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2019/02/14

「オン・ザ・ロード1972」<48>07/25伝習館救援会(柳川)(3)ドッキング

<47>からつづく

Jkk1
「オン・ザ・ロード1972」 80日間日本一周ヒッチハイクの旅
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次  全日程
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<48>1972/07/25伝習館救援会(柳川)(3)ドッキング

 この日は、私たち4人のドッキングの日だ。れおんは後から出発したのだから、4人が同時にドッキングするのは、この日が初めてだった。

 流峰は愛用の中古の125CCバイクで、街道を突っ走ってきた。そもそも彼はこの旅に出る前からバイクであちこち走り回っていた。実家のある東京と大学のある大学の間を移動する時は必ずこのバイクだった。

 あるいは小諸の友人や、静岡(だったと思うが)のミカン収穫アルバイトに行く時なども、このバイクを疾走していた。近くのラーメン屋アルバイト仲間の麻雀大会などにいく時も、このバイクにまたがっていくのであった。

 だから流峰にとっては、この旅は、自分のこれまでの活動の延長線で捉えることができたであろう。そもそもが、今回のこの旅の発案者であり、4人の仲間を集めたのも彼だし、全体のリーダー的立場だった。彼は当時20才。私より二学年上である。

 れおんは私より一才上で一学年上。高校卒業後、浪人生活を送っていたが、この時点では仙台から東京に居を移し、羽田空港で、機内食清掃などのアルバイト生活をしていた。進学の意志は残っていたものの、当時の状況から考えて、それらの社会体制からのドロップアウトを模索していたと思われる。

 彼は流峰のバイクに共鳴したのか、今回の旅に、原付バイクで参加することを希望した。50CCのバイクであり、しかも中古だ。決して快適な旅環境ではなかっただろう。現に、この旅が終わったあとには、このバイクは廃車となった。

 しかし当時のモータリゼーションとしては、原付で長旅をするというのは、決してマレではなく、例えば山形の菅原秀氏などは、山形から常にバイクで東京まで移動していたようである。

 悪次郎は私と同じヒッチハイク。私と同学年だが、高校卒業したばかりで、形としては浪人生活に入ったという形であった。進学の意志はあっただろうが、彼もまたドロップアウトの意志があった。

 彼は今回の旅に際し、私たちのグループ名「雀の森の住人達」の名づけ親だが、これから4年間つづくこの仲間たちからの活動からは、一番先に姿を消した。だからかどうか、私は彼の思い出が少ない。

 非合法政治活動なども積極的に評価し、時にギターを片手に唄を歌い、作曲もし、論理性もかなり高度なものを持っていたが、結局、地道な四畳半的な日常生活の突き詰めの実践などには、あまり重きを置いていなかった。

 私は、これまで書いてきたような風体であったから、まずはこの4人のこれまでの40日に及ぶ旅の収穫のシェアリングは、そうとうに楽しいものであった。この次の日、私は熊本の「虹のブランコ族」を訪ねることになるのだが、この時の情報交換で新な情報を得たことも影響していたことだろう。

<49>につづく

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