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2019/02/17

「オン・ザ・ロード1972」<53>07/30 伊礼優氏宅(沖縄)(2)

<52>からつづく

Jkk1
「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<53>1972/07/30 伊礼優氏宅(沖縄)(2)

 その人は私と同じ学年の、沖縄の高校生だという。彼は私のことを地元の新聞記事で知ったらしい。そして新聞社に私の連絡先を聞いて、沖縄からかはるばる東北の地まで手紙をくれたのであった。

 手紙をもらった私のほうはビックリ。どうして沖縄の新聞に私のことが載ったのだろう。さっそくその記事を送ってもらうことにした。すると、たしかに私と私のミニコミについての記事だが、そんなはるばる沖縄の新聞社からの取材を受けたことはない。はてさて、どうしたことだろうか。私の疑念は深まった。

 その経緯が分かったのは、私たちが計画していた日本一周ヒッチハイクの旅の直前だった。私は彼にとにかく沖縄に旅することを伝え、その時は、宿の提供をお願いします、と伝えておいた。

 時あたかも、沖縄はこの1972年の5月15日に、本土に「復帰」した。それ以前は、オキナワは外国だったので、パスポートなしには渡れなかった。その二か月半後に、高校を卒業したばかりのバックパッカーが沖縄を訪れたのである。

Ut33              1972/07/30   撮影 れおん

 私は早速「沖縄タイムス」に「殴り込んだ」。すぐに担当者に案内されて、話を聞くことができた。そして、私の「抗議」の結果は、意外なものだった。

 その記事は「沖縄タイムス」の独自の記事ではないという。各地の地方新聞社が属している共同通信社の配信網の記事であり、その取材は共同通信社が行っている、という。だから個々の新聞社が責任をもつことはできないという。私としては想像もできない答えだった。

 とすると、今回は沖縄の伊礼優氏が手紙を書いてくれたからこそその掲載を知ることができたが、他の地方においては、私は実名のまま、作っているミニコミと共に写真付きの囲み記事で紹介されていたことになる。あっけに取られてしまった。

 その二年前の1970年4月の沖縄反戦デーの時、高校二年生の私は初めて政治デモというものに参加した。べ兵連の隊列に加わってシュプレヒコールを連呼したり、基地周辺をデモったり、反戦歌を公園で歌ったりした。しかし、沖縄や、政治について、人並み以上に詳しかった訳ではない。むしろ、知りたいな、と思って、その取材ソースに近づいていた、というべきだろう。

 そして、その2か月後の6月に私たちの高校の中でおきたバリケード封鎖事件を、学校新聞部としてカメラ取材していた私は、私服から誤認逮捕され、尾行まで付けられることになった。私はそれまで、自分の未来をジャーナリスト希望と考えていたが、この時の新聞報道が5紙が5紙とも誤認報道していたのを見て、ああ、ジャーナリストなど、一生の命をかけるべき職業ではないな、と直感した。

 いずれにせよ、私のこの時の沖縄訪問の動機はかなり偏ったものだった。自分の記事が解決すれば、まずはそれで一段落ついたことになる。だから沖縄滞在後、私は、直行で本土に戻り、九州からヒッチハイクを再開していた。

 ところが、一年学年上のれおんは、もっと視野が広かった。その証拠にせっかくきた沖縄からすぐ帰ることはせずに、当時の記録を見ると、宜野湾のひめゆりの塔を訪ね、石垣島に渡り、竹富島に渡り、もっと別な現地の人々と交流していたのだ。

 なにはともあれ、この貴重なタイミングで訪問した沖縄で、私たちは、もっと大きな忘れられない体験をしたのであった。

<54>につづく

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