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2019/02/28

「オン・ザ・ロード1972」<85>08/31 横尾忠則アトリエ訪問

<84>からつづく

Jkk1
「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<85>1972/08/31 横尾忠則アトリエ訪問

 東京にたどりついてすでに一週間も経過すると、だいぶ体の疲れも取れ、東京の都会ぐらしにも慣れてきた。私は思い切って、横尾忠則氏を訪ねることにした。いや別にアポを取っていたわけでもなく、住所すらよく分かってはいなかった。

 だが、仙台を出発する前に、グラビア雑誌の見開きページで彼の特集を組んでいて、白黒ではあったが、彼のアトリエの写真が大きく掲載されていたのである(このグラビア誌、そのうち探して、ここに貼り付けようと思っている)。

 平屋の天井の高い洋風の住まいで、庭が広く、大きな木が茂っていた。ガラス張りのアトリエに、彼は自分の作品やら、デザインの参考となるような写真をたくさん並べて、作業をしているような風景だった。

 その記事の特集には、近所のおばちゃんのインタビューなども登場していて、何かと類推できるような内容だった。土地勘のない私ではあったが、あてずっぽうにそれらしき建物を探しているうちに、本当に、あのグラビア誌で見た建物に出会ってしまったのである。

 実に驚きだった。庭と言ってもほとんど垣根もなく、小学校の花壇の柵程度のものがある程度だった。入ろうと思えば誰でも入れた。ここまで来て、私は建物を見るだけで引き返すわけにはいかない。怒られることを覚悟で、すでに長旅でド根性がでてきていた私はつかつかと大きな庭に入っていった

 入口は建物のちょうど中間にあり、透明ガラスでできていた。その屋根の壁には大きな警報器がついていた。いくらセキュリティが甘い時代とは言え、彼のような有名人はさすがに危険なこともあるだろう。そのベルの大きさに驚きながら、玄関に立つと、ビックリすることに、そのドアは開いていたのである。

 いや、正確に言えば、もうその家は引っ越した後の空き家だったのである。荷物らしきものはほとんどなかった。だが、あのグラビア誌にでていたあの部屋は確かにここだった。表札などはもう出ていなかったが、そこが間違いなく横尾忠則氏のアトリエであったはずなのは、すぐに分かった。

 なぜなら、このようにしてこの建物に侵入したのは、決して私が一人目ではなかったのである。おそらく私のようなファンが、毎日毎日訪れては名所となっていたのだろう。壁という壁、柱という柱には落書きがしてあった。まるで観光名所である。

 あるいは、彼もまた、すぐに引っ越すことを前提に写真を撮らせ、住所もなんとなくわかるような表現を許していたのだろう。その落書きの中にとても印象的な一文があった。

 「横尾ちゃん、だーいすき」。うん、確かに私の気分もその通りだった。とても印象深いフレーズだった。

 後年、1977年になって、インドで出会ったシャンタンは、映画監督を経験しており、映画「横尾ちゃん、だーいすき」を制作していたのである。そのフレーズは、シャンタンの台詞だったのだ。深い縁を感ずる。

 もし、あの時、18才の私が横尾氏と巡り合っていれば、そこからまた別な人生が展開したかもな、なんて思わないわけではない。不在だったからこそ、また別な意味を持ち始めたのだ。

 1990年代になって、横尾氏は仙台で自らの画集の販売とサイン会があった時、私は彼に握手をしてもらい、若い時代にあなたのアトリエに無断に入ってしまいました、ごめんなさい、と謝っておいた。(笑) もちろん、彼は笑って許してくれた。

<86>につづく

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