「オン・ザ・ロード1972」<71>08/17 飛騨高山駅
「オン・ザ・ロード1972」80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次 全日程
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<71>1972/08/17 飛騨高山駅
1970年に創刊された若い女性向けの雑誌『an・an(アンアン)』と、1971年創刊の『non-no』(ノンノ)は、多数のカラー写真による旅行特集を掲載した。美しい写真や記事に刺激され、これらのファッション雑誌を片手に持った多数の若い女性が特定の観光地に押しかけたので、アンノン族と命名された。Wikipedia
1972年のこの年は、いわゆるアンノン族の走りの年でもあった。広島で会った(仮称)小百合ちゃんもその一人だっただろうし、 ある意味、私なぞも、男性版アンノン族と振り分けられたかもしれない。別名カニ族などというのもあったが、いわゆるアンノン族は、私のようには野宿や駅に泊まったりはしなかっただろう。
ある意味、白洲正子のような人は、60年代から一人旅を始めていたのであり、私なんぞは勝手に彼女を元祖アンノン族と揶揄している。女性進出の時代、一人旅の女性なんて考えられない時代から、一人旅もなかなか素敵だね、という時代になった。少なくとも、団体旅行でバスで回るなんて窮屈な旅を女性が嫌い始めたのだ。
この飛騨高山は、豪雪地帯の茅葺屋根という意味では、鳥取の私都村などと共通していたが、すでに観光地として、立派に自立した地帯だった。見事な合掌造りの農家が並び、なるほど、これは一見にしかずという眺めである。
この地方をあの女性週刊誌アンアンやノンノが見逃すはずはなく、すでにアンノン族が多数闊歩するスポットとなっていた。声をかけようと思えば、いくらでも、笑顔で答えてくれそうな短大生などがいそうだった。
しかし、たまたま私が声をかけたのか、相手から声をかけてくれたのか、私知り合いになった女性は、もっと年上で、自称看護婦というふれこみであったと思う。二言三言話した後に、彼女が私に依頼したのは、一通の紙切れを寄こして、ここにダイヤルしてほしい、とのことだった。
つまり、この当時、携帯やスマホなどというものはなかった。ひたすら、外部から電話する時は、赤電話で十円玉を入れて掛けるものだし、受ける方も大体は一家に一台しかない黒電話で受けるしかない。
受け取るのも、頑固おやじや、耄碌した年寄りだったりして、全然容量を得ないことも多かった。彼女は、ボーイフレンドのひとりと連絡を取りたがっていた。そして、彼氏の家に、いきなり女性が電話したら、断られる可能性が大きいと踏んでいたらしい。
そこで、まずは男性の私に電話をかけさせて、うまいこと、目的のボーイフレンドが出たら、そこからは私が代わるわ、ということであった。まぁ、うまいこと私はこのちょっと年増のアンノン族に、メッセンジャーボーイにされてしまったわけである。
上には上がいる。(笑)
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