「オン・ザ・ロード1972」<22> 06/29 天井桟敷テント(青森)
「オン・ザ・ロード1972」 80日間ヒッチハイク日本一周
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p 目次 全日程
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<22>1972/06/29 天井桟敷テント(青森)
青森駅で目が覚め、街に出て、市内をぶらついていた。その時、ちょうど青森県民会館の前を通りかかった。なんとその日は、寺山修司率いる演劇実験場「天井桟敷」の青森公園の日だったのだ。演目は「邪宗門」。
公演は夕方だったが、他の予定のない私は、昼間の早い時間から県民会館の劇場に入り込んだ。まだ準備もされておらず、会場には誰もいなかった。やがて会館スタッフがやってきて、演劇芝居団も登場。舞台設定や、仕込みが始まった。
私は旅人ゆえチケットも持っていなかったし、そもそもチケットを買うほどの資金を持っていなかった。ちなみに、私はこの三か月のヒッチハイクの旅のために、三か月間、ボイラー修理工として働いて資金を貯めていた。月給は35000円ほど。
共同アパートや食費のために月々15000円提出し、また旅行中のための家賃を残して、ようやく5万円の資金を貯めた。これで80日間過ごさなければならないのだ。まだ出発して全行程の一割が過ぎた程度。できるだけ出費は避けたかった。
私は、観客席の椅子の間に、リュックもろとも身を沈め、開演時間までじっと潜んでいた。今となって考えれば、よくぞ見つからなかったものだ。ヘタすりゃ、交番にでも突き出されるところだった。
開演時間がやってきて、芝居が始まった。真正面には、「姫ビール」の大きな旗がひらめいていた。役者たちは、やがてステージから降りて来て、観客席の間を、角棒を持って、床を叩きながら、シャイな観客たちを挑発した。
高校時代から、紅テント、黒テント、夜行館などの、いわゆるアングラ劇を、友人の石川裕人と観ていた私だが、天井桟敷の舞台は初めてだった。というか、あの有名な劇団のステージは、生涯この時、一回限りしか観ていない。
映画「書を捨てよ街に出よ」は見ていた。そもそも、このタイトルに踊らされて私は旅に出たようなものだった。リュックの中には同名の文庫本が入っていた。あの佐々木英明の朴訥たるイントロはなんとも衝撃的だった。
観客席の暗がりに身を潜めて、開演を待っていた身としては、公演はあっという間に過ぎ去った。特に予定のない私は、その後、役者たちのたむろする楽屋に忍び込んだのだ。そして私はいつの間にか、誰にも怪しまれないで、スタッフの一員風になりすましていた。
あとからまとめたミニコミ「時空間」のリストには、この日、天井桟敷のテントに泊まった、と書いてあるが、それは間違い。聞き取って書いてくれた他のスタッフの聞き違い、勘違いである。彼らはテントには宿泊してないし、そもそもテントで公演していない。
その日の公演打ち上げは、近くの畳敷きのある旅館で行われた。寺山修司や九條映子、音楽のシーザー、映画にも出ていた佐々木英明、そしてステージには出ていなかったと思うが、フォーク歌手の友川かずき、など、その他、裏方スタッフを含めて2~30名の人々がいた。
私は何もなかったようにその一団に加わり、食事にもあり付いた。寺山もあの大きな目で、こちらをギロリと見たが、別段に不審がることもなく、一団に溶け込んでいる私を、許しているかのようだった。1935年生まれの寺山、当時まだ36才の青年だった。私は18才。もし人生の何事かが交差していれば、私はこの後の人生をこの一団と過ごしたかもしれない。
しかし私には、予定があった。石川裕人ならともかく、私は人生を演劇のために費やすという覚悟はなかった。これから残り70日ほどは、決めたスケジュールで旅を続けようと思っていた。
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