「オン・ザ・ロード1972」<54>07/31 伊礼優氏宅(沖縄)(3)
「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次 全日程
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<54>1972/07/31 伊礼優氏宅(沖縄)(3)
日本列島をとにかく北海道から九州まで、半周したことになって、確かに日本は広いなぁ、と実感していたものの、そこは日本語が通じ、同じような風景の連想できるひとかたまりとしての日本だった。
しかし、沖縄は違った。そこは半分外国だった。まず驚いたのは、道路が右側通行であったこと。つまり、私たちヒッチハイカーは、街道の傍らに立ち、左手を上げて、親指を立てるのである。それがヒッチハイクのサインだ。これはもう、野球のバッターが、バッティングの位置に着くようなもので、もう習い性になっている。
ところが、沖縄は逆方法なので、右手を上げて、親指を立てるのである。これは最初はとても戸惑った。そして面白くもあった。だんだん慣れてくると、現地の人達もゆっくりと待ってくれた。
驚いたのは、米兵の白人も止まってくれたことだ。大きなクルマで、前席がベンチシートで3人掛けになっていた。私は真ん中に坐り、れおんは窓際に坐った。間に挟まった私は、米兵の英語が全く理解できなかった。親切な米兵はいろいろ質問してきたが、私は片言の自己紹介しかできなかった。
しかし、その後、英語の同時通訳者となるれおんは、実に快活に英語の応対をしてくれた。米兵は実に愉快そうに大笑いした。そして、クルマを降りる時、「YOur English very Well!」とほめていた。この部分だけは私にも分かった。
私たちが米兵のクルマから降りたのは、基地ゲートの真ん前だった。私は正直、基地の中まで案内してくれるかな、と期待はしたのだが、それは無理だった。
沖縄。当時、今の那覇はコザと言った。そして、横文字のお店がたくさんあった。私たちも、物珍しそうにその町の中に潜り込んだ。驚いたのは、当然のことだが、米兵たちがたくさんいたことだ。そして、米兵というと、どうも白人だけのイメージだったが、いや、黒人もたくさんいた。
彼らの存在というより、あの身長の高さには驚いた。私も高校時代はバスケット部に属していたので、長身の連中とは結構つきあっていたのだが、それよりはるかに長身の、おそらく2メートルはあるだろうと思われるような黒人たちが、それこそあちこちの街角から、のっそのっそと現れては、街の中に消えていった。
首里城も「観光」した。「ヤマトンチュー、クルスンドー」の落書きがあった。日本人め、殺してやる、との意味だっだそうだ。
この当時喜納昌吉の「ハイサイおじさん」は大ヒットしていたようだが、記憶にはない。ずっと後で知ったことだが、私たちが訪れたこの時期、彼は法的に拘束されていたのだった。
沖縄なら、泡盛でしょう、と、18歳の私と19歳のれおん、二人して、泡盛をひと瓶買ってきて飲んだことがある。何を隠そう、未成年の飲酒は禁止である。それは知っていたが、とにかく体験、と飲んでみた。ここでは正直書いておこう。れおんはどうだったか忘れたが、私にはとにかく、おいしいとは思えなかった。ふむー、こういう酒というものがあるのか~、と、まずは社会体験を試みたのであった。
もちろん、大人になってからの私は泡盛は大好きになった。、そして、もうすでに5年前に還暦を迎えた私は、最近はちょっと酒量が落ちているので、最近は、もっとソフトな飲み物に戻っている。
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