「オン・ザ・ロード1972」<89>09/04 仙台に戻る
「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次 全日程
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<89>1972/09/04 仙台に戻る
戻る予定日はこの日だったが、れおんと悪次郎はその翌日戻ってきた。流峰と私は、予定どおりこの日に戻ることができた。しかし、当時は部屋のアパートの鍵なんて、ほとんど合い鍵を作っていなかったので、流峰より早く帰ってきてしまった私は、鍵がないので、部屋に入れなかった。
なんとか考えているうちに、トイレの窓の鍵が空いていることに気づいた。そこで私は踏み台を探してきて、トイレの窓から、我が共同生活体に戻ってきたのである。やれやれ。
この80日間、このアパートは空き家であるはずだった。しかし、生活の痕跡がある。そもそも、トイレの窓の鍵はキチンと締めていったはずではないか。
実は、流峰のさらなる二年学年上の先輩が、実は、その友人にこの部屋を貸してあげていたのである。別段空き家にしておくより有効活用してもらえばそれに越したことはなかったわけだが、事前にそんなことを聞いていなかったので、私はビックリするやらポカンとするやら、とにかく驚いた。
その後、その女性は私たちの生活体の仲間の一人になって、コバルトちゃん、という名前が付けられた。付けたのは私だった。実は彼女、鉄腕アトムの兄ちゃんコバルトに似ていたから、そう付けたのである。後に彼女は、青柳優子として、朝鮮文学者についての著書などをモノすことになる。もちろんずっとすっと後年の21世紀になってからのことである。
こうして私たちの旅は一周して、完結した。
私は、あの長崎の虹のブランコ族の雨戸に書いてあった大きな「LOVE」の文字を、私たちのアパートに、通りから見えるように大きく書いた。そののち、「週刊雀の森」というガリ版新聞が毎週発行され、結局108号を数えた。
この旅を特集する形で、私のミニコミ「すくりぶる」と、流峰のミニコミ「ムルソー」を統合する形で、「時空間」が創刊された。
コンサートを中心とした「雀の森の音楽会」、互いの啓発を目的としたエンカウンター的な「雀の森の塾」、自由想画法を中心とした絵を展示する「雀の森の展示会」などが、連続企画された。
翌年春には、後に劇作家・石川裕人となるニュートンも住人として参加し、自らの劇団を模索し始めた。
この後の経緯については、「雀の森の物語」が継続してくれるだろう。
『湧き出ずるロータス・スートラ 』 私の見た日本とOSHOの出会い 1992/06 「TSUKUYOMI」 も役立つはずである。
現在までのつながりは、『地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版』 意識をめぐる読書ブログの軌跡 2011/10~継続中 を見て欲しい。
LOVE
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