「『臨済録』を読む」 有馬頼底
「『臨済録』を読む」
有馬 頼底 (著) 2015/10 講談社 新書: 256ページ
No.4246★★★☆☆
新図書館(から借りだした)シリーズ9/10冊目。この本はどうだかなぁ。借りてきた新書本はすでに腰巻は外してあったが、この大き目の著者ご自身の写真がついていたら、私は図書館から借りだしてこなかったかもなぁ。
先日、この方の別の本を一冊手にした。「決定版・よくわかる茶席の禅語」(2003/03 主婦の友社)。同年配のわがいとこの蔵書の中の一冊だった。ちょっと理解できかねるわがいとこを少しでも理解しようと、彼お気に入りの一冊として、私も借り出してみたのだった。
でも・・・・。著者はあまりにも立派な方(と私はやや眉唾で揶揄してしまったが)で、その肩書とかご風貌が、どうも私好み(w)とはいいがたい。前著は、なかなかよくまとまっている風で、興味がないわけでもないし、面白そうでもある。だが・・・・。
ある時、修行をしたい、と問いかけてきた若者に対して、当時の今東光は、「それはいいことだが、有名な観光寺などに行ってはいけない。山里の名もない小さな貧乏寺にでも行って、まずは庭でも箒いてみな」というような内容を答えていた。
そのデンでいうと、この方の肩書はてんこ盛りで、内容もてんこ盛り。それは盛りすぎだろう、というくらいの指向性。ちょっと「修行者」向きとはいいがたい。なんちゃって派のお飾りに成っちゃうんじゃなかろうか、などと、ちょっと敬遠気味。
この本はどうかなぁ、とたじろいでいる。同じような内容の同じような本なら、別な方の、別な文脈で読んだ方がいいんじゃなかろうか、などと、戦意喪失。
パラパラと目次を見ていると、最後の第八章は「”自由”とは------「臨済録」を捨てよ!」p217ときた。う~~ん。くさいなぁ。ぷんぷんする。あるひとつのパターンにすっかりはまっている。これなら10人のうち8人は「護摩かせるだろう」とでもいうかのような、「正統的」で「ありふれた」手口。これで臨済の臨済を語り得るのかどうか。
今はまだ、敬遠して遠巻きにしておくことにする。あとで、すみませんでした、浅はかで、若輩者の、邪推でした、と謝ることになるかもしれんが、まずは、今日は今日の素直なところをブログしておくしかない。 いずれ再見することになるかもなぁ。(おそらくない)w
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