖縄瓦の木造住宅だった。南側はご家族が暮らすようになっていて、北側には、独立した空き部屋があり、そこに泊めていただいた。私の記憶は一週間くらいお世話になったような記憶だったが、今回記録を見ると、4日間お世話様になたようである。 

 ここであらためてお礼を申し上げておきます。突然にお邪魔した、礼儀もわきまえない若者を、しかも二人まで、長期に滞在させていただきありがとうございました。その後も旅が続いていたゆえ、充分なお礼のご連絡をすることもなく、大変失礼しました。

 今でも、沖縄といえば、あの当時のことを思い出します。復帰直後で、おそらくご家族も大変な時期だったのだと思います。コミニケーションも充分できないままの10代の若者に対応していただき大変ありがとうございました。今でも感謝しています。

 私の沖縄訪問は、結局、この生涯で、この時が一回キリである。もちろん沖縄に限らず、それほど各地にたびたび足を向けることはできない人生だった。それでも、私は十分満足していることがある。一回行っただけでも、何かのニュースなどで話題になると、それだけでリアリティが湧いてくる。

 百聞は一見にしかず、とも言う。人生の初め、18歳の時に、一見した日本は素晴らしかった。いくら百聞しても分からないことが沢山あっただろう。だが、あの時の旅は、私にとっては、かけがいのない貴重な体験となった。ましてや、沖縄は。

<56>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<54>07/31 伊礼優氏宅(沖縄)(3)

<53>からつづく

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<54>1972/07/31 伊礼優氏宅(沖縄)(3)

 日本列島をとにかく北海道から九州まで、半周したことになって、確かに日本は広いなぁ、と実感していたものの、そこは日本語が通じ、同じような風景の連想できるひとかたまりとしての日本だった。

 しかし、沖縄は違った。そこは半分外国だった。まず驚いたのは、道路が右側通行であったこと。つまり、私たちヒッチハイカーは、街道の傍らに立ち、左手を上げて、親指を立てるのである。それがヒッチハイクのサインだ。これはもう、野球のバッターが、バッティングの位置に着くようなもので、もう習い性になっている。

 ところが、沖縄は逆方法なので、右手を上げて、親指を立てるのである。これは最初はとても戸惑った。そして面白くもあった。だんだん慣れてくると、現地の人達もゆっくりと待ってくれた。

 驚いたのは、米兵の白人も止まってくれたことだ。大きなクルマで、前席がベンチシートで3人掛けになっていた。私は真ん中に坐り、れおんは窓際に坐った。間に挟まった私は、米兵の英語が全く理解できなかった。親切な米兵はいろいろ質問してきたが、私は片言の自己紹介しかできなかった。

 しかし、その後、英語の同時通訳者となるれおんは、実に快活に英語の応対をしてくれた。米兵は実に愉快そうに大笑いした。そして、クルマを降りる時、「YOur English very Well!」とほめていた。この部分だけは私にも分かった。

 私たちが米兵のクルマから降りたのは、基地ゲートの真ん前だった。私は正直、基地の中まで案内してくれるかな、と期待はしたのだが、それは無理だった。

 沖縄。当時、今の那覇はコザと言った。そして、横文字のお店がたくさんあった。私たちも、物珍しそうにその町の中に潜り込んだ。驚いたのは、当然のことだが、米兵たちがたくさんいたことだ。そして、米兵というと、どうも白人だけのイメージだったが、いや、黒人もたくさんいた。

 彼らの存在というより、あの身長の高さには驚いた。私も高校時代はバスケット部に属していたので、長身の連中とは結構つきあっていたのだが、それよりはるかに長身の、おそらく2メートルはあるだろうと思われるような黒人たちが、それこそあちこちの街角から、のっそのっそと現れては、街の中に消えていった。

 首里城も「観光」した。「ヤマトンチュー、クルスンドー」の落書きがあった。日本人め、殺してやる、との意味だっだそうだ。

 この当時喜納昌吉の「ハイサイおじさん」は大ヒットしていたようだが、記憶にはない。ずっと後で知ったことだが、私たちが訪れたこの時期、彼は法的に拘束されていたのだった。

 沖縄なら、泡盛でしょう、と、18歳の私と19歳のれおん、二人して、泡盛をひと瓶買ってきて飲んだことがある。何を隠そう、未成年の飲酒は禁止である。それは知っていたが、とにかく体験、と飲んでみた。ここでは正直書いておこう。れおんはどうだったか忘れたが、私にはとにかく、おいしいとは思えなかった。ふむー、こういう酒というものがあるのか~、と、まずは社会体験を試みたのであった。

 もちろん、大人になってからの私は泡盛は大好きになった。、そして、もうすでに5年前に還暦を迎えた私は、最近はちょっと酒量が落ちているので、最近は、もっとソフトな飲み物に戻っている。

<55>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<53>07/30 伊礼優氏宅(沖縄)(2)

<52>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<53>1972/07/30 伊礼優氏宅(沖縄)(2)

 その人は私と同じ学年の、沖縄の高校生だという。彼は私のことを地元の新聞記事で知ったらしい。そして新聞社に私の連絡先を聞いて、沖縄からかはるばる東北の地まで手紙をくれたのであった。

 手紙をもらった私のほうはビックリ。どうして沖縄の新聞に私のことが載ったのだろう。さっそくその記事を送ってもらうことにした。すると、たしかに私と私のミニコミについての記事だが、そんなはるばる沖縄の新聞社からの取材を受けたことはない。はてさて、どうしたことだろうか。私の疑念は深まった。

 その経緯が分かったのは、私たちが計画していた日本一周ヒッチハイクの旅の直前だった。私は彼にとにかく沖縄に旅することを伝え、その時は、宿の提供をお願いします、と伝えておいた。

 時あたかも、沖縄はこの1972年の5月15日に、本土に「復帰」した。それ以前は、オキナワは外国だったので、パスポートなしには渡れなかった。その二か月半後に、高校を卒業したばかりのバックパッカーが沖縄を訪れたのである。

Ut33              1972/07/30   撮影 れおん

 私は早速「沖縄タイムス」に「殴り込んだ」。すぐに担当者に案内されて、話を聞くことができた。そして、私の「抗議」の結果は、意外なものだった。

 その記事は「沖縄タイムス」の独自の記事ではないという。各地の地方新聞社が属している共同通信社の配信網の記事であり、その取材は共同通信社が行っている、という。だから個々の新聞社が責任をもつことはできないという。私としては想像もできない答えだった。

 とすると、今回は沖縄の伊礼優氏が手紙を書いてくれたからこそその掲載を知ることができたが、他の地方においては、私は実名のまま、作っているミニコミと共に写真付きの囲み記事で紹介されていたことになる。あっけに取られてしまった。

 その二年前の1970年4月の沖縄反戦デーの時、高校二年生の私は初めて政治デモというものに参加した。べ兵連の隊列に加わってシュプレヒコールを連呼したり、基地周辺をデモったり、反戦歌を公園で歌ったりした。しかし、沖縄や、政治について、人並み以上に詳しかった訳ではない。むしろ、知りたいな、と思って、その取材ソースに近づいていた、というべきだろう。

 そして、その2か月後の6月に私たちの高校の中でおきたバリケード封鎖事件を、学校新聞部としてカメラ取材していた私は、私服から誤認逮捕され、尾行まで付けられることになった。私はそれまで、自分の未来をジャーナリスト希望と考えていたが、この時の新聞報道が5紙が5紙とも誤認報道していたのを見て、ああ、ジャーナリストなど、一生の命をかけるべき職業ではないな、と直感した。

 いずれにせよ、私のこの時の沖縄訪問の動機はかなり偏ったものだった。自分の記事が解決すれば、まずはそれで一段落ついたことになる。だから沖縄滞在後、私は、直行で本土に戻り、九州からヒッチハイクを再開していた。

 ところが、一年学年上のれおんは、もっと視野が広かった。その証拠にせっかくきた沖縄からすぐ帰ることはせずに、当時の記録を見ると、宜野湾のひめゆりの塔を訪ね、石垣島に渡り、竹富島に渡り、もっと別な現地の人々と交流していたのだ。

 なにはともあれ、この貴重なタイミングで訪問した沖縄で、私たちは、もっと大きな忘れられない体験をしたのであった。

<54>につづく

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「アイ,ロボット」 原作アイザック・アシモフ<44>

<43>からつづく

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「アイ,ロボット」 <44>
原作:アイザック・アシモフ 監督: アレックス・プロヤス  出演: ウィル・スミス, 他 2004年作品 DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 時間: 115 分

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<45>つづく

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2019/02/15

「把不住述懐」<33>彫刻教室

<32>からつづく

 

「把不住述懐」 
<33>彫刻教室   目次

 

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<5>からつづく

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「美術手帖」更新を続ける21世紀の禅<6>
美術手帖編集部 (編集) 2016/10 美術出版社 雑誌 p211
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 久しぶりにこの雑誌の、この特集を読みふけった。なかなかいい特集だと思う。評価としてビックレッドファイブ☆をつけているが、当ブログとしては、レイボー評価よりも上で、しかも過去に、本の数冊しかない。つくづくいい特集だと思う。

 今回この雑誌を読んでみて、今現在、私が悩んでいるテーマにやや光が差し込んだように思う。悩みとは、ズバリ言えば、まもなくあと一か月ほどでスタートするはずの彫刻教室に参加するか、ということである。

 

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 具体的には、近年通っている禅寺の寺小屋での教室なのだが、実に縁を感じるお寺のご本尊となった仏像を彫った仏師(とその弟子筋)が講師となる。敢えていうなら、私が引き寄せて、私のために開かれることになった教室、と言えないことはない。

 参加できて、熱中することができれば、それはそれで、素晴らしい体験になることであろう。やってみたい気持ちが半分。だが、待てよ、という気持ちが半分なのだ。

 そもそも、この禅寺に参禅していて、月4回の週末のうち2回は、通っていることになる。その週末の間にちょうど入れてくれたのがこの教室である。それはとてもありがたい。ありがたいのだが、それだと、月4回の週末の4回が、埋まってしまうことになる。

 私はこの道だ、と頸椎できるなら、それも悪くない。この際だから、これでいいのだ、と覚ることが、できるかどうか。もちろん経費の問題もある。一回二回の参加で終わるものではない。何か月どころか、始めれば何年にも渡る作業となろう。私はそこに集中できるのか・・?

 その時間と経費を考えると、私にはそこに集中できないことが分かる。それは無理なのだ。表面的には無理がなさそうでも、いずれ無理が来る。瞑想会もある。他のボランティア活動もある。孫守りのスケジュールもなかなか忙しいものがある。これだけの決まった経費が出せるのであれば、あれもやりたい、これもやりたい、という気持ちも湧いてくる。

 どうしよう、と、この話がでてからずっと考えていた。そして今だに結論はでていない。だから悩みなのである。そんな時、今回またこの「美術手帖」のZEN特集を読んでみて、ゆるく結論がでたようにも思う。

 私は手慰みに仏像を彫ってみたことがあるが、それを極めることなど思いもつかなかった。仏師になれるよ、なんてオベンチャラを言ってくれる人もいたが、別に仏師になろうなんて思ったことは一度もない。

 ましてや私の仏像彫刻は、あくまで「廃物アート」の一環なのだ。作品として仏像だけを作ってきたのではない。恐竜、UFO、ロボット、三葉飛行機、お面、掛け軸、その一環としての仏像もどきであったのである。最近は廃物アートを、ZENアートへと止揚しようとはしている。しかし、そこに必然としての仏像があるわけではない。

 たしかにプロのワザを学びたい、とは思う。だが、それは、他のことはもうしなくてもいい、ということではない。もっと、なんでも手を出してみたい、という野心が残っている。老境になって仏像制作にのめりこむ、というのも、結末としては、とても美しいと思う。しかし、それは、どうやら、私の老年像ではなさそうだ。

 今回、この教室を明らめるうえは、月二回の週末は参禅に集中しよう。いや本当のことをいうと、この月二回の参禅スケジュールも、そうとうに思い込まないと続かない。ようやく二年のサイクルだが、これからもこのサイクルは守っていきたい。

 それと共に、この「美術手帖」のテーマのことを思い出した。「禅vsZEN」のせめぎあい。ここで仏像彫刻に没入したら、私の人生は、おそらく「禅>ZEN」に偏ってしまうだろう。せめて「禅=ZEN」レベルに抑えていきたい。あるいは、もっと止揚した形で「OSHO ZEN」になっていかないものか。

 伝統としての禅に帰ってきたいわけではない。かと言って西洋ZENのマインドフルネスもどきに浮気しようとしているわけでもない。私は「OSHO ZEN」なのである。そして、いわゆるあのタロットのような、いまいち不可解な位置で止まってしまってはいけないと思う。

 コンサル業務もまずまずである。老齢を契機に、一線を引かざるを得ない時期も近づいている。だが、安定した生活の基礎を作ってくれているのは、この仕事あってのこそだ。瞑想ルームも整備できて、日々の個的な瞑想生活もほぼ満足だ。

 家族環境もバランスが取れている。体調は、やや年齢相応のガタは来ているが、いますぐどうという危惧すべき点はない。このまま、スライドして老境に入っていけたら、これでいいのだ。あえて、大きくバランスを崩す必要があるか。あるいは、大きく空間ができてしまっている、心の陥穽というものは、あるか?

 いや、やはり私の進むべき道は伝統禅でもなければ、ZENマインドフルネスでもない。いや、どちらも包含したOSHOZENこそが、最も適している。そして、この二つの単語が、一つになったものこそ、私の存在、となる。

 そういうインスピレーションを、この雑誌の特集を読んでいて、得た。

<34>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<52>07/29 伊礼優氏宅(沖縄)(1)

<51>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<52>1972/07/29 伊礼優氏宅(沖縄)(1)

 この時の沖縄への旅には、18歳の私にとって大きな目的があった。それは沖縄タイムスに「殴り込み」をかけることである。殴り込みとは穏やかではないが、多少は抗議めいた義憤があった。なぜか。

 それは、私は高校生時代から作っていた個人ミニコミに関係がある。このミニコミがあの「朝日ジャーナル」のミニコミ特集のリストに載って(募集に会わせて私が投稿したのだが)、その反応があまりに大きかったのだ。

 全国から有名無名のリクエストが相次いだ。いわゆる「サンプル送れ」や「見本をください」の電話や手紙が相次いだのだ。いや実に驚いた。次から次と舞い込むリクエストに、高校生の私は呆れかえってしまった。

 なんせわがミニコミ「すくりぶる」は発行部数わずかに50部なのだ。無料で配っていたとは言え、こちらから切手代を負担して、全国に発送するなんて、とてもできない。ほとんど無視していたか、わずかにハガキでお断りの連絡を取った。

 あるいは、同じ「地域闘争」的な同志的仲間内感覚で、たくさんのミニコミが送られてきた。それらもほとんどは無料であるか贈呈であった。時には、無所属で立候補する政治家の広報や、ロックコンサートなどのチラシも送られてくるようになった。

 この時のあのあのリストに載った他のリストの人達にもあれほどの反応があったのだろうか。おそらく、私のところなどよりも、さらに大きな反響があったのかもしれない。この時、地元の新聞社やテレビ局からなども問い合わせがあった。

 そしてついに、この旅に出る前に、私はなんと、NHKテレビの30分番組に出演することになったのである。ミニコミを作っている東北各地の代表的な人々5人ほどで対談形式的なものであった。私の書いた四コマ漫画が、ひとこまづつ放送されたりしたのだ。

 私はそもそも、小学生時代から新聞記者やジャーナリスト志望ではあったが、自分たちの高校で起きた学生運動についてのマスコミ報道が納得できなくて個人ミニコミを発行し始めたのである。マスVSミニ、という構図を掲げていたのだ。

 そして問合せのあったそれぞれのマスコミには、斜に構えながらも、てらうことなく対応していたのは間違いない。だから、私の知らないところで雑誌や単行本に取り上げられていて、あとから知ったこともある。マスコミとは良くも悪くも怖いものだと、知った。

 そして、ある時、私は、沖縄のひとりの高校生の伊礼優という人から手書きの郵便一通を受け取ったのである。

<53>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<51>07/28 桜島観光旅行 沖縄汽船中

<50>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<51>1972/07/28 桜島観光旅行 沖縄汽船中

 この日は、二回目の桜島観光をしたことになる。私はそれほどでもなかったが、ようやく鹿児島にたどり着いたれおんの希望が通ったものと見える。

 それにしても、と思う。この時ふたりはどのようにして連絡をとり、再会を果たしたのだろう。当時、今のようなケータイとかスマホなどがあるわけではない。いったん旅にでてしまえば、テレビもラジオも新聞ニュースもうとくなり、あとはお互いの約束通りの場所に行ってみるだけなのだ。何かあれば、再会できない。

 あらかじめ土地の喫茶店や友人宅なら住所と電話番号くらいは控えておく。そして遅れそうなら電話を入れる。早めにつけば、逆に後からやってくる友人が迷子になった時のために、地域の地理を頭に入れておく。

 そうして再開した二人は、この日、おそらく沖縄行きのフェリーは午後出発の予定だったため、午前中は、桜島に渡ったのだ。そして土産物屋などを覗いたあと、再び鹿児島港に戻り。フェリーに乗り込んだ。

 さて、この時、本当にフェリーだっただろうか。これまでは例えば本州と北海道を結ぶ青函連絡船などは、ヒッチハイクしたトラックの助手として、無料で渡ることができた。関西から四国へ渡る時や、四国から九州に渡る時も、おそらくそれに似たような手段をとっただろう。

 ちなみにこの旅の2年前、1970年に、高校二年生の私は、仙台近郊から北陸佐渡に向かって自転車旅行をしたことがある。この時は、佐渡島まで自転車を持ち込んで、自転車で佐渡を旅した。あの時、たしか人間の乗船賃は2~300円だったが、小荷物としての自転車は500円取られた気がする。その金額に驚いたて、今でも記憶している。

 この時の沖縄への旅の船賃は、それこそ数千円したと思われるが、ここは仕方なく自前で出したはずである。多少赤字になっても、あとからやってきたれおんから借りればなんとかなるかな、という、それこそ大きな船に乗ったような安堵感が、すこしはあったはずだ。

<52>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<50>07/27  鹿児島港

<49>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<50>1972/07/27鹿児島港

 熊本の虹のブランコ族でなにやら直観めいたひらめきを得たので、実はもうすこし滞在したかったが、次の日程が迫っていたので、また鹿児島へと引き返すことにした。

 その日程とは沖縄に行くこと、そしてその旅は50CCバイクで仙台から東京経由で走ってきているれおんとの合流である。私はヒッチハイク、彼は原付バイクでの旅なので、一緒の旅というわけにはいかない。

 次の合流地点は鹿児島港である。体力勝負ながら、とにかく走れば予定通りの日程をこなせるバイクと違い、ヒッチハイクの旅は、予定は未定だ。早め早めに行動しないと、約束を守れないことになる。

 この時の鹿児島港についてはわずかなシーンとして脳裏に残っている。れおんはサングラスをかけて、例の小柄な体に、もともと濃い無精髭を生やして、黒シャツでやってきた。ちなみに私は、いたって髭がうすい。私はこの旅でマトモに髭を剃った記憶がないが、自分にも髭が生えるのだ、とわかったのは20才を過ぎたころだった。

 そして、もう一つ分かったことは、真夏の九州である。れおんの中古バイクはヨレヨレになっていた。あちこちの部品やら能力がだいぶヘタっていたのである。だから、考えてみれば、彼の日程だって、本当はどうなるか分からないようなスケジュールだったのだ。

 とにかく今回は彼のバイクは港のどこかにバイクを預け、二人そろって、沖縄に旅立つことである。この日の日程は鹿児島港としか書いていない。ここで、沖縄へいく船を待つ他の客たちと一緒に一泊したのだろう。れおんは、鹿児島駅に宿泊した。

<51>につづく

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2019/02/14

「イSム」 すべての人に、仏像のある毎日を,<5>

<4>よりつづく

 

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「オン・ザ・ロード1972」<49>07/26 虹のブランコ族(熊本)

<48>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<49>1972/07/26 虹のブランコ族(熊本)

 私はこのブログにおいても、他の文章においても、この集団について何回か過去に触れてきている。曰く、「この旅で一番印象的な活動」だった。カッコイイ、先進的、洗練されていた、という意味では、今でもそう思う。

 然(ぜん)とはぼくはまだ一回しか会ったことがないのだけれども、3・4年前にぼくが日本一周トリップをした時の途中だった。当時、彼らは熊本の花園神社(だったと思う)の境内の中で、神にささげる食事という意味の「神饌堂(しんせんどう)」という自然食堂を中心にコレクティブ「虹のブランコ族」を組んでいた。

 ラビシャンカールが流れ香が焚き込まれた床の間にカラスがちょこねんと座っていると云う落ちついたムードも良かったが、そこを目指して階段を登っていく時、目的のいささか古びた二階屋の雨戸に大きな白文字で書かれた”LOVE”が輝いていたのが、印象的だった。「時空間」12号(1975/11 雀の森の住人達)

 然(ぜん)とはのちのプラブッダ、星川淳氏のことである。英語ではZENとなり、1973年当時の彼は、別な書籍「Pilgrim's Guide to Planet Earth 」(1975/06 Directory
Paperback)にもZENとして
紹介されている。

 ここでの体験は、この80日間の旅の中のエピソード三本指のひとつに入る。ここを書き出すと延々とつづくことになり、キリがないので、いつか加筆するとして、今回はこの程度にしておく。

<50>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<48>07/25伝習館救援会(柳川)(3)ドッキング

<47>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<48>1972/07/25伝習館救援会(柳川)(3)ドッキング

 この日は、私たち4人のドッキングの日だ。れおんは後から出発したのだから、4人が同時にドッキングするのは、この日が初めてだった。

 流峰は愛用の中古の125CCバイクで、街道を突っ走ってきた。そもそも彼はこの旅に出る前からバイクであちこち走り回っていた。実家のある東京と大学のある大学の間を移動する時は必ずこのバイクだった。

 あるいは小諸の友人や、静岡(だったと思うが)のミカン収穫アルバイトに行く時なども、このバイクを疾走していた。近くのラーメン屋アルバイト仲間の麻雀大会などにいく時も、このバイクにまたがっていくのであった。

 だから流峰にとっては、この旅は、自分のこれまでの活動の延長線で捉えることができたであろう。そもそもが、今回のこの旅の発案者であり、4人の仲間を集めたのも彼だし、全体のリーダー的立場だった。彼は当時20才。私より二学年上である。

 れおんは私より一才上で一学年上。高校卒業後、浪人生活を送っていたが、この時点では仙台から東京に居を移し、羽田空港で、機内食清掃などのアルバイト生活をしていた。進学の意志は残っていたものの、当時の状況から考えて、それらの社会体制からのドロップアウトを模索していたと思われる。

 彼は流峰のバイクに共鳴したのか、今回の旅に、原付バイクで参加することを希望した。50CCのバイクであり、しかも中古だ。決して快適な旅環境ではなかっただろう。現に、この旅が終わったあとには、このバイクは廃車となった。

 しかし当時のモータリゼーションとしては、原付で長旅をするというのは、決してマレではなく、例えば山形の菅原秀氏などは、山形から常にバイクで東京まで移動していたようである。

 悪次郎は私と同じヒッチハイク。私と同学年だが、高校卒業したばかりで、形としては浪人生活に入ったという形であった。進学の意志はあっただろうが、彼もまたドロップアウトの意志があった。

 彼は今回の旅に際し、私たちのグループ名「雀の森の住人達」の名づけ親だが、これから4年間つづくこの仲間たちからの活動からは、一番先に姿を消した。だからかどうか、私は彼の思い出が少ない。

 非合法政治活動なども積極的に評価し、時にギターを片手に唄を歌い、作曲もし、論理性もかなり高度なものを持っていたが、結局、地道な四畳半的な日常生活の突き詰めの実践などには、あまり重きを置いていなかった。

 私は、これまで書いてきたような風体であったから、まずはこの4人のこれまでの40日に及ぶ旅の収穫のシェアリングは、そうとうに楽しいものであった。この次の日、私は熊本の「虹のブランコ族」を訪ねることになるのだが、この時の情報交換で新な情報を得たことも影響していたことだろう。

<49>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<47>07/24伝習館救援会(柳川)(2)

<46>からつづく

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「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<47>1972/07/24伝習館救援会(柳川)(2)

 この日のことを、当時のメモには「毎日、託児所の子どもたちと戯れていた」となっている。どういうことだろう。あの伝習館救援会には、職員がたくさんいて、その子女たちを集めて託児所を運営していたのだろう。

 この旅でこうして子供たちと遊ぶと言えば、旅の後半に東京に帰ったあと、末永蒼生氏の子どもの絵の塾を見学したことが思い出される。そのことについては後述する。

 この伝習館救援会については、いずれもうちょっとキチンと調べて、ここに加筆することにする。

 全体的なイメージは、学校の先生たちの体制内の改革運動であり、高校を出たばかりの、気ままな放浪者にとっては、かなり次元の隔たった事象だった。カウンターカルチャーというより、地域活動、地域闘争というものを取材するという、今回の旅の目的ではあったが、直接のつながりをどのように持ち得るのかは、不明なままだった。

<48>につづく

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2019/02/13

「オン・ザ・ロード1972」<46>07/2307/23 伝習館救援会(柳川)(1)

<45>からつづく

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<46>1972/07/23 伝習館救援会(柳川)(1)

 当時の私たちは、まだ10代から20代に突入していたとは言え、結構当時に政治状況に敏感だった。そもそも、学生うんどう、と言われた動きにコミットメントしており、さらにはそこから新しい時代を模索しようと考えていた。

 この時の旅ではないが、一年後の青森から仙台に下ってくるあたりで、太宰治の記念館、「斜陽館」を見学しようとしたことがある。その時、ヒッチハイクしていたのが、竿竹売り屋のトラックだった。

 例によって荷台には何十本のスチール竿竹と、物干台が載っていた。運転していたのは、20代後半の猛者。彼は日大闘争に明け暮れて、結局、今のショウバイをしているという。よくよく考えてみれば、竿竹売り屋だって、地域密着型の業務のはずだが、彼は、その東京で使っている業務用のトラックで、東北旅行へとしゃれこんでいたのだ。

 彼には挫折感がありありと見えていて、まぁ、太宰治の「斜陽館」はお似合いだった。一緒に見学したものである。

 似たようなことで、この九州地方をヒッチハイクしている時に停まったのは、やはりマトモそうな営業用トラックだった。もともとは東京の大学に通っていたのだが、ドロップアウトして、福岡の兄の会社の手伝いをしているという。

 彼は自分の大学を紹介する時に、どうしようもない学部だよ、と自嘲した。よくよく聞いてみれば、早稲田の商学部であったという。まったく「しょうがない学部」だよ。彼は何度も繰り返した。

 さて、今回私たちがドッキングポイントとして選んでいたのは、福岡県最南部にある、柳川市、そこの柳川高校の中のうんどう体だった。うんどう体と言っても、学生や生徒ではない。教師や職員たちが「造反」してしまい、そこで処分を受けたうんどう員たちを救援しようとしていたのだ。

 そして、彼らは、むしろ既存の学校法人よりも進んだ教育機関を自分たちで創立しよう、とさえしてたはずである。

 このポイントを選んだのは、私の旅仲間の他のメンバーだったので、私の若い問題意識からはすこし離れていた。しかし、まったく興味がない話ではなく、これを私個人はひとつの共同体うんどうの一つに見立てていた。

 ドッキング日は数日後だったが、自分の日程の関係上、早めに到着してしまった。そして興味が湧くようなことがたくさんあったので、ここで数日お世話になることになったのだった。

<47>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<45>07/22 熊本(農家)

<44>からつづく

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<45>1972/07/22 熊本(農家)

 この日は、「熊本(農家)」のメモが残っている。しかし残念ながら、その記憶はもうない。せかっく鹿児島までたどり着いて、しかもこれから沖縄に渡ろうとしているのに、なぜに熊本に引き返したかと言えば、数日後には福岡の柳川市で、旅仲間とのドッキングが待ち構えていたからである。

 それに九州の東側、そう大分とか宮崎とかは理解できたが、西側、熊本はどうなっているのだろう、という関心も確かにあった。そして、もっとも強く思っていたのは、水俣を訪ねてみたい、ということだった。

 当時は公害という問題も持ち上がってきており、その象徴的な事件としての水俣病が、全国的に、いや世界的に関心を集めていた。私はそれを体で実感したかったのである。

 体で実感と言っても、病気になられている人々のようにはいかない。せめてその地を訪れてみたい、そして自分の目で確かめたい、という気持ちが強かったのだ。

 公害といえば、私たちの東北地方でも、次第に大地はむしばまれ始まっていた。赤い水がドブ川に流れだし、毒素の入った肥料で、小川のフナやドジョウが、腹を見せて浮き上がっていた。異常天候が常に報道され、工場の煙突からは、煙や異臭が、無制限に流されていた。

 そのイメージがあったものだから、私は、水俣は、どんなにオドロオドロしく穢れて、めちゃくちゃになっているのだろう、そういうことに関心があったのである。

 しかし、その地を訪れた私は、拍子抜けになった。水俣地方は実に綺麗な風景に富んだ地だった。この旅で訪れた地の中でも、指折りの風光明媚な地であったと言っても過言ではない。

 ちょうど、真夏の九州である。ヒッチハイクの助手席から、光を浴びた大海原が、さんさんと続いていた。波も小さく静かだった。私のこころはだいぶ和んだ。

 この地をもっと味わいたくて、私はころあいを見てクルマを降り、近くの農家を訪ねてみたのだろう。その時、その庭に野宿させてもらったのか、家に招き入れられ室内に泊めてもらったのか、定かではない。それでも、今でも私の中の水俣は、美しいままだ。

 おそらく、あの美しい海から獲れるサカナは、おいしく、無害であると、誰もが信じるに違いない。その対比が、この公害の象徴として、水俣が取り上げられた理由のひとつであったかもしれない。

<46>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<44>07/21鹿児島

<43>からつづく

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<44>1972/07/21鹿児島

 あのプチブル建築会社社長の息子学生に連れられて、あちこち案内されたはずだし、食事もラーメンとか、なんどかごちそうになったはずである。いくらか恐縮しつつも、いいか、相手はプチブルだし、こんなこと、遠慮している場合じゃないし、と簡単に割り切った。

 それに、彼は彼なりに私に関心を示しているのだ。遠い東北から、ヒッチハイクで旅してきた若者だ。自分より若いのに、よくやるなぁ、という興味津々の心理が良く読み取れた。

 町を案内してくれたはずなのに、私はこの鹿児島について、ひとつの別なイメージを持っている。この地を歩いていて、私はふとあの青森の時のことを思い出していた。あの、大地の果ての、押し詰まった地勢。そこに住む人々の極限環境、どこか似ているのだ。

 プチブルの息子学生はまだNHK言語を使ってコミュニケーションができたが、一般の人々、特に町から外れると、言葉はまったくと言っていいほど通じないのだ。その割には人々は明るい。

 私の使っているNHK言語は簡単に、しかも正確に理解している。しかし、彼らの使っている現地語がまったく分からないのだ。何語だとかナニ弁だとかいう前に、もはや、それ自体が美的で、理解しようとさえしない自分がいた。

 うんうん、と勝手に理解したようなふりをするのである。そして、自分は自分で、相手が欲しがっているだろう情報と、私が、これだけは言わなくては、という情報を織り交ぜて、落ち着いてNHK言語で話すのだ。ことはそれで足りた。

 北海道は割と、方言と言われるほどの強いアクはなかった。だが、青森と鹿児島は、実に印象的に、極北、極南のイメージを醸し出していた。日本は広いな、とつくづく思った。

<45>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<43>07/20鹿児島大学寮(2)

<42>からつづく

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「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<43>1972/07/20 鹿児島大学寮(2)

 この大学はだいぶ居やすかったと見えて、続けて宿泊した。この当時、大学寮というものは、フリーな空間で、逆に言えば無法地帯だった。未成年でも酒たばこは当たり前で、ひょっとすると、政治的な非合法活動の準備や、火炎瓶の制作の夢を持った学生などもいたに違いない。

 私はこの大学で印象的に覚えている一人の学生がいる。まぁ、言ってみれば、プチブルの息子だ。長旅でそうとうにくたびれてヒッピースタイルになっていたわが身に比べれば、小ざっぱりしたいいとこの坊ちゃん風だった。

 彼はやたらと親切にしてくれた。町にも連れ出してくれた。その時、彼の移動手段は、自転車でもバスでもなかった。もちろん徒歩なんかじゃない。すべてタクシーだ。彼は移動する時には、気軽に手を挙げてタクシーを停めた。

 そして言ったもんだ。タクシーに乗るときは、私は個人タクシーしか乗らないんです。やっぱり個人タクシーは丁寧だし、安心ですよね。おいおい、こらこら、何を言っておるんじゃぁ、と私はたしなめたかったが、おごられている手前、そんなことは言えなかった。

 こいつ、私より1~2学年上としても、せいぜい20前後の若者ではないか。こいつ何を言っているんじゃろう、と今でも思う。親は建設会社を経営していると言っていた。

 高度成長期からオイルショックの手前の時期。そういえば、この時期、田中角栄が、三角大福の大混乱を乗り切って、首相になったばかりだった。新聞なんかほとんど見る事ができない旅の途中ではあったが、ヒッチハイクのカーラジオで、途切れ途切れの政局ニュースも聞くことはできていた。

 この角栄人気の中で、私たちのヒッチハイクの旅は、誰にとがめられることもなく着々と進行していた。

<44>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<42>07/19 鹿児島大学寮(1)

<41>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<42>1972/07/19 鹿児島大学寮(1)

 さてこの大学寮に、どのようにしてたどり着いたものか。おそらくどこかで知り合った学生が、この寮まで連れてきてくれたのだ。私は高校を卒業した後、三か月ボイラー修理工として働き、その資金で旅に出たのだ。だから、大学寮というものは知らない。

 正確に言えば、高校生時代も大学のキャンパスや寮で展開される学生運動の痕跡のあるスペースには出入りしていたので、まったく知らない訳ではなかった。しかし、自分が宿泊するとなると別である。ジロジロ見てしまった。

 それは年季の入った木造の、しかも平屋の建物だった。鹿児島大にも、いろいろな寮があったのだろうが、ここはそうとうにボロだった。壁は土壁で、しかも崩れかかっていたように思う。

 しかし訪問した日は7月19日。おそらくもう大学は夏休みになっていた。だからほとんど寮には学生はいなかった。誰か、留守になっている三畳間か四畳半くらいの、散らかったスペースに自分のシュラフを敷いて止まったのだった。

 あの大学寮、私が一宿の恩義を預かってから、すでに47年が経過している。今、現存しているとすれば、そうとうにあり得ないほどにボロであろう。あるいは、もう立て替えられて、すっかり近代的なパンションにでもなっているかもしれないな。

<43>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<41>07/18 桜島(テント)

<40>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<41>1972/07/18 桜島(テント)

 この日の桜島(テント)の意味がどうも分からない。そもそもこの旅で、私は2回桜島に渡ったことになっており、しかもテントとなっている。確かにテントのイメージはあるのだが、自分でテントを購入した記憶がない。誰かのテントに同宿させてもらった、という意味なのではないだろうか。

 ひょっとすると、旅仲間のれおんのテントを借りたのかな、と思って、当時の記録を見てみるが、当時れおんの原付バイクは、仙台から東京に向かい、そこから富士山のふもとを走っている状況だった。

 桜島を眺めていた記憶はあるが、桜島での記憶がない。桜島は渡ってみれば大きい町があったりして、島という感じがしなかったからではないだろうか。象徴としての桜島、少なくともオレは桜島に行ってきた、という達成感はあったのかもしれない。

 比して、宮崎の鬼の洗濯岩と青島のイメージは残っている。この旅で行ったものか、あるいはその後の記憶なのか定かではないが、今回のレポートでは他に書いておくところがないので、ここにメモしておく。

 走行していたクルマの助手席からは、鬼の洗濯岩がなんとも奇岩として印象に焼き付いた。そしてその岩伝いに歩いていくと、青島という小さな島があり、そこには小屋があった。そこはかつて画家が住んでいた、という。

 私はこの島に泊まったことを覚えている。すでに私より前にたどり着いた女性がいて、ろうそくとか最小限の日常品で暮らしていた。あとから知ったことだが、以前ここに住んでいた画家は自殺したとのことだった。当時、私はそのことはあまり怖くなかった。むしろ、エピソードや伝説のようで、その小屋に深みがでたように思う。

 少なくとも私はこの小屋を二回訪問したことがあり、一緒の友だちのことも覚えている。ただし、それはこの72年の旅ではなく、74年か75年目が二回目であったはずだ。

 とにかくこの頃は、停まるところなど心配していなかった。夏だし、九州だし、シュラフもあるし、安全もそこそこ守られている時代だった。

<42>につづく

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2019/02/12

「オン・ザ・ロード1972」 <40>07/17 大分鹿児島間 車中泊

<39>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<40>1972/07/17 大分鹿児島間 車中泊 

 さて、ここからは四国から九州へ渡る。そして九州での日々の記録を見ると、かなりあちこち脈絡なく飛び回っているイメージがある。どうしてこういう行程になったのか。地図でもみて考え直せばわかることも多いのだろうが、当時の交通機関は、現在とは違っているかもしれない。

 この記録を見ると、大分から鹿児島まで移動したことになっている。大分の別府にある仏舎利塔で、とても日当たりのよい海を眺めていた記憶がある。そして、それからさらに南下して、鬼の洗濯岩のある宮崎海岸を走り抜けたことも記憶している。

 そしてヒッチハイクで鹿児島に向かっていたことになる。この鹿児島では、たしか小高い丘に降ろされて、畑に舞い込み、どこかの農家の叔母さんに、畑の中でスイカをごちそうになったことも記憶している。

 あちこちでたくさんの人達にお世話になりつつ、旅を続けていた。ありがとうございました。

<41>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <39>07/16 ドッキング at 羽倉旅館(愛媛県波方町)

<38>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<39>1972/07/16 ドッキング at 羽倉旅館(愛媛県波方町)

 この時のドッキングは、仙台における「うんどう」の先輩筋にあたる羽倉正人氏のご実家である。私からすれば7歳上の仰ぐべきヒーローである。私たちが旅に出る時、自分の実家に寄ってみたらいいよ、と勧めてくれた。

 彼の実家はかつては船を所有していた大きな旅館であったらしい。親御さんやご兄弟が経営を引きついていて、何の手がかりもない私たちは、安易にその申し出に甘えたのである。迎えていただいたのは、お母さん。おいしい食事やラムネをごちそうになりました。

 この後、宇和島の清家新一氏を訪問した。彼は「超相対性理論」で有名な物理学者だった。1936年生まれの氏、当時36才だった。彼は、東大で物理学を学んだ超秀才だったが、アカデミズムをドロップアウトして、実家の宇和島で、UFO制作などを始めていた。

 彼の研究室を訪ね、アルミの洗面器を裏返したような「試作品」を拝見し、わかるはずもないその理論を聞いたりした。友好関係にあるイギリスの団体の写真を記念に購入した。

 最近になって、私は「廃物アート」でUFOを作ったりしているのは、あの時、清家氏に見せていただいた試作品が、今でもありありと目に焼き付いているからだろう。

 小柄なお母さんが、物陰から、そっと、心配そうに覗いている姿も、今でも忘れることができない。

 今回あらためて検索して、どうやら彼の理論は完成せず、2009年(平成21年)12月30日に亡くなられていることを知った。 当時はありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。 合掌

<40>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <38>07/15 三谷氏宅(松山)

<37>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<38>1972/07/15 三谷氏宅(松山)

 さてさて、ふたたび、みたび、三谷氏、とは一体誰であろうか。仙台を旅立つ前に連絡をつけていたと思える。ミニコミ関係ではなく、むしろ深夜放送の関連ではなかっただろうか。あるいは流峰の友人であったか。

 松山というと、どこかのオシャレな若者向け喫茶店で、数人の人々と歓談した記憶がある。その中には、当時の地元のラジオ放送局でディスクジョッキーをしていたアナウンサーがいた。ひょっとすると、この方が三谷氏だったかもしれない。

 私は高校生時代もあまり積極的な深夜放送ファンではなかった。むしろ同じ旅仲間の流峰は、その深夜放送で名を馳せた男だったので、その繋がりであったように思う。あるいは彼が懇意にしていた桝井論平氏の紹介であったか。松山城のイメージもある。

 もともとメモ魔でもなかったので、旅の間はほとんどメモも日記も書いていなかった。仙台に帰った後に、日程だけでなく、レポートやエッセイのようなものにしたらいいのにね、という読者からのたくさんの声をもらった。確かにそうだったが、その頃、それだけの力は、私たちにはなかった。少なくとも私には、この旅の意義がよくわからないでいた。

 今だって、実はそうだ。今更そんなことを思い出してどうするのか、と言われればその通りだが、今ここで思い出さなければ、もう永遠に思い出さないであろう。忘却の彼方に消え去るのである。消え去るのもまたよし。されど、一度記憶にアップしておくことも、決して悪いことではない。少なくとも我が脳機能の訓練にはなるだろう。

 そう、当時のミニコミと並立していた若者文化の拠点は、深夜放送であった。四国の、この若者たちとの接触が、やがてどこかに花咲いたのかどうだったのか。これは、私だけの判断ではなんとも言えない。他の仲間たちの意見を待ちたい。

<39>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <37>07/14 高知

<36>からつづく

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<37>1972/07/14 高知

さて、高知。四国について書けることなど多くないが、特に高知の一言のお題では、ほとんど何も書くことができない。四国、と言えば、自然に出て来るイメージは、とにかく長い海岸線と、山並みと、広い海原である。

 あそこに、どんな若者文化、カウンターカルチャーの痕跡を見つければよかったのだろう。

 いや、いくつかあった。手がかりが何もなかったわけではない。それはこれから行くいくつかのポイントにあるはずだった。そしてそこには次回の私たちの旅のジョイントポイントもあった。だから私は旅を急いだのであろう。

 それにしても海岸線の旅は長かった。それほど道幅も広くなく、まして長距離トラックなど多くない。ひたすら、地元のバンや短距離移動の乗用車を乗り継いでいくのである。長かった、というイメージがとても強い。

 東北とは言え、私の生まれ住んだ仙台近辺は、平野も広く、長距離トラックなど日常茶飯事でビュンビュン飛ばしている。それに比して、四国は島国だ。そして平野が狭い。街並みも、どこか漁村が次々と連続してつながってできているようなイメージだった。

 今なら、もっともっと味わうべき観光ポイントも分かっているし、会うべき人もいる。だけど、18歳の私は、ここ四国に足を踏み入れ、四国の四つの県を通過しつつあるのだ、というだけで、満足していたようである。

<38>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <36>07/13 徳島フェリー乗り場

<35>からつづく

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「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<36>1972/07/13 徳島フェリー乗り場

 私は生涯一度しか四国に渡ったことがない。それは沖縄だってそうだし、佐渡だってそうだ。まだまだ行ったことがない地域が沢山あるのだから、あの旅で、四国の地を踏めたことはラッキーだったと思うほかない。

 当時はあまり神社仏閣などには関心を寄せないようにしていたが、今では四国八十八か所巡りなどは当然意識の上に登ってくるだろうし、小豆島やあちことに、寄ってみたい、再会してみたい友人もたまさかいる。

 当時、四国に渡るには舟でいくしかなかった。四国と本州をまたぐ橋などなかった。あの時、鳴門海峡の渦潮を見た。私が見た渦潮は決して大きなものではなかった。おそらく直径100メートルほどの、割りと穏かなものだった。フェリー船は、キチンと観光のポイントを分かっていて、あの渦潮をくるっと回ってくれた気がする。

 四国全体のイメージはとにかく、山と海とが迫っていて、その間を堤防と道路が一体になったところを車が走っている、というイメージで、ヒッチハイクをするにも、どこにクルマを止めてもらったらよいか、工夫が必要だった。

 この日も宿泊場所は、徳島フェリー乗り場となっている。夏だったし、暑かったし、まだまだ若かったし、場所さえあれば、どこにでも寝ころんだが、しかし、それにしても各地の駅や港にはずいぶんとお世話になったものだ。現代なら、セキュリティの問題から、一発で叩きだされるような感じがする。

<37>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <35>07/12 GYA宅(西宮)

<34>からつづく

 

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<35>1972/07/12 GYA宅(西宮)

 GYAと書いて、ギャー。例のニックネームである。ギャー氏は当時、関西大学のおそらく3年生だった。20才。当時、彼は「週刊月光仮面」というミニコミを作っていた。このユニークな名前で全国にその名を馳せていた。

 私もおそらく「朝日ジャーナル」や「ジアザーマガジンYOU」などのメディアで彼をことを知って、この旅でぜひとも彼に会いたいと思う、事前に連絡していたものであろう。当時私はまだ18歳。何をどう質問したかは忘れたが、彼の誠実そうな理知的な面持ちが今でも記憶に残っている。

 彼の住まいは、たしか公営住宅のような集合住宅のおそらく2階か3階のようなところで、三畳間ほどの勉強部屋に机や二段ベットが置いてあったような気がする。彼を訪問して、一番記憶に残っているのは、彼のことよりも、彼のお父さんの言葉である。

 彼のお父さんは、あとで村上三郎という人だとわかったが、なにやら前衛芸術家である、とのことだった。ギャー氏の本名は村上知彦といい、のちに新聞社に勤務し、何冊かの漫画カルチャーの本を出版し、中年以降はたしか大学の先生などもした人だった。

 そのお父さんの三郎氏のアートは、のちに「具体」というアートだとわかったが、なにやら桟のない障子のような紙を貼った衝立を何枚かおいておいて、それを疾走しながら破っていく、というようなものであるらしかった。

 そのアートはさておき、私は初めて関西に足を踏み入れて、歩道橋などのあちこち「部落差別をやめよう」というような横断幕がたくさんあることに気がついた。そもそも部落差別や部落問題というものの存在を知らなかった。

 私たちの学校や地域では「部落」は普通に使われており、例えば学校の地区対抗リレーなどは、普通に「部落対抗リレー」と呼ばれていた。だから、部落問題、部落差別というものはどういうものか、シカとは理解できなかった。 

 そのことを、当時、顔を出してくれた三郎氏、当時おそらく40代であっただろう彼に質問した。そしたら、ひとこと、私が仙台から旅してきたことを知って、「東北は全部部落みたいなものだからね」とおっしゃった。

 世が世ならば、場所が場所ならば、聞き捨てならない台詞ではあったが、彼の言葉には、それほど悪意は含まれていなかった。ただ事実だけを述べたに過ぎなかったであろう。しかし、私にはいまだにこの謎めいた言葉がつよい印象として残っている。

 あとで登場する、「名前のないしんぶん」のあぱっちや、「存在の詩」のプラブッダなど、この旅で知り合った(あるいは遭遇した)情報元は、今日まで脈々とつながりを持っているが、このギャー氏とは、この時以来、プツンと切れた。もっとつながっていても良かったのだろうが。

 今になって考えるに、ギャー氏は決してドロップアウト組ではなかったし、カウンターカルチャー派でもなかった。漫画文化などに深い造指を見せた彼ではあったが、どこか安全なサブカルチャー意識にとどめたように感じられる。

 関西の前衛アートと、東北のまつろわぬ魂。どこか根底で、すれ違う何かがあったに違いない。

 

<36>につづく

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記 2021/01/20

本日、とあるテレビ番組録画を見ていたら、村上三郎氏にふれる場面があったので、偶然とは言え、驚いた。今後なにかのきっかけになるかもしれないので、参考までにメモしておく。

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「オン・ザ・ロード1972」 <34>07/11とのさま宅(てんのう寺)

<33>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<34>1972/07/11 とのさま宅(てんのう寺)

 とのさま、という名前で、そういえばそういう人がいたなぁ、という強烈な思い出が湧いてくる。されど、明確には思い出せない。当時の私たちは、ニックネームや通り名で通すことが多かった。だから正確な本名など覚えていることは少ない。ちなみに私の当時の名前は、せいこう、あるいはファック(笑)である。

 とのさまはたしか、大阪からガリ版ミニコミを出版している人であった。私よりは年上、おそらく当時で23才くらいの人であったろう。大学には関わっていただろうが、すでに当時はドロップアウトしていて、何か肉体労働とか、街頭のバッチ売りをしていたように思う。

 この方とどのようにして知り合ったかは定かではない。あの朝日ジャーナルの「ミニコミ特集」で知って連絡を取っていたものか、あるいは、流峰経由で紹介されたのか。あるいは、山形のゼミや、山岸会の合宿で知り合ったのかもしれない。

 高校二年生の時に、修学旅行を万博の大阪か、北海道の大自然か、と悩んだ時に、私の選んだのは北海道だった。だから、この先、この18才の時のヒッチハイクの旅は、私にとっての初めての大阪、西日本だった。

 細かいメモは残っていないので、宿泊や食事はどうしていたのだろう、と不思議なのだが、当時としてはインスタント・ラーメンなどは結構高価で、上等な食事だった。ソーメンをゆでたり、野草を食べたりした記憶さえある。

 ミニコミを制作して、全国に名を馳せていたとしても、彼の住まいは、四畳半もない、三畳間ほどだったのではないだろうか。風呂は銭湯で、トイレどころか台所も共同の、木造二階建てのアパートだったと思う。間違っていたら、ごめんなさい。

 とにかく、夏の大阪は暑かった記憶が強い。風が吹かない。景色が圧迫してくる。上半身裸になっても、Gパンを脱いでパンツ一丁になっても、それでも暑かった。

 一般的な若者の当時はこんなものだった。何ができるのか、何がしたいのか、夢や闘志だけは満タンではあったが、その矛先をどこに向けたらよいのか、よくわからない青春時代であった。

<35>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <33>07/10 頭脳戦線恍惚合宿 於 山岸会(3)

<32>からつづく

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<33>1972/07/10 脳戦線恍惚合宿 於 山岸会(3)

 山岸会は当時結構話題になっていた。どこぞの大学の教授が鳴り物入りで山岸会入りして、幸福学園なるものを打ち立てようとしていた。山岸会内部のイベントとしてではなく、この運動は全国的に広がり、仙台に帰った私たちは、この運動のイベントに参加したこともあった。

 この幸福学園運動は、数年間の盛り上がりで消え去ったように思うが、山岸会の名前を全国に、特に私たちのような若者文化のネットワークの中に、燦然たる存在として横たわり始めていた。

 当然、どの組織体も運動体も、完全完璧なものなどなく、どこここに矛盾や不整合性があるものだが、この当時私たちが見ていた山岸会とは別な形で、社会との接触の中で、誹謗中傷を受けていくことになった。

 私たちの世代の一部、その中にはスティーブ・ジョブズなどもいると思うが、脳裏のどこかに共同体やコミューンという理想形態が刷り込まれている。それはいつどのようにして刷り込まれたのかは定かではないが、理想郷、ユートピア幻想として、コミューン、共同体、という言葉は、今でも甘く囁いて^くる。

 この春日山での三日間の間、いろいろな体験をしたはずなのだが、私の中では、一番記憶に残っているのは、自分のリュックを整理している時のことである。これまで旅してきて、それなりにいただいたり購入したりした雑誌やパンフレット類もだいぶ多くなっていた。

 その中に、「ユリイカ」とか「現代詩手帖」などが入っており、それらが重くてだいぶ整理に困ったことだった。今なら、すぐ宅急便ででも送っておけばよかったのだろうが、当時はそれほど荷物を送付することは簡単ではなかった。それに、自分たちのアパートは留守宅である。送っても受け取る人もいないのだ。

 そこで、実家に送ったはずだった。集まってしまった雑誌や資料を、前掛けに包んでいる自分の姿が思い出されてきた。

<34>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <32>07/09 頭脳戦線恍惚合宿 於 山岸会(2)

<31>からつづく

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<32>1972/07/09 脳戦線恍惚合宿 於 山岸会(2)

 合宿やゼミとはいうものの、そのスタイルは別段にシステム化されたものではなかった。三日間のうちに、それぞれが三々五々到着集合し、緩い開会式があり、いくつかの有名無名講師がいて、それぞれの分科会のような形でサークルを作って歓談した。

 その中には、アサリ式色彩診断法を前面に押し出していた末永蒼生氏もいたはずだし、自然食の面から陰陽五行の食養を称揚するグループもあった。アートグループとしてクレパスで絵を描くグループもあったようにも思うし、ヨガとか瞑想とかに触れるグループもあったはずである。

 全体としては、決まりきったコースを受けるというよりは、それぞれがまちまちの道をたどりながら、ひとまとまりになったら、一体何ができるのか、というような手探り状態の人々の集まりだったのではないだろうか。

 一方山岸会については、会場が三重県春日山の山岸会だったというだけで、その片鱗については、ほとんど頓着しないまま終わった。山岸会という存在の意味は分かっていたし、決して無視するわけではないいが、どこか若者文化という範疇からは外れている気がした。

<33>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <31>07/08 頭脳戦線恍惚合宿 於 山岸会(1)

<30>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<31>1972/07/08 脳戦線恍惚合宿 於 山岸会(1)

 三重県春日山の山岸会、いわゆるヤマギシにおける三日間の合宿である。主宰したのは、名古屋のアートグループ、「頭脳戦線」。たしか、ゴミもまたアートであり、このゴミを美術館に展示するのだ、と持ち込んだことで、裁判沙汰を起こして、ニュースになったりしていたのではないだろうか。

 形としては、山形で参加したサバイバル・ゼミに続くようなものであるが、大きく違うのは、山形では大学や大学生が中心だったのに比べ、こちらは、共同体としての山岸会が会場となっていたこと。

 山岸会は養鶏法を中心とした自給自足のライフスタイルを標榜するいわゆる共同体のはしりであり、いわゆるサンプルでもあったが、言葉ばかり走る学生運動あがりの若者たちにとっては、実体があるだけに、極めてせっとくりょくがあり、魅力的だったのだ。

 集まってきたのは、山形と同じく学生や学生運動あがりの若者たち、あるいはロックなどのミュージッシャンを志す若きアーティストたち。農業を始めているひと、あるいは私たちみたいな旅人たちだった。おそらく全部で50人ほどはいたはずである。

 三日間の参加費はキチンと払ったはずだが、決して高いものではなかった。せいぜい一日数千円の単位であっただろう。大きな広間があって、雨露がしのげて、ご飯にもあり付けて、旅を始めて数週間経過している私たちには、ほっとした三日間であった。

 使用させてもらった大広間は、畳敷きで平屋の木造、決して立派とか豪華といえるものではなかったが、リュックひとつの旅人でしかない自分にしてもれば、ずいぶんとしっかりした団体に見えた。

 山岸会は、いわゆる特講、特別研鑽講習会とかいう、ビギナー用のシステムを採用していて、これが行き過ぎると洗脳とか揶揄されたようだ。この会場はそのために使われることが多かったようだが、この三日間に関して言えば、決してヤマギシズムの影響を受けたものではなかった。

 おそらく名古屋のグループの一部が、前駆的に山岸会の特講に参加し、共鳴したうえで、会場をこの春日山に設定して、自らの合宿を企画したものだったろう。

<32>につづく

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2019/02/11

「そして花々が降りそそぐ」 OSHO <1>

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「そして花々が降りそそぐ」―和尚講話録
Osho (原著),    マプレムプラバヒ(翻訳)  2005/11 市民出版社 単行本: 437ページ 講話時期74/10/31~ 74/11/10 「And The Flowers Showered」
No.4264★★★★☆

 

 近所の古本ショップが閉店することになった。基本嫌いなので、ほとんど行ったことがなかったが、何かに引かれて店内に入ってみた。と、すでに二十数年経過したらしいが、この度、閉店することになったという。

 

 これも奇縁かな、と雑貨コーナーでは、篆刻用の石材を求め、古書コーナーも回ってみた。あいも変わらず、私には不平のある品ぞろえだが、一冊だけ、おっと思うような本があった。それがこの本である。

 

 OSHOの本にしてはちょっと安すぎるのではないか、というような値付け。すでに閉店バーゲンに入っているからでもあろうが、一週間までは、さらにこの値付けから20%値引くという。すぐ買ってもよかったのだが、ひょっとすると他の人も狙っているかもしれないから、それなら他の人に譲ろうと思った。

 

 しかしながら、スペシャル・バーゲンの日になってもこの本は残っていた。私は実に安価でこの一冊を手にしたということである。この本はすでに図書館から借りて読んではいるが、手元に持ってはいなかった。

 

 私はいつの頃からか、OSHOの新刊が出ても購入を控えるようになった。読み切れないし、もし読みたくなったら、図書館から借りればいい。そういう姿勢になってからは、あまりOSHO本を揃えなくなった。その中の一冊としてこの本もあった。

 

 今回あらためてこの本を手にしてから、さてこの本の講話はいつの時代であったのだろうと、検索してみた。なんとそれは74/10/31~ 74/11/10の時代の本であった。私は私なりに記録しておいたので、すぐその時代を決定づけることができたが、この本にはそのことについては何も書いていないし、おそらく初めてOSHOを手にする人は、まったくその時代性を頓着することはないだろう。

 

 日本で一番最初に翻訳された「存在の詩」は75/02/11~75/02/20の間の講話である。つまり、この本は「存在の詩」の数か月前の講話だった。決して、80年代末のZENシリーズの一冊ではない。そこのところはちょっとマークしておく必要がある。

 

 文中には、洞山や難船など中国唐代の禅マスターたちの話題が織り込まれている。ブッタや、マハビーラなどの2500年前の教祖たちと、例えばオイゲン・ヘルゲルのような弓の話など、実に混然と混ざり込んでいる。これがまぁ、OSHOのスタイルではあるが、これでは、私などはいくら読んでも、そこからもっと深くいく、ということはできなかったであろう。

 

 文脈のあちこちを探っていけば、言葉そのものにこだわる読者の方がどうかしていることは理解できるのだが、それでもやっぱり、私の個人的な好みとしては、もうちょっと人脈や系統を整理しておきたかったものだ。

 

 1974年の講話が、2005年に出版され、さらには2019年の今日、ようやく手にとって再読してみる。このプロセスの、個人的な、独自性を、楽しんでいこう。

 

<2>につづく

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2019/02/08

「オン・ザ・ロード1972」 <30>07/07 京都ドッキング at パンキーフォコ

<29>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<30>1972/07/07 京都ドッキング at パンキーフォコ

 今回の旅の、大きなグランドプランは、一番年長の流峰の案だった。年長と言っても、まだ20。一般的には何も分からぬ、ひよっこに過ぎない。その下の私なんぞは、もう表現もしようもない。

 この京都のパンキーフォコなんてとこも、何が何やら分からないまま目指してやってきた。この時あたりから、東京住まいのレオンも合流したのだったろうか。ここは喫茶店か、たまり場か。

 とにかく京都は、ヒッチハイクがやりづらかった。神社仏閣も、名物も、文化もなにもあったもんじゃない。若者文化もあるものやらないものやら、通りすがりのフーテンでしかない。

 何が楽しかったのかな。もう47年前のある一日のことなど、もうすでに頭の記憶からは消えている。誰かが、こんなことがあったよ、などと教えてくれても、もうそれが本当だったかどうかなんて、確かめようがない。

 ところで、パンキーフォコって、なんだったけ? 流峰、れおん、悪次郎、教えてくれ。

<31>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <29>07/05 やさしさの夢(金沢)(3)

<28>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<29>1972/07/06 やさしさの夢(金沢)(3)

 旅に出る前の私たちは、何の手本もない、まったくの手探り状態だった。大学にもいかない、就職もしない。ドロップアウトするのだ。で、それって何? コミューン? ライフスタイル? 何がなんだか分からない。またくの手探りだ。

 思えば、時代としては、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」で表現されたような時代だ。傍らに四畳半フォーク・ブームがあり、時代は、高度成長時代。日本列島改造などが叫ばれ始まった時代だ。

 何がしたいのか? 何ができるのか? 間違っているのか? 新しいのか? 狂っているのか? 可笑しいか、失敗か、やっぱり引き返すか、どうすりゃいいんだ。

 訳が分からないまま、ただただ疾走し始まった青春。何か手がかりが欲しい。何がどうなっているんだ。おい、こら、教えてくれ・・・・。ばかやろう、クソっ、チクショウ、えい、なんとかしなくちゃ。

 滅茶苦茶な心境だったな。時に晴れ晴れしい日があり、時、もう死んでやれ、と思う。

 やさしさの夢? この旅で、私の中の模索のひとつのモデルは、この集合体にあった。仙台の私たちのスペースは、まだ何の形も持っていなかった。どうすればいいのか、何をするために、こんなことをしているのか。

 分からない、連続の、放浪の旅。

<30>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <28>07/05 やさしさの夢(金沢)(2)

<27>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<28>1972/07/05 やさしさの夢(金沢)(2)

 この80日間の旅の中で、私は3日間もこの「やさしさの夢」にいた。とても居やすかったのだ。喧嘩をするわけでもなく、食費費もみんなで分け合って、バッチ売りをしている人たちは羽振りが良かったので、食料を供給した。

 他の連中は、ゴロゴロと転がってばかりいる奴もいたが、掃除をしたり、積極的に食事作りをしたりする子たちもいた。私は食事は上手に造れなかったので、ほうきをかけたり、食事のあとの食器洗いなどをした。

 兼六園などに行ったような記憶もあるが、なんせ観光旅行でもなければ、神社仏閣を見て歩くわけでもない。ただただ、一番はこのような若者文化をつぶさに見ておきたいという目標だったので、この「コミューン」の中で人々をいろいろと観察していたのだ。

 夜になると、また雑魚寝で7~8人、時には10人以上で部屋に寝っ転がるので、なかなか寝付けなかったが、寝付けない理由は他にもあった。

 夜中になると、近くの街道を暴走族が走るのである。7月ともなると北陸の夏もそうとうに暑くなる。そのうっとうしさを晴らすかのように、毎晩、若者たちが爆音を響かせて、深夜の街道を疾走するのだ。

 その暴走族と、このコミューンにたまっていたヒッピーたちとは、どこか共感するところがあったようで、暴走族がでると、寝ていた何人かは面白がって、外に出て行った。何をどうしたのかは、分からないが、街道で囃していただけだろう。私はあんまり暴走族は好きではなかったので、部屋でゴロゴロしている方を選んだ。

<29>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <27>07/04 やさしさの夢(金沢)(1)

<26>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 全日程
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<27>1972/07/04 やさしさの夢(金沢)(1)

 おそらく、金沢まで来たのは、山形でのサバイバルゼミでできた友人を訪ねたか、誰かから紹介されたからである。

 「やさしさの夢」とは、いわゆる当時の言葉で言えば「共同体」や「コミューン」の名称である。ちょっと大げさな云い方だが、それらはほとんど一軒家とか、アパートの中の大きな一軒家でしかないのだが、ゼロからスタートする若者たちにとって、たくさんの夢の詰まった根拠地であった。

 金沢のこの集団は、学生運動というより、路上でバッチ売りなどをしているような、いわゆるヒッピー系の人々のたまり場だった。戦後1945年に生まれた戦後っ子が、新しい時代の予感のもとに集まりだしていた。

 高校を出たばっかりの高校生とか、何かの縁で、集まってきて集合生活していたのだ。ただただ遊んでいるような人間は金を持っていなかった。バッチ売りをしている連中は、結構金回りが良かった。

 私なんぞは、いずれこの取材旅行を終わったら雑誌を作るんだ、などとうそぶきながら、プライド高く振舞っていたが、結局、あちこちで一宿一飯の恩義にあずかりながら、旅を続けていたのだ。

 この金沢のグループには、結構かわいい女の子たちがいた。大きな相部屋で、食事をしたり、雑魚寝をしたりするのだから、なんだか気になって気になってしかたがない時もあった。特に、このグループの中には、私と同年配のかわいい子がいたんだよなぁ。あの子どういているかな。生きていれば、もう私とおなじ初老の身の上であろう(笑)。

<28>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <26>07/03 富山駅

<25>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<26>1972/07/03 富山駅

 山形から金沢までの旅。ヒッチハイクの旅は、予定通りというわけにはいかない。そこが難しいところでもあり、楽しいところでもある。一番いいところは、とにかく細かいスケジュールがないので、気ままに一日を過ごせるところである。

 だが、時に豪雨に遭い、時にクルマはいくら待てども止まってくれず、時に忘れ物しても戻ることさえできない。この日は、とにかく富山駅に泊まったのだ。例によって駅でのことなんか全然覚えていない。

 ふと今思い出したので書いておくが、きっとこの日のことではないのだが、なんとも印象的な思い出がある。

 行けども行けども、待てども待てどもクルマは止まってくれず、仕方がないので、おそらくこっちの方だろうと歩き続けていた。ふと自分の進行方向を見ると、同じように歩いている人がいる。

 おお、ひょっとすると私と同じヒッチハイカーか? と見間違ったが、どうやらスタイルはちょっと薄汚れているし、背も丸まっている。下げている袋も、カッコいいいリュックサックではない。ああ、あれはプロの乞食さんだ。

 家も何もなく、自分は今、ああいう人と同じような身分だなぁ、と落胆しつつ歩いている。と、彼はふと道を直角に曲がって畑の中に入っていった。おや、と思ってみていると、なんと、その進行方向には、小さな小屋があったのだ。

 見るからに年季の入ったブルーシートやワラや棒きれ板切れで作られた掘立小屋ではあったが、その日の私には、ずいぶんと立派に見えた。

 私には今、小屋も何もない。ただ一人の放浪者でしかないではないか。トボトボと歩いて、雨に打たれて、腹をすかして、ただただ歩いていた。

<27>につづく

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「現代語訳 風姿花伝」 水野聡

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「現代語訳 風姿花伝」   
水野 聡 (翻訳) 2005/01 出版社: PHPエディターズグループ 単行本: 111ページ
No.4263★★★★★

 風姿花伝。立派なマーケティングの教本である。お客ありき、スポンサーありきの世界である。されど、お客ありき、スポンサーありきからスタートしたのでは達人になれない、と、そういう極意を子々孫々に伝えようとした本。

 弟子筋ではなく、一子相伝を基本とした血脈に伝えようとしたところが味噌。それが700年に渡って伝えられきた。現代語訳であるから、現代人にもわかりやすいことは当然としても、その極意の本質が、芸の高見に比して、実に現実的で、俗でもある。

 孤高、超絶、独覚を喜ばない。秘してこそ花。されど、振り返る人も、愛でる人もない森奥の花を喜ばない。

 わびさびの世界でありながら、それをしっかりとマーケットプレイスのまな板に上げてしまっているのは見事。

 逆に、私などは、その辺がクサい。

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2019/02/06

「オン・ザ・ロード1972」 <25>07/02 サバイバルゼミ於山形(2)

<24>からつづく

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<25>1972/07/02 サバイバルゼミ於山形(2)

 わが青春の愛読書は「朝日ジャーナル」の他に、「黒の手帖」「ジ・アザー・マガジンYOU」などがあった。その他、いわゆる若者文化と言われた当時のカウンターカルチャー関連の雑誌には、末永蒼生の名前が若々しく踊っていた。

 彼はすでに30才ほどで、私たちより一世代上の方だったが、当時は「アサリ式色彩心理診断法」などについて、盛んに雑誌等に書いていた。自ら児童画研究会を主宰し、子供たちの絵の塾なども展開していた。

 私にとって、菅原秀氏と末永蒼生氏は、別々なルートでファンだったのだが、なんと、菅原氏が主宰したサバイバル・ゼミに、ほとんど主賓として末永氏が参加していたのである。これには実に驚いた。

 この他、「超科学研究会」の高木謹介氏や、ロックバンド「頭脳警察」のブックちゃん、ゴトーちゃん、なども参加していた。ミニコミ書店を経営していた人や、当時すでに無農薬農業に挑戦されていた若い世代の人達も参加していた。

 ベースとしては山形大学の学生たちの運動であったが、私たちのように近隣からさらに全国に散らばるいわゆるカウンターカルチャーの若者文化予備軍が沢山参加していた。

 このサバイバル・ゼミで得た情報やネットワークは貴重なものが多く、また菅原氏や末永氏、高木氏などとは、これ以降も親交が続いた。

<26>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」 <24>07/01サバイバルゼミ於山形(1)

<23>からつづく

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<24>1972/07/01 サバイバルゼミ於山形(1)

 わが青春には、いくつかの大きな出会いがあった。まずは「朝日ジャーナル」特集:ミニコミ’71---奔流する地下水(1971/03/26号)を挙げておかなければならない。数千のミニコミリストが掲載されたこの雑誌に、私が作っていたミニコミ「すくりぶる」も住所とともに掲載された。このリストを通じて、高校生の私のネットワークは一気に広がった。

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 その中でも、特に宮城県出身で、当時隣県の山形大学の学生だった菅原秀さんの活動は大いに私たちを刺激した。彼はすでに23才であったが、山形市内を中心に、盛んにカウンターカルチャーをリードしていた。

 当時彼が発行していたミニコミ「ニューヴァーブ」は、自家製の和文タイプ謄写印刷ではあったが、すでに全国的な影響力を持っていた。そしてミニコミ発行に限らず、ロックコンサートや、児童画塾、合宿形式のセミナーなども積極的に行っていた。

 彼の専門は音楽で、ジャズ・ピアノなどが彼の得意技だったが、そこから関連する分野に研究テーマを広げ、関わる人々も多彩な面々だった。この日は「サバイバル・ゼミ」というものが山形市内の大学や旅館の大広間などを利用して開催された。

 私たちの旅がスタートする二週間ほど前に、このゼミの案内が届いていたので、最初から参加する意志を伝えており、二回目のドッキングのポイントにもなっていた。

 菅原氏については、当ブログにおいて別途別項目で盛んに記しておいたので(一部削除)、詳しくはそちらに譲るが、なかなかユニークな活動を展開された方で、現在でも、ジャーナリストとして、国際的に活躍されている方である。

<25>につづく

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2019/02/05

「オン・ザ・ロード1972」 <23>06/30 友川かずき氏(能代の病院)

<22>からつづく

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<23>1972/06/29 06/30 友川かずき氏(能代の病院)

 青森県民会館の天井桟敷の公演の、その打ち上げで、私はフォーク歌手の友川かずき氏と親しくなった。彼の歌は知らなかったが、同じ青森県出身の三上寛の歌は自分でもギターを弾いて歌っていたので、最初から友川氏にも親しみを持った。

 氏は当時、体を壊して能代の病院に入院中だった。本人の説明では、酒を飲み過ぎて、肝臓を傷めた、という説明であった。1950年生まれの氏、当時まだ22歳。

 知り合いになったけれど、一緒に能代の病院まで一緒に移動したのではない。入院していた病院を教えてくれて、後からヒッチハイクで移動して訪ねたのだった。

 突然ぶしつけに押し掛けた私を、友川氏は優しく親切に受け入れてくれた。彼とて病院では時間を持て余していたのだ。この日、私は他の日程を書いていないから、おそらく病院に泊めてもらったのだろうか。記憶がない。

 その後、9月に仙台に帰ってからも、秋田の彼と何回か手紙をやり取りしたが、やがて彼は、東京や関西に住所を移し、なんどかその消息を知ることができた。彼の手紙は、便せんに2~3枚書いてあって、びっしり現在の近況が書いてあった。

 調べてみると、氏は今でも現役で活躍されている。ご同慶に堪えない。「生きてるって言ってみろ」。

<24>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<22> 06/29 天井桟敷テント(青森)

<21>からつづく

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<22>1972/06/29  天井桟敷テント(青森)

 青森駅で目が覚め、街に出て、市内をぶらついていた。その時、ちょうど青森県民会館の前を通りかかった。なんとその日は、寺山修司率いる演劇実験場「天井桟敷」の青森公園の日だったのだ。演目は「邪宗門」。

 公演は夕方だったが、他の予定のない私は、昼間の早い時間から県民会館の劇場に入り込んだ。まだ準備もされておらず、会場には誰もいなかった。やがて会館スタッフがやってきて、演劇芝居団も登場。舞台設定や、仕込みが始まった。

 私は旅人ゆえチケットも持っていなかったし、そもそもチケットを買うほどの資金を持っていなかった。ちなみに、私はこの三か月のヒッチハイクの旅のために、三か月間、ボイラー修理工として働いて資金を貯めていた。月給は35000円ほど。

 共同アパートや食費のために月々15000円提出し、また旅行中のための家賃を残して、ようやく5万円の資金を貯めた。これで80日間過ごさなければならないのだ。まだ出発して全行程の一割が過ぎた程度。できるだけ出費は避けたかった。

 私は、観客席の椅子の間に、リュックもろとも身を沈め、開演時間までじっと潜んでいた。今となって考えれば、よくぞ見つからなかったものだ。ヘタすりゃ、交番にでも突き出されるところだった。

 開演時間がやってきて、芝居が始まった。真正面には、「姫ビール」の大きな旗がひらめいていた。役者たちは、やがてステージから降りて来て、観客席の間を、角棒を持って、床を叩きながら、シャイな観客たちを挑発した。

 高校時代から、紅テント、黒テント、夜行館などの、いわゆるアングラ劇を、友人の石川裕人と観ていた私だが、天井桟敷の舞台は初めてだった。というか、あの有名な劇団のステージは、生涯この時、一回限りしか観ていない。

 映画「書を捨てよ街に出よ」は見ていた。そもそも、このタイトルに踊らされて私は旅に出たようなものだった。リュックの中には同名の文庫本が入っていた。あの佐々木英明の朴訥たるイントロはなんとも衝撃的だった。

 観客席の暗がりに身を潜めて、開演を待っていた身としては、公演はあっという間に過ぎ去った。特に予定のない私は、その後、役者たちのたむろする楽屋に忍び込んだのだ。そして私はいつの間にか、誰にも怪しまれないで、スタッフの一員風になりすましていた。

 あとからまとめたミニコミ「時空間」のリストには、この日、天井桟敷のテントに泊まった、と書いてあるが、それは間違い。聞き取って書いてくれた他のスタッフの聞き違い、勘違いである。彼らはテントには宿泊してないし、そもそもテントで公演していない。

 その日の公演打ち上げは、近くの畳敷きのある旅館で行われた。寺山修司や九條映子、音楽のシーザー、映画にも出ていた佐々木英明、そしてステージには出ていなかったと思うが、フォーク歌手の友川かずき、など、その他、裏方スタッフを含めて2~30名の人々がいた。

 私は何もなかったようにその一団に加わり、食事にもあり付いた。寺山もあの大きな目で、こちらをギロリと見たが、別段に不審がることもなく、一団に溶け込んでいる私を、許しているかのようだった。1935年生まれの寺山、当時まだ36才の青年だった。私は18才。もし人生の何事かが交差していれば、私はこの後の人生をこの一団と過ごしたかもしれない。

 しかし私には、予定があった。石川裕人ならともかく、私は人生を演劇のために費やすという覚悟はなかった。これから残り70日ほどは、決めたスケジュールで旅を続けようと思っていた。

<23>につづく 

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「オン・ザ・ロード1972」 <21>06/28 お寺(青森)

<20>からつづく

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<21>1972/06/28 お寺(青森)

 この日の宿泊地は、お寺(青森)となっている。お寺としか書いてないが、実は、キチンと名前も覚えているし、その日のことは克明に覚えている。

 私はヒッチハイクの旅5年間の中で、各地のお寺さんに一宿一飯のお世話になった。おそらく10寺以上に泊まったことがあるが、そのお寺さんのお名前を憶えているということは少ない。申訳ない。

 私が16歳の時に、仙台近郊から出発した自転車旅行+ヒッチハイクの一番最初の旅は、福島県会津坂下町の山中にあるお寺さんのお堂宿泊から始まった。まるで私の旅を予感するようなお寺さんとの付き合いが始まった。

 人生二度目のこのお寺宿泊を今でも覚えているのはなぜか。しかもすでに47年前のことである。それは秘密も何も、そのお寺の和尚さんが、自分で発行した小冊子をプレゼントしてくれて、今でも手元に保管して持っているからである。

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「人生の灯」
今 照法  1970頃 青森市照法寺 自費出版 変形新書版 p145 
No.4262★★★★☆

 この日、私のヒッチハイクは、このお寺の近くで夕方を迎えた。手頃なお寺があったので、階段を上っていった。決して裕福そうなお寺ではなかったが、住職の和尚さんは、多少いぶかりながらも、やさしく迎え入れてくれた。

 今思えば、このお寺は真言宗の祈祷などを行い、積極的に客人を受け入れてくれるお寺だったようだ。私は別に悩み事があったわけでもないし、ただの無銭旅行の若者である。突然の訪問者に和尚さんも驚いただろうが、まぁ、若者だから仕方ないか、と笑顔で迎えてくれたのだろう。

 気安く夕飯もごちそうしてくださり、布団も用意していただいた。朝にはちょっと早めに起きて、板目のぞうきん掛けなどを手伝った。それは義務や作務という雰囲気ではなく、お寺にはこういう作業があって、普通旅人なら、こういうことも手伝ったりする時もあるんだよ、というような、超初心者を導くような、優しい方だった。

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 翌日帰り際に、一冊いただいたのが「人生の灯」という自費出版の一冊だった。写真入りで活版印刷のキチンとした書籍ではある。だが、いかんせん、誰でも読みやすくしようという意図だったのだろう、ルビが漢字のあとに一字一字( )の中に書いてあり、正直、読みにくい(苦笑)。それでも、内容は実に立派な本で、これだけの本を当時自費出版するのも、そうとうな経費がかかっただろう。

 今回、改めてこの本を取り出してみると、あの和尚さんは今照法という方であった。青森の今さんというと、ひょっとすると、後年私も大ファンになった天台宗僧侶で平泉中尊寺の貫主も務めた今東光和尚の縁者の方かもしれない。ご指導ありがとうございました。

 縁は異なもの味なもの。袖すり合うも多生の縁とやら。18歳当時の私は、神社仏閣に興味なかったわけではないが、それは中年以降の楽しみとして、まずは若者文化の拠点を中心に旅をしよう、という目的を持っていた。

 こうして老齢になってみれば、決して神社仏閣を気楽に旅できるような身分にはならなかったが、確かに、年齢とともに神社仏閣への関心は深まるばかりである。

<22>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<20> 06/27 青森駅

<19>からつづく

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<20>2017/06/27 青森駅

 札幌をでて、函館の青函連絡船で、またトラックにヒッチハイクして、本島に戻ってきた。この日、青森駅に泊まったことになっているが、記憶がない。そのかわりやたらと印象深い思い出があるので、ここに書いておく。

 その思い出が、この日の出来事であったのかどうか、定かではないが、我が人生の中で、そのようなつながりのある旅程はそれほどないので、きっとこの日のことに違いない。

 私は竜飛岬に行ってみたいと思った。斧の形をしているのが下北半島、その西側に小さな丘のような半島となっているのが、津軽半島だ。ここもある意味、本州の北端のポイントである。そこに向かってヒッチハイクを始めた。

 ここは小さな街道で、長距離トラックなど走っていなかった。地元民の生活道がくねくねと続いているような、当時でもさらにローカルな雰囲気満載の街道であった。それでも最初は地元の人達の行き来があったが、だんだんと道は細くなり、やがて、まばらな家や漁師小屋が続いていて、道にそれらが飛び出してくる始末だった。

 もはや街道や道路というより、まばらに点在する小屋を繋ぐための細道、といいう風情になってきた。はぁ、ここからまだまだ距離はあるはずだが、本当に行けるのか・・? そんなことを考えている時に、一台のトラックが止まってくれた。

 その風情からして、停まってってくれたオジサンは結構年配な漁師で、地元で作業中であっただろう。とても親切で、人懐こく、いろいろ聞いて来た。しかし、私は、そのオジサンの言葉を、一言も理解できなかった。

 何度も聞き返すのだが、まったく分からないので、どうせそういうことを聞いているのだろうと機転を利かせ、僕はこうして、ヒッチハイクで日本一周をしているのですよ、仙台を出発してもう10日くらいになるけれど、北海道から帰ってきて、これから竜飛岬まで行くのです、と自己紹介した。

 彼の言葉は分からなかったが、彼は私の言葉を100%理解してくれたと見えて、大笑いしていた。そして、何か親切にいろいろアドバイスしてくれるのだが、まったく分からない。私は、竜飛岬からさらに日本海側を下って半島を一周してみたいのです、と話した。

 だが、彼は大慌てで、何か大きな声で言っていた。何を言っているのかその時は分からなかったが、後でそれは十分理解した。

 竜飛岬は本当に北端で、岩場のところだった。そこにはもう道さえない。そこら岩場を伝って、日本海側の波打ち際を歩いていくなんて、ビギナーのヒッチハイカーにできることではなかったのだ。オジサンは、一生懸命、それは無理だよ、道がないよ、ここから引き返したほうがいいよ、と言っていたのだ。

 2019年の現在では、言葉も道も、昔の話だろう。しかし、強烈な思い出として、私はあの時のことをよく友人たちに話しては、懐かしむ。

 さて、日本一周を終わったあとの感想ではあるが、この津軽半島の閉塞したひっ迫感は、ある種、九州鹿児島の南端あたりと似ているな、と思ったことである。ちなみに、私たちの中部東北は、島根や鳥取の山陰地方の雰囲気に似ている。

 そして沖縄の文化と、北海道の開拓民ではない、アイヌの人々の文化も、似ているなぁ、と肌で感じたものである。

<21>につづく

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2019/02/03

「オン・ザ・ロード1972」<19> 06/26 解放会館

<18>からつづく

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<19>2017/06/26 解放会館

 はて、解放会館とはなんだろう。旅仲間3人が同じ日程で同じ名前を挙げている限り、ここを一緒に訪ねたことは確かなことだったろう。ひょっとすると、3人一緒に泊めてもらったのかもしれない。だが、まったく記憶にない。

 解放会館というネーミングのニュアンスから、アイヌ解放同盟とか、部落解放同盟とかのイメージが湧くが、北海道で部落解放の運動はあったのだろうか。前日のスペース「ドッコ」と一緒に記載されているところから、二つのスペースは一体化したものだったかもしれない。

 この時の札幌のイメージは、まずは、当時のハヤリだった札幌ラーメンのおいしい店を訪ねて何軒か食べ歩いたこと。ひょっとすると旅仲間と一緒だったかもしれない。それと大通り公園。

 行きあたりばったりの旅ガラス。いつも今夜はどこに寝るのか、考えながらの行動の連続だった。横幅100メートルの大通り公園は、中央分離帯が大きく緑地になっている公園で、リュックをおいてベンチに座っていた。

 わずか一週間とは言え、それなりに旅人としての雰囲気もでてきて、心構えもできてきた。旅人の気安さもあって、割と臆せず通行人たちに声をかけることができるようになりつつあった。

 そんな時、昼休みに緑地帯で弁当を食べていた事務員風の女子と仲良くなった。なかなか笑顔のかわいい子で、世間話をした。それなりにこちらに興味を持ってくれた。そして、どうやら彼女は、近くのアパートに一人住まいしていることを聞き出した。

 私は今夜の宿を確保するために、猛アタックを始めた。彼女は大笑いしていた限り、まったくこちらを拒否しているわけではなかったが、まさか、昼間っから大通りの大衆の面前で口説かれるとは思っていなかっただろう。大笑いしているうちに、結局昼休みの時間が終了となり、タイムアップとなった。

 まるで気のないような対応でもなかったし、18歳の私よりは多少年上そうな女性だったが、おしいことをした。クドくにしても、時を場所を選ばなくてはならないな、ということを強烈に覚った瞬間だった。_| ̄|○

<20>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<18> 06/25 札幌(ドッキング at ドッコ)

<17>からつづく

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<18>1972/06/25 札幌(ドッキング at ドッコ)

 当時、私たちの雀の森の住人達は男子4人組の仲間であった。その活動のスタートとして企画されたこの「80日間ヒッチハイク日本一周の旅」も、本来4人の旅であった。だが、れおんは当時東京で部屋を借りてアルバイトをしていたので、東京から南の後半に参加する予定になっていた。

 前期的にスタートした流峰、悪次郎、そして私の三人のうち、流峰は、自分の125CCバイクでの旅行となり、純粋なヒッチハイクは、私と悪次郎二人だけであった。れおんは後から、50CC原付バイクを駆使し、南日本での参加となる。

 4人組とはいえ、それぞれ別々に一人旅をし、一週間に一回程度、あらかじめ予定していた集合地点に合流した。そしてそこで情報を交換などして、次の旅程にそれぞれまた旅立つ、というアイディアである。

 その最初のドッキングの日が、6月18日仙台スタートの一週間後の6月25日の札幌なのであった。ちなみにその後は、山形、京都、三重、愛媛、福岡、鳥取、小諸、東京、と一週間ごとに一回づつドッキングし、仙台に帰ってきた。

 さて、その第一回目のドッキングポイントだが、残念ながら、私は全然記憶に残していない。そもそも「ドッコ」とはなんであったのか。いずれ、流峰や悪次郎に聞いてみれば、断片的なことが思い出されるかもしれないが、いずれ、カウンターカルチャー情報センターのようなところだったと思う。

 旅に出るにあたって、私たちはおおよそのスケジュールを決めており、ドッキングポイントとなる地点には、あらかじめ手紙でその予定を伝えて、お願いすべきはお願いしておいた。だから、どこの地点においても、歓迎ムードであったが、18~20歳の若者たちには、まだまだ一宿一飯の恩義の、その重さの意味がよく分かっていなかった。あらためてお世話になった方たちに対して、47年も過ぎた今、ここで感謝の意を表しておきます。

 さて、ドッコそのものだが、記憶は確かではないものの、札幌の情報センターと言えば、なんとなくイメージが残っているものがある。いくつかのスペースを、いくつかの時代に訪れているので、混同しているか、まったく勘違いしているか、定かではなが、まずは叩き台として抜き書きしておいて、後で訂正でもしよう。

 そこは、大きな建物の二階にあり、ミニコミ書店と自然食レストランを兼ねたようなものであり、学生運動の流れの学生や、フォークソングを歌うグループや、主婦になりたての若い女性などが出入りするような店だった。

 特にその頃はウーマンズ・リベレーション(女性自由化運動)、いわゆるリブと言われた動きが多く報道されており、その影響化にある女性たちの職場でもあったように思う。私はこの店に佇みながら、最も一番最初に玄米菜食主義のマクロビオティックの情報に触れた。

 スタッフの女性たちもピキピキとしていて、なかなか魅力的な場所だった。しかしまた、宿泊スペースはなかったはずだから、おそらく、そこで知り合った学生などで、好意を持ってくれたアパートなどに、一夜の宿を借りたのだったと思う。

 私は札幌の「バイブレーション」というとても素敵なカラー謄写版刷りのミニコミを発行していた、ジプシーハウス、というところを探していた。だが、正確な住所を知らず、その後もほとんど確たる情報に触れることもなく過ぎ、私の中では幻の運動体となって、今では伝説化して残っている。

<19>につづく

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「翁」 鳥羽一郎 <1>

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「翁」  <1>
鳥羽一郎   発売 1994/08 日本クラウン 形式: CD  Single   
No.4261★ 

 

作詞:星野哲郎,作曲:北原じゅん

働く人が 大好きだから
働く者の 砦となって
我を投げすて 嵐を浴びる
無欲無限の その愛に
人は翁の 人は翁の 名を贈る

がまんの文字を 笑顔に隠し
よっしゃと腰を 上げるやいなや
粋な捌きも 電光石火
花の世直し 手だれ者
月も翁の 月も翁も 背に照る

そしりの中に 身を置くときも
言い訳無用 誠を通す
山に譬える 不動の決意
いつか解って くれりゃよい
それが翁の それが翁の 独り言 

 

 「翁(おきな)」をキーワードとして検索してみて、初めてこの演歌があることを知った。ふむふむ、なるほど、こういう歌詞か。私がイメージしていたのとはちょっと違うが、なかなかいい歌詞だな。

 働く人が 大好きだから
 働く者の 砦となって

 う~ん、「働く」がキーワードになっているが、たしかに翁と言え、隠遁してばかりはいられない。働く人たちの「砦」になるのだ。三番歌詞まであって、よくよく見ると、

人は翁の 人は翁の 名を贈る

月も翁の 月も翁も 背に照る

それが翁の それが翁の 独り言

とある。この部分がサビなんだな。翁は自称するものではなくて、贈られるものなのかもしれない。そして、月まで背なに照るのである。さらに、翁の独り言は「いつか解って くれりゃよい」であって、これでこの歌は終わるのである。

 なかなか良い歌詞ではあるが、いつも使っている言語体系とかなり違う。いざ覚えようとすると、何回聞いてもよく覚えられない。これは歌って覚えるしかないな、と思ったが、鼻歌交じりに歌えるような簡単な歌ではない。

 そこで、クルマを運転中にカラオケを鳴らして歌ってみることにした。クルマの中なら、奥さんの嫌味な顔も見えない。だが、これがなかなか歌えない。音域がまったく違うのだ。腹に力を込めて、全身で歌わないと声がでてこないのだ。

 さらには、怒鳴るように大きな声を張り上げないと、歌にならない。この歌をモノするのはなかなかに大変だ。これは練習をたくさん積まないと、「翁」にはなれないぞ。と繰り返し練習しているうちに、かなりむせってしまった。

 翌日、風邪でもひいたのか、喉が痛くなっていた。熱があるわけでもないし、他の諸症状がでているわけでもない。よくよく考えてみた。ああ、これはきのう「翁」を練習し過ぎたのだ。

 鼻歌では歌えない。練習しても歌えない。背筋を伸ばして、ゆっくり習得していくしかないな。まるで「能」の師匠に稽古をつけてもらっているような、感じになってきた。ゆっくりいくか。 

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<2>につづく

 

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2019/02/02

「オン・ザ・ロード1972」<17> 06/24 札幌

<16>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間ヒッチハイク日本一周
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
★★★★★

<17>1972/06/24 札幌

 この日、私は札幌にたどり着いた。北海道は広い、札幌まで戻るのも大変な道程であった。翌日25日は、私たち三人の初めてのドッキングの予定の日だった。大事なミーティングの日なので、私は前日の夜のうちに札幌入りしたのである。

 何とか札幌駅にたどりつけば、今夜の寝場所は確保できるだろう。そういう思いであった。私と同じような目的で駅にたどり着いたカニ族は多くいた。しかしである。そう甘くはなかった。この日の宿泊地は、札幌とはなっているが、札幌駅、とはなっていない。夜の12時になって、私たちは、駅から駅員によって締め出されたのだ。

 真夜中の街に追い出された私は、疲れた体を休める場所のアテがはずれ、トボトボ歩いていた。とその時、後ろから中肉中背の男性に声をかけられた。ひどいよな、こんな時間になって追い出すなんて。おい、君はどこか今夜泊まるところがあるの?

 いやないですよ、ちょっと寒いけど、その辺の公園ででも一休みしようか、と思っています。ああ、そうかい、そんなら、オレは近くの安宿の知っているところがあるからそこに泊まるけど、キミも一緒に来る?

 ええ・・?、それは有難い。だけど銭はないですよ。いいよ、オレが出してあげるよ。え~、いいんですかぁ~。私はその30くらいの男についていくことにした。途中まだ空いていた酒屋でビールを数本買った。そして、畳敷きの部屋のある旅館にたどり着いた。

 さぁ、ビールを飲む前に風呂にでも入るか、一緒に来る? ええ、それは有難い、風呂などまともに入っていない。ましてや安宿とは言え、ちゃんと布団のある旅館の風呂である。決して広くはないが、大き目の共同浴場で、10人位は入れる大きな浴槽があった。

 されど深夜ということでもあり、風呂で体を洗っているのは、私たち二人だけであった。彼はちょっとナルシスト的なところがあって、どうだ、オレの体、白くて綺麗だろう、と言った。ああ、そうですか、なんて私は気のない返事をした。

 彼は私の体を覗いてきた。汗臭いからちゃんと洗っておけよ、と、私の股間まで覗いている。まぁ、そうですねぇ、石鹸でゴシゴシしておいた。私はこれから何が起こるのか、まったく気づいていなかったのである。

 遅くなったので食事は出なかったが、持ち込んだビールを飲んで、さっそく並べて敷いてもらった布団に横になった。眠くなった私はすぐ寝入りそうになったが、男は、なにやらひとり言みたいにつぶやいている。

 オレはさ、旭川から来たんだけど、オレの一族はみんなヤクザなんだよ、みんな体に入れ墨を入れていて、オレにも入れろ、っていうんだ。ほら、オレの体、白いだろ、入れたら綺麗だろうな、って兄貴たちがいうんだ。

 そんな話を聞いていて、私は恐ろしくなってきた。ヤクザと聞いて、私はすぐに逃げ出したくなったが、すでにビールもちょっぴりごちそうになり、布団まで潜りこんでしまっているのだ。えい、このまま明日の朝までここにいて、朝になったら逃げてやろう。大きく構えていた。

 しばらくすると、男は、寒いな、と言い出した。え? 寒くはないだろう。確かに6月の北海道はまだまだ寒い。だけど、旅館の中で、ましてや風呂に入ったばかりだ。私は寒くなかった。しかし、その、寒いな、の台詞には、理由があったのだ。

 彼はちょっと寝返りを打って、足の角度を変え、私の布団の中に足を突っ込んできた。可笑しな奴だな。最初はそう思って、されるままにしておいた。親族はヤクザばかりだ、という彼の台詞がちょっと怖くもあった。私は直立不動のまま天井に顔を向けたまま、眠ったふりをしていた。

 すると男はだんだん大胆になり、私の股間に手をやって、こすりだした。はぁ、何するんだぁ、この男、と思ったが、彼の手つきは慣れたものだった。やがて、彼は天井を向いて天狗になっているものに顔を寄せて、吸い出した。

 この時になって、彼が風呂場で私の股間を覗き込んで、綺麗にしておけよ、とつぶやいた意味が分かった。

 世にその趣味の人がいることはいるらしい、というのは聞いたことがあった。しかし現実にそのような人とで出会ったのは初めてだ。聞き及ぶところによれば、彼らの世界には、オタチとオネエ、という役割があるらしい。彼はどうやらオネエだった。

 彼は、暴発した液体を綺麗に自分の口で吸い取ると、満足したように、自分の布団に戻り、私より前に寝息を立てて寝入ってしまった。

 朝になって、旅館が出してくれた朝ごはんを、二人で夕べ何事もなかったように食べた。そして、彼は、僕は午前中仕事があるけれど、お昼、あそこの地下においしいレストランがあるから一緒にたべようね、とメモをくれた。

 私はおとなしく、はい、などと言って、食事の後、旅館を出た。別れた後は、サッサと逃げた。翌日が私たちのドッキングの日で本当に良かった。助かった。

 思うに彼は、おそらく毎晩のように札幌駅に出かけるのだ。そして、12時になれば無銭旅行者たちが締め出されることを知っているのだ。彼が駅に泊まろうなんて、最初からしていないのだ。そんな奴が、他人の宿賃まで出すワケがない。彼は最初からその狙いなのだ。

 そして、時間前に適当に品定めをしておいて、おもむろに、お好みの餌食に声をかけ続けているのだ。哲学者のヴィトゲンシュタインなども、その道の人であったらしいが、時に、強烈な激情に駆られて街に繰り出していくこともあったようだ。

 世にLGBTの性差別の話題が飛び出す現代である。私は積極的にその話題に首を突っ込む気はないが、あまり偏向した意見をここに書いておくのも、何かと差しさわりがある。意見はともかくとして、事実をそれらしくメモしておけば、ここでの務めは、これはこれで終了していいだろう。

<18>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<15> 06/22 稚内駅

<14>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間ヒッチハイク日本一周
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
★★★★★

<15>1972/06/22 稚内駅

 この日、私は稚内駅に泊まったことになっている。当時のメモにそう残っているのだから、間違いはないだろう。しかし、その記憶はまったくない。ここが稚内、という記憶はないが、こここそが宗谷岬の稚内、だった。

 記憶のどこかに、確かにこの岬を訪ねた記憶がある。押し入れをひっくり返せば、ここで撮影した写真の一枚も出てくるかもしれない。そのうち出て来たら、ここに貼り付けることにする。

 稚内の宗谷岬というと、私の頭の片隅に女性の姿がチラホラ浮かびつつ消える。どうも雰囲気がそんなムードだったのか、当時、現地でどこかの旅人と友達になって一言二言、言葉を交わしたのか、あるいは友達となって半日くらいは旅を共にしたのだったかもしれない。

 駅の雰囲気はよく覚えていない。この80日間のヒッチハイクの旅の中で、私は7~8回、駅に泊まったようだ。稚内駅、札幌駅、青森駅、富山駅、福岡駅、奈良駅、飛騨高山駅、小諸駅、清水駅(静岡)、日立駅(茨城)などなど、各地で鉄道駅にお世話になっているが、ほとんど、そのひとつひとつに記憶がない。

 それはおそらく私が乗り鉄でも、撮り鉄でもなかったからだろう。駅に泊まると言っても、鉄道で移動して駅に泊まるわけではない。ヒッチハイクで、泊まる場所を見つけられない日は、街の中央に行って駅のベンチや床に横になるのである。

 当時、どこの駅でも夜の7~8時になると、リュックサックを背負った学生風の若者たちが集まってきて、それぞれに場所取りをして泊まり込んでいた。彼らは無銭旅行者と言われ、もちろん銭が全くないわけではないが、リーズナブルな旅をしようとすると、駅の待合室で一晩過ごすことも多かった。

 当時は治安も悪くなかった。ちいさないざこざはあっただろうが、日本人性善説がまかり通っているような時代で、極端に悪い人は少なかった。無銭旅行者たちは、両側にポケットのついた横幅の広いリュックを背負っていた。だから、駅などの雑踏を歩くときは、邪魔になるので、体を横にして人込みを通り抜けた。背中に甲羅を乗せて、体を横にして歩く姿が蟹に似ているので、カニ(蟹)族などと呼ばれたりもした。

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 私は叔父貴から借りた一眼レフカメラをリュックに入れて旅を続けていたが、当時のフィルムは結構な値段だった。今のデジカメやスマホのように、パチパチ何でも撮れるような時代ではなかった。貴重品だったので、あまり写真は残っていない。それでも、アリバイを証明するかのように、要所要所では画像を残している。

 少なくとも、私は鉄道駅には大変お世話になったが、乗り鉄でも、撮り鉄でもなかった。

<16>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<14>06/21 網走(消防士宅)

<13>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」80日間ヒッチハイク日本一周
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<14>1972 06/21 網走(消防士宅)

 私が青春時代にヒッチハイクをしていたのは1970年の16才の時から、1975年の21才までの約5年間の間に限られている。その間、いろいろな人に拾ってもらったものである。セールスマンや町の商店主などは限りなく、元力士や米兵、謡の女教師や、竿竹屋さん、自衛隊員や、漁師のおじいさん、などなど限りない。

 その中でも、パトカーに二回ヒッチハイクしたことがある。いや護送されたわけではない。ゆっくりパトロール中のおまわりさんなどは、結構面白がって乗せてくれたりするのである。カンカンカンとカネを鳴らしながら疾走してくる消防車に、親指を立ててヒッチハイクしようとしたことがある。が、これは失敗した。「こらぁ、ドケろ~」と怒鳴られた。当然だ。

 明示的に消防士に拾ってもらったという記憶はないが、このメモを見る限り、この日私は網走に向かってヒッチを続け、ついに網走に到着したのである。

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 網走と言えば、高倉健さんの映画などで一大ブームになっていた。ひとつのポイントとして、網走番外地である網走刑務所にだけは到達したいものだと思っていた。こうして当時の写真を見ると、決してその門には柵がついているわけではなく、ここから中に足を踏み入れようとすればできたのだろうが、それはしなかった。

 ちょっと悪ぶってサングラスをかけてみたものの、それほど長時間留まっていたとは思えない。当時自撮り棒などはなかったので、近くにいた誰かにシャッターを押してもらっているのだが、誰に押してもらったのか記憶はない。

 おそらく、これはその消防士の方が押してくれたのだろう。途中の国道のどこかで拾ってくれた消防士が、どこに行くのかと尋ねてきたので、網走刑務所に行きたい、と言った私を、親切にここまで運んでくれたのだ。

 その夜は彼の家に泊めてくれた。当時18歳だった私にとって、この人はだいぶ大人に思えたが、おそらく当時でまだ22~3歳の若者だっただろう。非番で私服だった。そして一人暮らしだったように思う。遠来の客人を面白がって丁寧に扱ってくれた記憶がある。

 そもそも北海道は、日本全国でも一番ヒッチハイクがしやすいところである。あった、と言い直すべきか。すでに50年近くの昔の話である。北海道の人々のルーツは内地から移住してきた人たちが多く、開放的で、親切だった。ちなみに、私の個人的な意見であるが、当時で一番ヒッチハイクのしにくいところは京都であった。

 京都の人々は、割と好奇心が強くて、ゴタゴタなどがあるとサッと寄ってくるが、何か頼み事をしようとすると、サッサといなくなった。当時の私には、京都人も、学生も観光客も見分けがつかないところがあったが、とにかく京都でのヒッチハイクは苦労した。

 ヒッチハイクで京都に近づくことも、街から出ることも至難の技だった。京都周辺では、どうせならサッサと最短距離を電車ででて、郊外に行ってからヒッチを始めるべきである。

 最北の地、北海道、その最果ては網走だろう、という勝手な思いがあった。網走は結構な町で、もっともっと最果てがあることは、後で知った。それでも、やはり網走という地名は、あまりにも有名である。当時の私は、ここが日本最北というエレジーを充分に味わった。

<15>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<13>06/20 トラックの中(札幌→旭川)

<12>からつづく 

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「オン・ザ・ロード1972」80日間ヒッチハイク日本一周
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<13>1972 06/20 トラックの中(札幌→旭川)

 18歳のヒッチハイクの旅、仙台を出発して、
3日目にはすでに北海道に到達していた。当時、モータリゼーションの普及が目覚ましく、特に物流では大型貨物トラックの大活躍が目立っていた。

 北海道に渡るのも青函連絡船で渡ることになる。こんな時ヒッチハイカーは青森側でトラックにヒッチハイクするのである。当時、トラック輸送は二人組の運転が定番となっていた。交代しながら運転し、座席の後ろは、仮眠用のベットがついていて、ゆったりと横になって眠ることができるのだ。

 そして都合のよいことに10トントラックなどは、トラックをフェリーに載せてしまえば、もちろんトラックそのものの料金は取られるのだが、人間は運転手とサブの運転手二人分の乗船賃がタダになる。若い貧しいヒッチハイカーは、こういうトラックを狙うのだ。

 そして、二人乗務が定番とは言え、一人で長距離トラックを運転している運ちゃんたちも多くいた。彼らは、一人で長時間運転しているので、むしろ喜んでヒマつぶしにヒッチハイカーを拾ってくれた。私はタダで北海道に渡ったのである。

 この日の日程を見ると、函館からずっと同じトラックに乗っていたのだかどうか定かではないが、この日の運転手のことは、かなり強いイメージとして記憶に残っている。

 この運転手はかなり体が小柄だった。175センチの私に比較したら、かなり小さかった。おそらく150センチ、いやもっと小さかったかもしれない。10何トンという大型長距離運転手としてはかなり短身だ。なんせ運転席には、何枚もの座布団が厚く折り重ねられ、その上に小さな体を乗せて、ようやく運転台から顔が見えるような角度であった。

 しかし、運転そのものには自信があると見えて、かなり強気な発言も目立った。運転しているので、助手席に乗せてもらっているこちらに目を向けるわけではないが、ちょっと目がランランとしているような気配を感じた。

 そして、「オレはもう一週間も寝ていないんだよ」とつぶやいた。え、それは無理だろう。おそらくまだ30前後であっただろうその運転手は、あの高度成長突入の日本経済の中で、必死に運転しまくっていたのだ。

 突然、ガタと、前の左タイヤが道路の路肩にぶつかった。うわっ、と驚いてしまった。彼はちょっと居眠りをしたのだ。大型トラックなので、それほどビクつきはしなかったが、北海道の道路はまっすぐ長く単調ではある。寝不足ではなくても、確かに誰でも眠くはなるのだ。

 それにしても、この運転手、どのようにして一週間も連続して運転できているのだろう。その秘密は、やがて分かった。運転手は国道脇にあるドライブインに停車した。この当時、運転手たちの羽振りは良かった。普通の人の倍以上の収入があったはず。この運転手ならさらに高収入だっただろう。

 彼らは気前よく、貧乏なヒッチハイカーに食事をおごった。この時もすっかり彼の善意にすがったのだが、食事が終わって再出発しようとする時、彼はドライブインのマスターとコソコシ話をしていた。そして、裏に回って、湯飲み茶わんを一個借りたのだ。

 その茶わんをどうするのかな、と見ていると、彼はその湯飲みを逆さにして、裏の足の部分のへこんだところに、何やら白い粉を入れて、水で溶いた。そしてそこに確か注射針かなにかを入れて吸い取ったのだ。

 その風景をマスターは決して喜んでみていたわけではない。いやぁそれはなぁ、という風で、仕方なく場所を貸している、という感じだった。それでも、その雰囲気はいつもの常連さんだから、仕方ないか、というような慣れた感じであった。

 確たるものではないが、あれはいわゆる覚醒剤という奴だろう。戦争中、工場などで働かされた若者たちは、ヒロポンという薬を渡されて、昼夜連続で働き続けたという話を聞いたことがある。ゼロ戦で敵艦に向かっていく特攻隊員たちも、この薬を配られたとも聞いた。

 ちなみに、ヒロポンのヒロとは、ギリシャ語の、愛する、という意味だそうだ。フィロソフィーとは日本語に哲学と翻訳されているが、そのフィロのことである。ソフィーは智慧だ。つまり智慧を愛する、そう、それが哲学なのである。

 ポンとはギリシャ語で労働を意味するらしい。だから、ヒロ・ポンとは、労働を愛する、というネーミングになる。このクスリ、頭がスカッとしてかなり仕事も一時的にはかどるらしいが、依存性が強く、すぐに体がガタガタになる。

 あの運転手は、自分で「オレは若い時からこの薬を使っているんだよ。だから眠らなくても運転し続けることができるし、疲れない。だが、その代わり、体が成長しなかった。」と言った。そうか、この運転手の秘密が理解できた。

 私は、覚醒剤でギンギンにキメて運転している運ちゃんに、旅のハンドルさばきを任せて、後ろの豪華な仮眠用ベットで熟睡したのだった。

<14>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<12>06/19 百石高校

<11>からつづく 

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「オン・ザ・ロード1972」80日間ヒッチハイク日本一周
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<12>1972 06/19 百石高校

 百石高校と言えば青森県である。もちろん、この日、正式にこの学校に泊めてもらったわけではない。この日のヒッチハイクは県をまたいで、宮城県・岩手県・そして青森県に入った。だが、夕方になってもどこかに泊まる算段はできなかった。

 私は、トボトボ歩いて、近くの学校の敷地を見つけ、静かに入り込んだ。ちょうどよい具合に、広い校庭にある朝礼台を見つけたのだ。それは何かの儀式などがある時に、校長先生などがお話しをするために備えられているものだ。鉄骨で作られた頑丈なものだった。

 うまい具合に上は屋根のになっていて、地面の上はちょうど小屋のような形になっていた。夕闇にまぐれて、ここを私の二日目の宿と決めた。ヒッチハイクで歩き疲れた体には、とにかく横になれる場所があれば、それでよかった。シュラフに入って眠りについてしまえば、あとはすぐに夢の世界だった。

 さてさて、ここからは私の記憶が確かではないのだが、さりとてこの学校以外の思い出とは思えないので、記しておくが、次の日の朝、おそらく6時ごろだっただろう。周囲の校庭が騒々しいことに気がつき、目が覚めた。驚いたことに朝礼台の周りには、たくさんの人たちが群がっていた。

 周囲ばかりではなく、朝礼台の上にさえ人の気配があった。最初何が起こったのか気が付かなかったが、それは朝のラジオ体操だということがだんだんわかってきた。ほんの10分か20分、その人の群れは、やがて静かになって、散っていった。

 不思議なことに、誰も私に不審げに目をくれる生徒も先生もいなかった。私がうまく息を殺して隠れることに成功していたからだろうか。それとも、みんな哀れな若い旅人を大目に見てくれたのだろうか。

 私はヒッチハイク生活で、駅にも泊まったし、屋根つきバス停にも泊まった。大きな土管のようなヒューム管を一夜の宿させてもらったこともあったが、学校の朝礼台の下に潜り込んで泊まったのはこの時だけである。

 当時はセキュリティも甘かった。何処の学校も、校庭くらいに忍び込むのは別段に不審がられるような時代でもなかったのである。

<13>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<11> 06/18 気仙沼の魚やさん

<10>からつづく

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「オン・ザ・ロード1972」 80日間ヒッチハイク日本一周
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<11> 1972 06/18 気仙沼の魚やさん

 その日は、私たちの80日間ヒッチハイク日本一周の初日であった。リュックの詰め方も、手元の持ち物も、とにかくすべてが不慣れだった。初日からして手に持っていた地図はなくすし、途中で寒気覚ましになるかなと持参したウィスキーの小瓶を割ってしまうなど、散々な出来事が続いた。

 それでも仙台を出発してから太平洋岸を北上し、何台かのクルマに乗せられて、ヒッチハイク初日は気仙沼まで来た。最後に乗せてくれたのは、気仙沼の魚屋のオジサンだった。オジサンと言っても、当時おそらく40歳前後であっただろう。お店を持って魚を販売していたのではなく、行商とか仲卸の方だったに違いない。

 彼はもの珍しいヒッチハイクの若者に興味津々ではあったが、なかなかこちらを怪しむ振る舞いは緩まなかった。今晩うちに泊まっていけ、と勧めてくれたので、こちらとしてはありがたく泊めてもらった。だが、オジサンは、私のリュックはクルマの中に置いておけ、と車内に閉じ込めたまま鍵をかけた。

 こうして荷物を保管してしまえば、変なことをしたり、悪事を働いて途中でいなくなったりはしないだろう、という彼なりの読みだったのだろう。もとよりこちらは悪知恵などまったくないヒッチハイクの超ビギナーである。オジサンに言われるままにして、風呂にも入れてもらい、ご飯もごちそうになり、大変ありがたい旅のスタートを切った。

 朝、ちょっと早目に目を覚ましたと思ったが、オジサンの家族はすでに起きていて、朝食前に、散歩がてらに市場でも見てきたら、と勧められた。そこから歩いて数分のところに魚市場はあった。叔父さんの家は小さな一軒家の平屋だった。

 あのオジサン、今回の津波で大丈夫だっただろうか。ご存命であれば、すでに85才か90才ほどの年配だろう。一宿一飯の恩義を感じつつ、自分は、住所をお聞きしてお礼状を書くほどの余裕のない、無礼な若者でしかなかった。今でもご健在であるなら、これからもますますご健勝であられますように、お祈りいたします。

<12>につづく

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「オン・ザ・ロード1972」<16>6/23 利尻島

<15>からつづく 

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「オン・ザ・ロード1972」80日間ヒッチハイク日本一周
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<16>1972/06/23 利尻島

 利尻・礼文島についてはほとんど何の知識もなかった。旅の途中で、一緒になった学生が利尻富士に登るというので、旅は道連れ、と合流したのだ。学生は多少の登山の知識があり、何合目かには山小屋があるから、そこを目指すという。

 利尻・礼文と言えば、礼文のほうが平らかで穏やかで、花に囲まれていて観光に向いているようだった。両島渡れればよかったのだろうが、日程的には利尻だけが滞在可能だった。

 その登山途中は朦朧としているが、山小屋のある筈の何号目かに登る頃にはかなり日が陰り始めていた。そして風向きもあやしくなり、小雨も降り始めていた。なに、この程度の天候ならば、山小屋にたどり着けば、なんでもないだろう、そう思って二人で登り急いだ。

 ところが、到着してみれば、すでに山小屋は、風の影響か、雪の重みでか、ペッシャンコにつぶれてしまっていた。あっけにとられた私たちではあったが、幸い連れの学生は、小さなビバーク用のテントを持っていた。まだ寒き初春の北海道の離れ島の山中で、私たちは嵐に遭遇してしまったのだ。

 私は、陸路のヒッチハイカーだから、登山用具など何一つ持ってはいない。寝袋は持ってはいたが、着替えだって充分には持っていなかった。この時、一人であの山小屋をめざしていたのならば、あの山で私は遭難して、短き人生で終わっていたかもしれない。そう思うと、後年、我ながら、何度もゾッとしたことがある。

 今でもあるのかもしれないが本島と利尻は連絡船でつながっていた。大きなフェリーだった。港を離れる時は、テープのセレモニーがあり、幾組も分かれの家族や友人たちがいて、センチメンタルな気分になったものだった。

 あの時の学生は、それこそ一期一会で、住所さえ交換しなかった。名前どころか、なんという大学の学生だったのか、どこの住まいだったのかさえ、分からない。あの時のことを、彼が今でも覚えているかどうかさえ分からない。きっと、どこかで今でも生きているんだろうな、と思うと不思議な気分になる。

<17>につづく

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「Rogue One: a Star Wars Story」 ギャレス・エドワーズ監督

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「Rogue One: a Star Wars Story」
ギャレス・エドワーズ監督 発売日 2017/04 販売元: Walt Disney Video  DVD ディスク枚数: 1
No.4260★★☆☆☆

 男子サッカーアジアカップ日本チームの放送の裏番組は、スターウォーズ「ローグ・ワン」の放送だった。どちらを録画してどちらをLIVEで見るかちょっと迷ったが、それは当然サッカーをLIVEで見るのが、当然でしょう。だからこちらはビデオになった。

 サッカーの試合の結果は見事な敗北で、期待以下の面白くない結果だった。その勢いで見たからか、こちらの映画もなぁ・・・・、私は結局、スターウォーズ・ファンとはとてもいいがたいようである。

 スターウィーズのファンは多い。ヘタに悪口や陰口をいうと、どこで誰に刺されるかわかったものではない。口は慎むべきである。だから、大ぴらには批判をしないことにした(爆笑)。

 しかしながら、自分のためには、多少は感想を書いておかなければならない。少なくとも、SFが嫌いな人も、まだスターウォーズを見たことない人も、ぜひこの作品だけは見てほしい、というほどの作品なのだろうか。地上波初の放送だ、ということがそれほどの売りなのだろうか。

 全編ノーカット版といいつつ、あれだけぶつ切りにされて、てんこ盛りのCMを突っ込まれた日には、映画を楽しんでいるのか、毒々しいCM群に洗脳されているのか、わかったものではない。

 私は録画を再生して、CMを飛ばしつつ見てみたが、それでもやっぱり、面倒だ。本当に見るなら、映画館で見るなり、DVDで見るべきだろう。

 それとやっぱり、私は、あのバトルが大嫌い。ハリウッド映画は、クラッシュやデザスターや、あのバトルが売りなのだろうが、だからこそ、私はこの手の映画のターゲットからは外れているようだ。

 ああ、また悪口言ってしまった。これで、また若い友人たちの何人かを失ってしまうかもなぁ・・・・・(笑)

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2019/02/01

「世阿弥 風姿花伝」 NHK「100分de名著」ブックス 土屋惠一郎 <2>

<1>からつづく

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「世阿弥 風姿花伝」 NHK「100分de名著」ブックス <2>
土屋 惠一郎 (著) 2015/02 NHK出版 単行本(ソフトカバー): 152ページ
No.4259★★★★★

 
NHK「100分de名著」はなかなかよい番組だ。自分が興味あるテーマならかなり面白い。だが、興味ないタイトルだと、まるで見るチャンスを失ってしまう。この番組もそうだ。今になってようやく興味が湧いてきた、というところ。

 ただ、このテキストは番組とはダイレクトにはつながっていないようだ。その番組は、これから見るところだが、このテキストだけ読んだだけだけど、なかなかわかりやすく、なんだ、難しくないじゃん、面白い~、となった。

 人生7段階節とか、序破急とか、まぁまぁ、別段珍しくもないが、キチンとこちらの枠内に入れ込めば、とてもなじみやすい世界なのだ、とわかった。人生にの7つのステージ節などは、いわゆる7年サイクル節とほとんど同義だ。

 あるいは、
能が摺り足芸術なのは仮面劇だから、などと今更ながら目からウロコの解など、なるほどね~。あるいは、世阿弥はキチンとマーケットを意識していたなど、世阿弥も結構ゾルバ・ザ・ブッダ、しておりますね。

 とにかく、この本一冊で、能楽は、グッと身近なものになった。

 

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