「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<28>
「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <28>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真) 2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ
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仏像彫刻を趣味とすることについて。
表題のようなテーマでなにか一文書くなんてことは、ごくごく最近まで思いもつかなかった。そもそも、いまだに仏像彫刻を趣味としているわけではない。ただそうなってしまう「危機」が迫っているかも、という非常事態を身に感じるのである。
そしてそれは、自ら望んだ、ということではなく、環境や出会いや運命が、どうもそちらのほうに向かっているのではないか、という妙な予感がするのである。それは嬉しさ反面、戸惑いや、避けたい気分も醸し出し、自分としてはまったく結論の出ない状態となっている。
その気分を吹っ切るために、この一週間ほど、ひさびさに彫刻刀を握ってみた。そして、アイ,ロボット用のお面を彫りかけてみた。なかなかうまい具合に途中まで半完成の状態まで来た。
彫刻などは、誰かに依頼されたり、どこかに出品するのでない限り、どこが完成ということはない。これでいいだろう、と思えば、他人には中途半端に見えてもそれはそれでいいのだ。他人がいくら褒めてくれても、やり足りないものはやり足らない。実に不思議なものである。
さて、今回久しぶりに彫刻の感触を思い出したところで、率直なことを、自分のためにメモしておく。
①彫刻刀を新調した。といえば大げさだが、以前使っていたのは子供たちが使ったもののお古で、しかも私が使っているうちにほとんど欠けてしまって、ボロボロになって捨ててしまった。近くの大型文房具店に行ったが、子供たちが使うようなものが二種類あったが、次回からは、やはりもうすこし吟味しなければならないだろうな。
②一週間ほど彫刻刀をいじっていて、今回はほとんど指をケガすることはなかった。のこぎりやノミ、かんな、カッターやハンマー、電気ドリル、キリや画びょうなど、さまざまな危険な道具を使うので、これまでは生傷は絶えなかったが、今回は、ちょっと木片の刺が指先にちょこっとだけ刺さって、点状の傷が一時的に見えた程度だった。
③材料の材木は、いつもは廃材や余り木で、別段吟味したものではない。むしろ雑木なので、練習用と割り切っているが、これだけの精力を傾けるのだから、結局最後は作品とするならば、最初の最初からキチンとした材料を使うべきだろう、と、今回も痛感した。
④やればやるほど目が肥えて来るもので、以前作った作品のアラばかりが見えてきて、ありゃ、これはいかん、と何回も思った。作れば楽しいのだが、気まぐれに作った作品などに、完成度など、最初から求めてはいけない。人の目に触れさすなど、気恥ずかしいことは、今後避けるべきかな、と反省した(笑)。
⑤彫ったり、組立てたりして、木目が大事と思って、彩色などはまったくしないで来たが、経年劣化もしてくることになる。ある程度の彩色や装飾は必要であろう。ただし、それはそれ、あらたなる技術と発送、アイディアも必要となる。それに伴って経費もかさむ。どこまでを自らの領域とするかは、実に微妙なところである。
⑥どの分野に首を突っ込んでも、実に世界は広い。満遍なく全体を見渡してから自らの分野を決めていくのか、最初から猪突猛進で自分の世界に没頭するのか。あるいは、どの分野においても、先達さんたちがおり、また、道もさまざま微妙な違いを見せる。それらをどうかき分けていくのか、新たなる迷いを生じさせることとなる。
⑦完成度をどの程度にするのか。そのためには、どれだけの時間と経費をかける余裕があるのか。自らの希望と技量を推し量る必要がでてくる。いかに趣味の世界とは言え、中途半端はいけない。ここまでならここまで、と最初から目標を立てておくべきだろう。また、人生の中で、自らのどれほどの時間が残されているのかも、逆算しなければならないのではないか、と毎度痛感するものである。
書き出せば、他にもいろいろでてくる。まぁまずは7つほど上げておいた。このテーマ、また続きを書きそうな気がする。
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