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2018年12月

2018/12/26

40th Annual Celebration OSHO Svagat / THE SACRED YES:OSHO<2>

<1>からつづく

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THE SACRED YES. Initiation Talks between Master and Disciple <2>
OSHO 
during the period November 1-30,1978 given at the Shree Rajneesh Ashram in Poona,India Publisher: Rajneesh Foundation Date Published: 1983

This will be the new name. It means welcome. And the world of my sannyas welcomes everyone, with no barriers--barriers of caste, religion, natinonality, sex.  Sannyas believes in one earth and one humanity.  All the religions belong to us but we don't belong to any particular religion. So let that be the name for your center. OSHO p196 14 Novevmber 1978

40th Annual Celebration OSHO Svagat

2019/1/19(sat)  from 10am to 12am 

at OSHO Svagat Meditation Center
everybody are welcome to vedio & tea

charge free no need booking
please contact

Prem Bhavesh 090-4631-8594 b@a.email.ne.jp

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「間違いだらけのクルマ選び」2019年版<2>

<1>からつづく

 

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「2019年版 間違いだらけのクルマ選び」<2>
島下 泰久 (著) 2018/12 草思社 単行本: 254ページ
★★★★★ 

 

 年末の超多忙期につき、本など読んでいるヒマはない。クルマのことなど考えているヒマなどないのであるが、そうであればあるほど、別なことを考えて、精神のバランスと取りたくなる。結局、せっかくやってきたこの本をいつもかたわらにおいて、パラパラするのである。

 その程度の視線を釘付けにするほどの記事はほとんどない。どのページのおざなりで、徳大寺御大当時でさえ適当に読み飛ばしていたのだから、島下時代になったからと言って、急に面白くなるわけではない。

 

 そんな中でも興味をそそられるのはEVであるし、PHEVである。だが、だからと言って、この本で特筆すべき内容はない。リーフはカルロス・ゴーン事件で先行きが不明だし、まずわが人生の最後の一台になることはない。


 アウトランダーPHEVも、結局はルノー・日産の下部企業としてプライドを下げ、いまさら三菱様に頭を下げる気にもならない。ミライもなんだかなぁ、という時代、プリウスPHEVも、結局は大きく、デザインも好きになれず、値段も高止まりだ。

 

 だからと言って、ノートeパワーのようなマガイものに手を出す気にはなれず、あの程度なら、今乗っているベーシックハイブリッドの方が上だ、という判断がある。現行プリウスも、試乗や代車で乗った限りでは、乗り味が好きになれないし、とにかくあのデザインからは遠ざかりたい。

 

 そうとなれば、結局、8年8万キロを経過したわが愛車を乗り続けることが解決策になるのだが、あと乗っても5年だろう。13年13万キロを超えていくはずはない。となれば、やはり5年以内に乗り換えを覚悟しておかなければならない。

 

 中古にするのか。二台持ちになるのか。一気に軽にするのか。コンセプトを全く変えるのか。クルマなんか卒業して、免許も返上してしまうのか。

 

 漠然としているが、敢えていくつかのコースを考えておこう。

 

1)13年ろうが15年だろうが、生きている限りは、現在の愛車をボロボロになるまで乗り続ける。

2)軽とは言わずとも、ブーン級の小さな車で安い一台を見つける。

 

3)どこかで刷り込まれてしまったロードスターを最後の一台を見つける。

4)
おお、これは、というPHEV、あるいはEVが登場する。

 

 いちばんいいのは4)だが、本当に5年以内に現れるだろうか。1)と3)の組み合わせもいいかなぁ、と思う。あるいは、穴馬として2)もありだな。

 

 とにかく、もう少し様子見だな。

 

<3>につづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018/12/24

「Kyozan: A True Man of Zen 」 OSHO <2>

<1>からつづく

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「Kyozan: A True Man of Zen」
OSHO (Author) Jan 1990 Publisher: Rebel Publishing House Hardcover 87 pages Language: English
★★★★★ 

 きょざん、って、誰だっけ? 調べていくと、大体は、
仰山慧寂(きょうざんえじゃく)ということになるようだ。

 潙山霊祐(いさんれいゆう)の弟子だよ。って言われても、う~~ん、だから~~、ってよく分からない。まぁ、唐代の禅僧であることは間違いなさそう。禅僧というより禅師か。

 きょざん、じゃなくて、きょうざん、じゃないか。

 顔で言えばこんな感じ?

 

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 うん、だから、どした。

 って、思っていたら、そうそう、そういえば、天井階から発掘したビデオ群に、たしか「Kyozan]が一本、入っていたんじゃなかったけ・・・?

 さっそくビデオをかけてみる。あらあら、なんだ、あの時、あの講話か。

 石田かつえがでてきて、バグワン、という言葉はいやらしい言葉だから、そんな言葉でもう呼ばれたくない、とか、なんとか、大笑いの、ビデオだ。

 これが、きょざん=仰山慧寂と、どうつながっているのか、分からんが、まぁ、とにかく、きょざんをネタに、OSHOが、かなり七転八倒していた時期だったのだ、と、理解した。

 とにかくだな、いずれ、突入する。

<3>につづく

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2018/12/23

「Kyozan: A True Man of Zen 」 OSHO<1>

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「Kyozan: A True Man of Zen」
OSHO (Author) Jan 1990 Publisher: Rebel Publishing House Hardcover 87 pages Language: English
No.4235★★★★★ 

 
いつかは読もうと思ってきたが、いまだ手つかずだった。その虚をつくように、SNSの友人がこの本について書いていた。おっと、先を越された(笑)。当ブログは禅そのものにも集約されておらず、未踏ゾーンも多い。なかなかKyozanまで手がのびないぞ~。

 せめて 原書だけ集めておこうかな、と思ったが、内容だけなら、ネットでPDFで読める。 そんな自戒の意味も込めて、ここにメモしておく。早く、読めるといいな。 

<2>につづく 

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2018/12/22

2018年下半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2018年上半期よりつづく

 

2018年下半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10
 

 

(本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの作品のメモに飛びます)

 

第1位
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「京都人の密かな愉しみ」
 
NHK「京都人の密かな愉しみ」制作班+源孝志 (監修) 2018/03 宝島社  

第2位
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「WIRED VOL.31」
「ニューエコノミー」ぼくらは地球をこうアップデートする
Condé Nast Japan (コンデナスト・ジャパン) (著), 2018/11/13   WIRED編集部 (編集) 出版社: プレジデント社 
WIRED関連リスト 

第3位

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「大拙」
安藤 礼二 (著) 2018/10 講談社 

第4位
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「さよなら未来」―エディターズ・クロニクル 2010-2017
若林 恵 (著) 2018/04 岩波書店 

第5位
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「異端の神秘家  OSHO・反逆の軌跡」現代の覚者・魂の伝記
ヴァサント・ジョシ 著 2018/11 市民出版社  原著2010/05 

第6位
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「amazon 世界最先端の戦略がわかる」
成毛 眞   (著) 2018/08 ダイヤモンド社 

第7位
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「オイゲン・ヘリゲル小伝」弓道による禅の追求
池沢 幹彦 (著) 2018/04 東北大学出版会 

第8位
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「AIを信じるか、神(アッラー)を信じるか」
島田 裕巳 (著) 2018/06 祥伝社 

第9位
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「神と仏の明治維新」 古川 順弘 (著) 2018/10 洋泉社 

第10位 
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「Pen」2018年11/15号超おさらい! 日本美術史
2018/11  CCCメディアハウス

次点
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「オウム真理教とは何だったのか?」 麻原彰晃の正体と封印された闇社会
一橋 文哉 (著) 2018/08  PHP研究所

2019年上半期につづく

 

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2018/12/21

「間違いだらけのクルマ選び」2019年版<1>

<2018年版>からつづく

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「2019年版 間違いだらけのクルマ選び」<1>
島下 泰久 (著) 2018/12 草思社 単行本: 254ページ
No.4234★★★★★ 

 
明日は冬至である。当ブログは例年、夏至と冬至に、それぞれの半期の「新刊本ベスト10」を発表している。当然、すでに原稿は完成しており、明日の早朝発表する段階になっている。

 この段になって、この本が到着した。この「間違いだらけのクルマ選び」は、実は、当ブログの隠れたベストセラーだ。毎号毎号読んでいる。この30年来、ずっと読んできた。だから、ここで滑り込みで、新刊ベスト10に入る可能性もある。

 いやいや、このタイミングだから、来年の上半期のベスト10に入れてもいいだろう、と思う。まずは、内容を読んでからだ。

 おそらくこの本の原稿が完成したあとに、あの日産カルロス・ゴーンのニュースが飛び込んだタイミングだった。はてさて、このニュース、今年のこの本はどう取り込めただろうか。

 やはり予想どおり、すでに出来上がった「はじめに」のあとに、追記として約半ページ、8行がつけ加えられているが、ほとんど意味あるメモにはなっていない。おそらく、来年はこのニュースがトップに踊り出す可能性もあるが、その頃になって、また別なニュースが持ち上がっているかもなぁ。 

<2>につづく

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2018/12/20

「うちのお寺は曹洞宗」わが家の宗教を知るシリーズ 藤井 正雄<3>

<2>よりつづく 

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「うちのお寺は曹洞宗」わが家の宗教を知るシリーズ <3>
藤井 正雄 1997/12 出版社: 双葉社 単行本: 237ページ
★★★★☆

 道元は悪くない。曹洞宗も、まぁまぁ・・・・。だけどなあ、この年表がなあ。

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 こんなものなのかい。

 日本の仏教は794年から始まるのか・・・。いやぁ、そうじゃねーだろう。っていうか、それに対してキチン反論できない自分の無知が恥ずかしいが、すくなくとも、聖徳太子とか、法隆寺とか、すくなくとも、唐代の禅僧たちにも触れてほしかったな。

-------------

 とあるSNSの友人の記事に書いたメモだが、なんだか落ち着かないので、こちらに張り付けておく。本書とはとくに関連はないが・・・。

ーーーーーーーーーーーーー

 8才の時に父が亡くなって、仏事(弔い事)は割合身近にあった。わが家の菩提寺は曹洞宗系の末寺であったが、戦後、宗派から離脱して、単立寺院となった。宗派はあまり語られないが、使っている経典類は道元系のモノ。僧衣も実に簡単なもので、背広に袈裟を着て法事をしたりする。

思うに、昔は、ランバと呼ばれる墓地は、村々のあちこちにあって、そこは単に墓場であった。必ずしも、仏教とは結びついてはいなかったのではないだろうか。

自分の死後、自分は、このお寺に埋葬してもらおうと思っているが、それは必ずしも、宗教とは関係なく、単に、死体処理の問題かな、と思ったりする。おそらく法名もつけてもらうことだろう。でもそれは、生きている間の私自身の精神性というよりは、残してしまった子孫への、道標のようなもので、お前たちは決してルーツなしの、どこぞの馬の骨ではないよ、という役割を果たせればいいかな、と思う。

 いずれ無縁仏になったとしても、それはそれと思う。

 彼岸やお盆には、慣習として、墓参りをし、花や線香を手向ける。これはこれで、年中行事として、生活になじんでいる。これはしかし、宗教行事といえるのかどうか。

 自分の家に仏壇があって、もし故人があって、その位牌に、日に3度、焼香する、というのは、はたからみれば、ずいぶんと手厚い弔い方だな、と思う。私にはそれほど几帳面にはできないだろう。でも命日や気が向いたときは、線香もあげ、時には般若心経も読んだりするのもいいと思う。

 父親の50回忌も終わったから、もう命日も生家の仏壇に焼香にいかなくなった。母親は最近97歳の誕生日を迎えた。彼女が亡くなれば、やはりおそらく私も焼香するだろうし、一般に言われる3七日や四十九日の法事などをして「あげたく」なるだろう。

 でも、そのことと、瞑想したり、OSHOを読んだりすることは、たしかに直接的にはつながってはいない。それはそれでいいんだと思う。

 月2回の、近隣の禅寺での坐禅会でも、普勧坐禅儀や般若心経を読経するが、ダイレクトにはそのことと、葬式などの仏事はつながっていない。それでいいのだと思うし、また、その辺あたりが、現代仏教の矛盾点(和尚さんたちの悩みどころ)でもあるのかな、と思う。

 いずれ、おそらくそれほど遠くない時期に、私も死ぬのであるし、それを覚悟しないわけにはいかない。その時、あまりに粗末な終焉を迎えたくないな、という思いもあるし、いやいや人生どうなるかわからんぞ、という覚悟もしなければいけないと思う。

 最近は、だいぶ友人たちも亡くなり始めた。私はすなおに、その遺族の風習に従って焼香したり、仏事に参列するが、あまり丁重すぎるのもどうかな、とも思っている。(ざっくばらんな性格なので)

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「決定版・よくわかる茶席の禅語」 有馬頼底 <1>

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「決定版・よくわかる茶席の禅語」<1>
有馬 頼底   (著) 2003/03 主婦の友社 単行本 383ページ
No.4233★★★☆☆ 

 これもまた、例のわが身近な親戚の御仁のおすすめに一冊なのだ。

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 なかなか良い本である。よくまとまっている。辞典のようだ。すぐ活用できそうだ。でも、ちょっとへそ曲がりな私としては、逆に、この本、これでいいのかい、とイッチャモンをつけたくなる。

 たしかに、編者は超一流の御仁である。これ以上の方の本はないかもしれない、とさえ、思ってしまいそうになる。だけど、ほんとかね。これって、あんまりイージーすぎるのではないか・・・?

 お茶席に、禅語。あんまりにお手軽過ぎないかい。花嫁修業で、ちょっとオシャレに、禅語のひとつでも、という姿勢が、どうもオレには納得いかない。

 だめだ。気にくわない(笑い)。

<2>につづく

 

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「禅宣言」 OSHO<23>

<22>からつづく

禅宣言
「禅宣言」<23>
 OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03  市民出版社 単行本 541p

 この本、あんまり翻訳の出来は良くない。控えめに言って、私好みではない、と言っておこうか。じゃぁ、自分で読めばいいじゃない、と、英文本を引っ張りだす。

 

 そして、奥の手、ビデオを見ながら英文でチェックするのだ。残念ながら、11日分のうち、手元にあるのは4日分のビデオだけ。それでも、より立体的に愉しむことができる。

 これがなかなかにハマる。当面はこれで行こう。

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「臨済録」 入矢義高 <2>/ 「臨済録」 OSHO<5>

<1>からつづく

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「臨済録」 <2>
入矢 義高
 訳注 1991/01 岩波文庫 ワイド版岩波文庫 並製 ・ カバー ・ 230頁

★★★★★ 

 最初はわりあいスムーズに読み進めた。 中頃になると、なかなか手ごわくなる。最後の頃には、ほとんど、お手上げ感が漂う。しかし、これはあくまで日本語訳においてなのだ。これが、読み下し文や、漢文の原文では、ほとんどギブアップだろう。

 そこで、さっそくOSHOの「臨済録」を開く。

<3>につづく

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<4>からつづく

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「臨済録」<5>
OSHO (著) アナンド・モンジュ(訳) 1993/11 出版社: めるくまーる 単行本 282ページ

 いやいや、そうじゃない。当ブログにおいては、そもそもOSHO臨済がメインなのだ。その補助として、臨済録の原文を手に取ったのだった。

 しかし、それでもまた、そもそも臨済録とはどいうものか。それを理解したい。そして、OSHOは、それをどのような雰囲気の中で語っていたのか。それを理解するに役立つのは、最近、天井階から出て来た、OSHO-RINZAIのビデオ一本。

<6>につづく

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

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 RINZAIはたった一本しか出てこなかったが、それでも、あの時代、OSHOがこのような雰囲気の中で語っていたのだ、という臨場感が湧き上がる。

 そして講義内容は、英語原文で確認する。

 

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 このコングロマリッドがなかなかに面白い。RINZAIに限らず、OSHO-ZENシリーズ、これで当分、どっぷりつかってやろう。

 いえいえ、入矢義高バージョンの「臨済録」も、これはちゃんと読めるようになりたいですね。漢文原文までは無理だとしても、せめて読み下し文を楽しみたい。やるぞ。

 

つづく

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2018/12/19

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」<78>工作

<77>からつづく

 

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」 

<78>工作  目次 

 卵のパックと、ペットボトルと、トイレットペーパーの芯、そしてカレールーの空き箱、それらを合わせて、作ったのは、カバらしい。私にはワニに見えたのだが、違うという。
-
 小学生になるとこういうのを授業で作るんだな。面白い。大好きだな、こういうの。いっぱい作って欲しいわ。
-
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 -
爺さんも、廃物アートなどと言っているが、結局、これと同じことやってるよ。しかし、小学一年生と爺さんは、結構いい勝負じゃないかな。これは負けてはいられないぞ。
-

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2018/12/18

「シン・ゴジラ」 総監督脚本・庵野秀明

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「シン・ゴジラ」
総監督・脚本・庵野秀明、監督・特技監督・樋口真嗣 長谷川博己 (出演),    竹野内豊 (出演)  販売元: 東宝 2016年公開 東宝製作のゴジラシリーズ第29作 DVD 時間: 119 分
No.4232★☆☆☆☆

 

 年末の糞忙しい時期に、録画した映画を見ている。こんな時期に、こんな映画をテレビ放映するテレビ局も罪だが、そんな映画につられる視聴者たる私もアホだな。

 最近、天井階から大量のビデオテープを発掘した。段ボール箱には、エヴァンンゲリオンの録画が何本もあった。だいぶ前に大量にダビングさせてもらったのだ。だが・・・・・。

 結局は、私にはこのドラマツルギーが好きになれない。結局は詰まらなかった。庵野秀明がどれほどのものか、私には分からない。理解しようという要求が発現しない。

 二年前、この映画の封切に合わせてラジオ番組で庵野秀明にインタビューを行っていた。ふ~ん、たまに映画館に足を運ぼうかな、と思っていたが、いつの間にかわすれていた。

 このパニック映画、3・11を下敷きにしているのだろうが、3・11を超えてはいない。もちろん、現実とフィクション、どちらがどちら、と比較すること自体が愚かしいが、私たちが、あるいは私が、3・11で体験したのは、こんな映画とは比較できないリアリティだ。

 むしろ、リアルな3・11に対して、このフィクションは、結局、この程度の解決力しかないのか、と、ちょっとがっかりする。

 門外漢の私がいうものなんだが、くだらん映画だな。結局。

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2018/12/16

さとりサマーディにて」<38>誕生日

<37>からつづく

 

「さとりサマーディにて」 

 

<38>誕生日

 

 正直言って、母親の誕生日なんて、あまり意識したことはなかった。そもそも、日本文化において、誕生日というものがなかった。誰もがみんな正月に一歳年を増やすのだ。だから、正月のことを「お年取り」というのだ。

 

 だからいまさらさとりさんにとって、今日は誕生日だよ、と言われても、ちょっとピンとこないところがあるのだろう。だがそれにしても、「今日は97歳の誕生日だよ」と、耳元で大きな声で話しかけても、「はい」と、短い返答をするだけだ。

 

 「おかあさんは、大正、昭和、平成、そして、来年の新しい年号の時代を生きるんだね」と話しかけても、気のない返事、「はい」。新しい年号は来年の4月にならないと始まらない。そもそも彼女は、そこまで生きているか。

 

 食べることも、歩くことも、トイレにいくことも、風呂に入ることも、寝ることも、寝がえりを打つことも、いまや一人ではできない。24時間、介護がなければ、彼女の生存は保証されていない。一年前とは、かなり違う。

 

 目も見えず、音もわずかにしか聞こえず、体も自由にならない。呼びかけられたら、わずかに反応し、自らの名前を呼ばれたのはわかるし、自分の誕生日も何月何日、とはっきり答えたという。あと何日ですね、と、引き算までしたそうな。

 

 調子いい時と、眠っているような時とある。日中はあまり眠らないほうがいいらしい。だから、昼間はパジャマは着ていない。週に何回かは風呂に入れてもらう。機械がかりで、しかも二人の担当者の手を煩わせる。

 

 誕生日おめでとう、と言ってみる。その口もとに耳を押し付けてみると、何かを言っているようにも聞こえる。かすかだが、「今は、普通でしょ」と言った気がする。たしかに、今や97歳なんて、めずらしくはない。100歳以上の人達が、何万人もいるらしい。たしかに、今は普通だ。

 

 テレビの芸能番組で、今年亡くなった芸能人が列挙されていた。若く亡くなる人もあれば、もちろん長命な人々もいるが、大体は80をピークにして亡くなっているようだ。97歳はやっぱり、長命だ。そこまで生きていること自体、幸福なことであるはずなのだ。

 

 しかし、自分は高齢になって、どのような人生を送りたいだろうか、と思った時、果て、97歳の自分を想定できるだろうか。その時、どんな世の中になっているだろう。どのような体調になっているだろう。家族環境は? 経済状態は? 世界情勢は? 未知数なことはたくさんある。

 

 しかし、確実に、ひとつづつ誕生日を重ねていくことは事実なのだ。彼女は、またひとつ年を増やした。子供としては、やはり、長命であってほしいと思う。彼女が生きている間に、もっともっと幸せなことが続いてほしいと、思う。

<39>につづく‎

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2018/12/13

「臨済録」 入矢義高 <1>

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「臨済録」 <1>
入矢 義高
 訳注 1991/01 岩波文庫 ワイド版岩波文庫 並製 ・ カバー ・ 230頁
No.4231★★★★★

 読み始めたばかりだが、どんどんページが進んでいく。これは文庫本扱いなのだが、ワイド版なので、文字が大きい。読みやすく、わかりやすい。それに、漢文、読み下し文、日本語訳、解説がついているので、ひとつの講話についてのページがあっと言う間にすすむ。

 全部読んでいたら、それは時間がかかるのだろうが、日本語分だけ、まずは読んでみる。いや、読みやすい。分かりやすい。どんどん進む。こんなに進んでいいのだろうか。と、思う。馬祖などを読んだあとだと、実に「論理的」で、説得力ある。

 でもこれって、ちょっと危ないかも。読みやすく、わかりやすい、というのは、少なくとも禅においては落とし穴になる可能性もある。ストーリーが楽しいあまり、その中核になっている部分、つまりこちらへ対する変革要求を見落とす可能性があるのではないか。

 かの、お互い還暦を過ぎた身近な親戚が勧めてくれた一冊である。この本は、ある意味危険である。面白いので、「分かった気」になってしまう。あいつは本当に分かっているだおるか、などといぶかる。

 いや、オレだって、分かっているかな。面白いけど、だけど、文面に踊らされているんじゃないか。なにか抜けているかも。

 編集者や監修者、訳者が有能なあまり、上手に料理され過ぎているのではないか。もしそう思うなら、次は、漢文の原文、読み下し文、日本語訳、解説を、随時追っかけてみるのもイイかもしれない。

 この手の本は、わかりにくければほったらかしにするし、わかったらわかったで薄味になって忘れてしまうし、要注意。まずは最後まで日本語訳を読んで、その後、最初から、原文を味わい、解説を味わいしながら、なんども繰り返し読んでみる必要がありそうだ。

 <2>につづく

 

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2018/12/10

「〈仏教3.0〉を哲学する」 藤田一照 他 

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「〈仏教3.0〉を哲学する」
藤田 一照 (著),    永井 均 (著),    山下 良道 (著) 2016/09 春秋社 単行本: 304ページ
No.4230★★☆☆☆

 

 「アップデイトする仏教」2013/09 幻冬舎)の続編としてこちらに延長してくると、ますます何が何やら分からなくなる。仏教4.0なる言葉まで登場する(p168)に到っては、いまさら何をかいわんや、となる。

 

 あなたたちの祖師はすでにおっしゃっているではないですか。

 

  (しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)(わず)かに起れば、紛然として心(しん)(の)失す。道元 「普勧坐禅儀」

 

 2.0と言ったとたん、3.0は当然に登場し、続いて4.0~N.0まで迷宮は続いて行ってしまうのだ。

 

 何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。道元 「普勧坐禅儀」

 

 他の方々はどうであれ、当ブログは、ZEN 0.0に退却する。「〈仏教3.0〉を哲学する」を当ブログ流に瞑想すると、そうならざるを得ない。

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「アップデートする仏教」 藤田一照他

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「アップデートする仏教」
藤田 一照 (著),       山下 良道   (著) 2013/09 幻冬舎 新書: 289ページ
No.4230★★★☆☆

 この本を読むのはグッドタイミングではない。じゃぁ、いつ読めばいいかと言えば、いや、別に読まなくてもいいのだ、という意味を込めている。対談しているのは、我が世代の曹洞宗の僧侶二人。私よりは1~2歳ずつ若い。

 この本は、ボヤキ漫才、ボヤキ川柳みたいなもので、まぁ、せいぜいボヤキ仏教、と言ってあげようか。そもそもが、仏教をどうかしよう、と考えている。それが仮に2.0だろうが、3.0だろうが、決して彼らのボヤキは止まらない。

 もうすこし煮詰めて言えば、仏教ではなく、禅1.0、禅2.0、とでも名付けた方が、まだましだったように思う。されど、続刊の「<仏教3.0>を哲学する」(2016/09春秋社)に到っては、すでにネーミングで失敗している。

 禅、あるいはZENをアップデイトするなら、1.0や2.0ではダメだ。ZEN 0.0でなければならない。だからこそ、当ブログでは、OSHO ZENと言っている。まぁ、一歩譲ってZEN OshO とでも言っておこうか。ZEN 〇なのだ。

 2500年の仏教=Buddismをどうのこうのしようというのは、一人や二人のボヤキ坊主どもではどうにもならん。仏教と取り組むから、余計な雑念が必要とされ、脇道も増える。最初っから禅に取り組まなくてはならない。ZENでもいい。とにかく、それを自らに見つけ、体現する以外にない。

 思えば、私もスリランカには少なからぬ縁がある。生家の菩提寺は、戦後、曹洞宗を離れ、単独寺院となって、スリランカ仏教と関係を密にしている。23才でOSHOの元に行った時、まずはビパサナの10日間を潜り抜けさせられたのも、何かの縁である。

 さらには翌年、スリランカに渡り、当時仏足山に滞在されていた藤井日達上人のもと、一か月の修行を許され、また当国の縁者たちによって、国内の有力寺院を見て回ることができたのも、これまた深い縁であった。

 1991年の、国際環境心理学スピリット・プレイス・シンポジウムの時にも、すでにスタッフから、テック・ナット・ハンの情報がもたらされ、早くから、その流れを意識することができたのも、近辺にアンテナを高く張っている友人知人が多かったせいもあった。

 仏教はアップデイトしないだろう。五五百歳=2500年の後、ゴータマ・ブッダの流れは、その法輪が止まってしまう、とすでに法華経にあるではないか。もう充分なのだ。それは、もうアップデイトなどせずに、休ませるべき時に来ているのだ。

 新しく法輪を回すのは、弥勒=マイトレーヤ、友人としてのブッダなのだ。無駄な抵抗はよせ。ボヤくのはやめよう。時代は、ZEN 0.0なのだ。

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<追記>
 後半、一部知った名前が出てきたので、ここに抜き書きしておく。

 良道 わたしが言う青空と雲の話はプルシャとプラクリティという区別だとすっきりするんじゃないか、と「ヨーガ・スートラ」の専門家の伊藤雅之さんという方が言ってましたね、一法庵の接心に参加された時に。

 注 伊藤雅之・・・(1964~)愛知学院大学文学部准教授。ヨーガをはじめとするスピリチュアリティ文化の研究員。p223「第五章 アップデイトする仏教」

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 「現代社会とスピリチュアリティ」 現代人の宗教意識の社会学的探究 (伊藤雅之 2003/03 渓水社)では、OSHOを取り上げており、私も多少取材協力した。

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2018/12/09

「空っぽの鏡・馬祖」OSHO<4>

<3>よりつづく

 

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「空っぽの鏡・馬祖」 <4> 
OSHO
スワミ・アナンド・ソパン (翻訳), 1992/12 壮神社 単行本、 367p

 今回の馬祖との遭遇は、やや婉曲なプロセスがある。3・11以降、エスノセントリズムで、この東北の地への愛着から始まる。この地を振り返ると、縄文のエネルギーに出会う。そのエネルギーが、ついには仏教文化に触れ、近世の武士文化と遭遇しながら、現代社会へと流れついてきている。

 この地において、武士文化を考えると、当然のように伊達文化に遭遇する。坐禅会に参加している禅寺もまた伊達文化なしには語ることができないし、この都市も存続しえないことになる。伊達文化に突入していくことは必然としてある。

 その影響化における雲居希膺(うんごきよう)禅師を訪ね、その禅堂である松島の庵の名前「把不住軒」からいただいたのが、当ブログの最近のネーミングである。その雲居希膺禅師がその庵名の言われとしたのが、おなじ雲居つながりの唐代の禅師、雲居道膺(うんごどうよう)。

 菩提達磨(?~528)の系譜は、六祖慧能(638713)、南嶽懐譲(なんがく かいじょう677~744)、馬祖道一(709~788)、洞山良价(とうざん りょうかい807~869)などの名前が連なるが一様ではない。雲居道膺(うんごどうよう)は洞山良价に師事した。

 

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 はてさて、当ブログはここで、天井階に長年眠っているビデオ発掘のタイミングとなった。段ボール箱数個をひっくり返してみれば、あるわあるわ、こんなにあったのか、というほどの量。

 

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 この中に、馬祖こと「MA TZU」のOSHOビディオ4本が含まれていた。

 

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 仏典、あるいはOSHO講話の味わい方は様々あれど、OSHOの場合、日本語文献、英語文献、そしてビディオとなると、ひとつひとつがかなり違った味わいを楽しめる。

 

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 この辺を突破口として、せっかく温存してきたビディオ群である。OSHO ZENをしっかりビディオで楽しむのも悪くない。

 

<5>つづく


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「禅林画賛」―中世水墨画を読む 入矢義高他<2>

<1>からつづく

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「禅林画賛」―中世水墨画を読む<2>
島田修二郎・入矢義高監修 1987/10 毎日新聞社 大型本: 497ページ
★★★☆☆

 身近な親戚ながら、彼にはなんとも納得がいかないことがある。その資産をバックに若い自分から固定的な仕事に就かず、むしろ積極的な意味で無職状態を続け、結婚をするとか、地域活動に貢献することもなく、周囲の理解を得られないような人生を送ってきた。

 それにはそれなりの理由と経緯があったのだろうが(一部は私にもわかる)、そのような人生でいいのかと、責めたい気分が湧き上がる。声を荒げて非難することなどしたことはないし、する気もないが、許せない、という堅い想念が湧き上がる。

 彼の生活空間に行けば、あまりにも雑然としていて、いつシャワーを浴びたのだろう、というほどの体臭さえただよう。腐臭とさえ言ってもいいくらいだ。いくら還暦を超えたとは言え、すこしは客人への思いやりも必要だろう。ハゲも仕方ないが、少し残った髪くらい櫛を通せよ。

 度の過ぎた濃いお茶と、いつからテーブルの上にあるのか、というくらい古そうなお菓子を勧めてくれるのはありがたいとして、まだらに伸びきった口の周りの髭と、半開きになっている左側の口端から垂れている唾には、食欲が減退する。もう目をそらすしかない。

 美術館や博物館の年間パスポートを持っているようで、ひたすら外出時は、そのような施設を梯子しているらしいのだが、どうもバランスが悪すぎる。何を聞いても返答はある。何でも知っているようでもあり、どうも一面的でもある。

 そもそも数百年も続いた「名家」でもあり、その家宝ともいうべき、鎧兜や刀剣を手放し、敷地続きにあった自然天然物の管理の責任さえも、完全に放棄している。そんな奴に、あれこれ他人の非難などできないだろう。そう思うのだが、彼の悪口は尽きない。もう聞きたくないな、というほど、どんな人物、どんな事象にも批判的意見を持っている。

 私からすれば、彼は、もっと当家の名代であってほしい。威風堂々として、識見豊かに寛容性を持ち、謙虚にして、その伝統を維持しつつ、一族郎党の守護者であるべきだろう。巷の多忙な人々に代わって、公共の雑務を引き受け、難局にあっては、全体をまとめ上げて、一筋の道を示すほどの力量を見せるべきであろう。

 どうも嫌な奴である。親戚でなければ、完全に無視するか、嘲笑の的にしてやりたい、心の片隅では、そう思わないでもない。されど、一年に数度訪問してみるのは、近くに住みながら他人行儀なのは、どうも具合が悪いし、あんな彼も、いくらかでも改善の兆しが出ているのではないか、と、わずかな望みを持っているからでもある。

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 そんな彼を先日もまた訪れた。よせばいいのにとは思うが、この年末に一度は顔繋ぎしておくのも悪くない、という個人的な判断もある。簡単な手土産を持参して、まずはご無沙汰しているご先祖様たちが祀られている仏壇に線香を手向け、合掌する。

 そしてテーブルに着き、一対一で話をし始めれば、言いたいことも山ほどあるが、そこはそこ、まずは無難なところから話を切り出す。無難なところといえば、まずは趣味の話、あたりさわりのない無責任でいい加減なところから。

 そして出てきたのが、この三冊だった。こちらが仕掛けた問いに、彼が乗ってきたと言えば、そうも言えるが、決して彼が嫌がる分野ではない。むしろ、お勧めの本がないか、との問いに、彼はこう答えたのである。私としては、身を乗り出さないわけにはいかない。

 わたしとしては何とか話の接点を見出したい一心だ。いや、それは彼とて同じだろう。この三冊が置かれている地点なら、二人はいくらでも話が続くであろう。それがお互いの無理のない世界であることに驚く。お互いに楽しいのである。

 あのグータラ親戚と、この私には、何分の一かづつ同じ血が流れている。ましてや同じ地域に住んでいれば、同じ年代の同じ世代という以上に、その趣向性は似たり寄ったりなのだ。これには参った。

 曲がりなりにも旅をし、瞑想し、仕事を持ち、家族を養って、時には地域貢献もしてきたと思い込んでいるわが身として、このグータラ野郎と、60の還暦を超えてみれば、ほとんど同じ意識のレベルに立ち会っているのである。これは一大・大発見と言ってもいいくらいだ。

 逆に立場を逆転してみる。仮に私が彼の境遇だったら、彼のような状態にならなかったか。もし仮に、彼が私のような身軽な立場だったら、それなりのスタイルを取り得たのではないか。二人の立場は本当はそれほど違わない。周りから見れば、一族郎党だ。

 そしてさらに思う。彼が私をどう思っているかは図りしれないが、少なくとも私が長年彼に持ってきたイメージや評価、批評というものは、それほど大きくはないのではないか。少なくとも、目くそ鼻くそを笑う、の例えではないのか。これは大きな気づきであった。

 先ほどの、私の彼に対する評価は、彼からの私への評価の裏返しであり、ひょっとすると、私の私に対する評価でもあるような気がしてきた。いや、きっとそうであろう。この三冊をパラパラしながら、そう思うのである。

<3>につづく

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2018/12/08

「把不住述懐」<32>冬の松竹梅三句

<31>からつづく

「把不住述懐」 
<32>冬の松竹梅三句   目次

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<33>につづく

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2018/12/07

「朝鮮文学の知性・金起林」青柳 優子(編訳・著)<2>

<1>からつづく

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「朝鮮文学の知性・金起林」<2>
青柳 優子(著) 2009/12 新幹社 単行本 単行本: 278ページ
★★★★☆

 ネットつながりの偏向されがちなニュースに浸かって満足しているわが身としては、新聞などの「公共」のニュースに疎いのが難点である。もう新聞は10数年宅配してもらっていない。図書館に行った時や、知人友人宅を訪問した時など、積み上げられた新聞をパラパラめくったりはするが、いまだに新聞宅配の必要性を感じないできている。

 そんな事情を知ってか、ひとりの友人がこんな新聞記事があるよ、と教えてくれた。

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朝日新聞2018/11/21

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朝日新聞2018/12/03

 私たちは、それぞれの人生のスタート地点において、それぞれ立場には微妙に違いがあったものの、時間、空間的には、雀の森の住人達というコミューン活動に、関わりを持っていた仲間=知人である。

 袖すり合うも多生の縁と言うけれど、おそらくそれ以上の縁を感じてきた人間たちである。彼らが、このような形で新聞記事になることは、ある種喜ばしいことでもあり、また、ある種、お久しぶりというご挨拶のようなものでもある。

 はてさて、グローバリズムの功罪が取りざたされて、保護主義やら多国間摩擦などが、大きく報道されるなか、たったひとつの隣国との関係改善のために、人生を捧げる、ということに、どのような意義を見つければいいのだろうか。

 人にはそれぞれ、明瞭に把握できる部分もあれば、秘されてなお深く潜伏している事情もある。それぞれの動機や意図というものは、簡単に読み取れるものではない。深読みすれば、それなりに深度が深まっていくに違いない。

 されど、当ブログは、ありのままをさりげなくなぞっていく程度のことが一番いいように思っている。そういった意味において、当ブログの主なるテーマになる方向性ではないし、その意義というものも、大きく評価できる可能性もない。

 ただ、こういう事実があったということをここに記しておくにとどまる。

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「禅林画賛」―中世水墨画を読む 入矢義高他<1>

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「禅林画賛」―中世水墨画を読む <1>
島田修二郎・入矢義高監修 1987/10 毎日新聞社 大型本: 497ページ
No.4299★★★☆☆

 あるひとりの親戚の茶の間で見つけた本。乱雑に本が部屋中に置いてあり、なにかの拍子に蹴っ飛ばしそうになるくらい本が散らばっている。その中でも、一段と大きくて厚く、とにかく「禅」の文字が目に入ったので、とりあえずは質問してみた。

 還暦も過ぎたわが親戚は、かつて四国地方を旅行した時に、旅館の部屋にこの本があって、いたく気に入ったそうだ。帰宅してから、あちこちの古書店を探したが、なかなか見つからずやっと見つけて翌日買いに行ったら、すでに売れた後だったらしい。

 それから彼の、この本の探索が始まった。京都の古書店のカタログにこの本を見つけたのは、すでに10数年前だそうだ。だが、あまりに高価なので、購入を見送ったらしい。なんせ、もともと数万円する定価の豪華版なのだが、なんとその3倍の値段がついていたらしい。

 彼は、それでも、毎年毎年そのカタログを見続けてきたが、まったく売れる気配もないらしく、価格ダウンの機運も見つからなかった。そこで最近、ようやく清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入に踏み切ったとか。

 有閑階級の彼にしても、それほど高価な本を購入することはめったにない、とのことで、この本は彼のお宝なのだ。ふむふむ。

 しかしながらだ。わが図書館を検索してみると、すぐ隣の公立図書館にはキチンと蔵書で収まっている。実際、こうして私は簡単に配本してもらって、無料で拝読できているわけだ。なぜにそれほど悩む必要があったのかね。

 読むだけではなく、自分のモノにしたい、というのであれば、ネットで検索してみるのもいいだろう。やって見ると、確かに高価本ではあるが、ほとんど定価と同じ価格でネット上で流通しているものもある。保存の程度とか、入手経路とか、それぞれにこだわりはあるだろうが、それにしてもなぁ、と思う。

 彼も一時パソコンブームの時は、ノートPCなどを揃えてネットサーフィンなどしていたのだが、どうも性に合わないらしく、ネット接続をしていないばかりか、PCそのものをやめてしまっているようだ。経費が掛かる、ということで、この手の「老人」も増えてはいるが、ああ、もったいないなぁ、と思う。

 ちょっとしたネット環境があれば、中古のPCくらいはすぐに手に入る差額を、惜しみなく京都の古書店に支払っているのである。彼にしてみれば、この「京都の古書店」というところが、気に入っているのであろう。それぞれのこだわりである。ゆるそう。

 さて、中身だが、私個人としては、ぜひとも座右に置いておきたい、というこだわりはない。禅画は、唐代よりもむしろ宋代に発展したらしく、当ブログの関心がそちらに移り始めたら、欲しくなるやもしれず、今はあまり大口をたたかないでおこう。

 巻末の検索をめくってみると、なにやら「把不住」の文字もある。当該ページを開いてみると、さして大きな記事でもなく、ふ~ん、程度で終わる内容であった。なにはともあれ、すこし時間をかけて、なぜに彼がこの本に魅せられたのか、その辺をすこし探ってみようと思う。

<2>につづく

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2018/12/06

「空っぽの鏡・馬祖」OSHO<3>

<2>よりつづく

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「空っぽの鏡・馬祖」 <3> 
OSHO
スワミ・アナンド・ソパン (翻訳), 1992/12 壮神社 単行本、 367p

 ゴータマ・ブッダの成道会に合わせて12月1日~8日の臘八接心の坐禅を行っている。早朝40分の坐禅(10分の経行はさむ)を二回、夜も同じく二回、当センターの瞑想ルームにて。

 ちょうどそのタイミングで、カナダ在住の友人Maがビデオを二本、「アディナタのデスセレモニー」と、「OSHOスピリチュアル・テロリスト(日本語版)」を送ってくれた。二本ともずっと昔に見たことのあるテープではあるが、当時ではなかなか入手困難であったので、個人所有はしていなかった。

 今回、あらためて見て、OSHOはなんとまぁ過激なマスターであるか、とあらためて感嘆した。それと同時に、ビデオでOSHOを見る、という体験を久しぶりにしたものだから、たくさんあるビデオを再視聴するのもいいなぁ、と思い始めた。

 いざ天井階のバックヤードを見ると、あるわあるわ、う~ん、こんなにあったのか、とあらためて呆れてしまった。先年、マル君がDVDに焼き直すと行って、大量に持って行ったが、完了したから返すね、と返却された。そしてダビングしてプレゼントします、と約束していたのに、その約束は果たされないまま、彼はちょうど一年前に逝ってしまった。

 リアルタイムでは、現在当ブログは唐代の禅マスターを辿る作業に入っており、ちょうど洞山、雲居、馬祖、慧能などを訪ねている最中だった。そういえば、馬祖こと「MA TZU」のビデオも何本かあったはず、と探し出した。

 入手してから何度も見たわけではないが、ある事ははっきり覚えていた。現在探し出したのは4本。さて、日本語版の本「空っぽの鏡」と、英語版「MA TZU, the Empty Mirror」(September 1988)を揃えて、ビデオを再生してみた。

 うん、これがなかなかよい。本だけじゃ分からない、OSHOワールドが展開されている。すでに30年前の講話であるが、生き生きと、リアルにフィードバックされる。これはいいな。我が瞑想センターでも、古いビデオライブラリーを活用して、ビデオ鑑賞会を定期的に開催するのもいいな、と思い始めた。

<4>につづく

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2018/12/03

「禅の語録」導読 禅の語録20 小川隆

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「禅の語録」導読 禅の語録20
小川 隆 (著) 2016/04 筑摩書房 シリーズ・全集  単行本: 292ページ
No.4298★★★★★

 禅宗は、早くから、禅者の教説や言行を文字に書き記して伝えて来た。「不立文字」といいながら、禅宗の書物はひどく多いではないかと揶揄されるこおともあるが、そうではない。

 特定の教条を定立せず特定の聖典を奉じないからこそ、禅者は、その時、その時の、その人ならではの一句を吐きつづけてきた。

 それは他とのとりかえも他との統合もうけつけぬ、かけがえのない言句であったがゆえに、その言葉の数だけ個別に記録され、伝承されてゆかねばならなかったのである。p1「はじめに」

 なるほど~~、そうであったのか。コトンと肚に落ちる言葉である。目からウロコ。

 そうした言葉は、ほどなく入唐僧・入宗宗たちによって日本にも将来され、爾来、各種の禅籍が、日本の禅門において読みつがれてきた。

 この間、個々の字句にとらわれず、あくまで実施の修行の糧としてそれを読むという姿勢が保たれてきたのは、ある意味、当然のことであった。

 

 禅籍は肚で読む、という言いかたは、今日でもなお死語になっていない。p1「はじめに」

 ふむ~、なるほど~。

 これに対し、禅宗中国古典文献の一種として語学的・文献学的に読み解こうという試みが開始されたのは、実はわずか半世紀余りほど前のことでしかない。p1「はじめに」

 せっかくのものを文献学的に読み解いてしまうのも、もったいないような気もするが、私のような門外漢の目に触れるように白日の下にさらしていただくのは、とてもありがたい。

 この本は、この最初の一ページを読んだだけで、もう充分なような気さえしてきた。ありがたや~。

 つづく

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2018/12/02

洞門禅文学集  飯田利行<2>

<1>からつづく
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「洞山」 (現代語訳 洞門禅文学集) <2>
飯田 利行 (翻訳) 2001/12 国書刊行会 単行本: 238ページ
★★★★★

 当ブログの「把不住」というタイトルのルーツはここにある。唐代禅の高峰・馬祖道一(ばそどういつ 709~788)の弟子筋である洞山良价(とうざんりょうかい 807~869)が、その弟子・雲居道膺(うんごどうよう 835~902)を評した時の一説である。

注2021/02/03
(少しづつ調べて分かってきたことだが、洞山良价や雲居道膺は、決して馬祖道一の弟子筋とはいいがたい。確かに六祖慧能の法脈とはいえるが、馬祖道一と比較するなら、同じ時代に活躍した石頭希遷の弟子筋というべきで、馬祖と石頭は、むしろ方便を異にしたライバルだったというほうが正しいようだ。ただし、この唐代の禅師たちは、セクトにこだわらず互いに交流していたので、いわゆる唐代禅の爛熟期にあった禅師たち、というくくりのほうが、より正確だ。

 

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 現代日本の作家にして禅僧である玄侑宗久氏は、この「把不住」とは「理解しきれないこと」と訳しておられる

 

4 この言葉は、他の文献にも出ているともみられ、それを見た江戸時代の禅僧・ 雲居希膺(うんごきよう 1582~1659)は、仙台・松島湾の自らの禅庵を「把不住軒」と命名した。 

 

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 この地を、友人たちと訪れた2016年6月、この軒名に感銘し、はふじゅう、という読みとバヴェシュというサニヤスネームを重ね、五七語の号としてお借りしているというわけである。

 


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 江戸時代の雲居希膺(うんごきよう1582~1659)は、自らの名前に酷似した唐代の雲居道膺(うんごどうよう 835~902)の故事に倣って禅堂の名前にしたわけだが、さて、この唐代の洞山良价の「洞」の字は、「曹洞宗」のいわれの一つとなっているようだ。

 江戸の雲居希膺(うんごきよう)は臨済宗の禅僧で、自らの禅堂名の由来を曹洞宗に持っていったということになるが、別段に驚くほどのことではあるまい。諸宗諸派あるものの、禅は禅なのであり、仏は仏なのである。ZENはZENでいいだろう。

 私個人としては、どちらかと言えば、臨在宗より曹洞宗に縁があり、昨日から始まった臘八接心にちなむ今朝の早朝坐禅会もまた、曹洞禅寺でのものだった。(今朝はなかなか面白かった。いずれ何かの機会に書こう)

 

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 さて、当ブログの今後の展開であるが、ZENはZENであって、中国禅や日本的禅、あるいは曹洞宗や臨済宗などの違いはあまり気にしないできたので、中国禅、ましてや唐代や宋代などという違いを細かく味わってはこなかった。

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 曹洞禅は道元禅を基本としているものの、現代としてはそこにややゾルバ性に欠けるか、という危惧を持っていた。今後は、この「中国唐代の禅師」というくくりで追っかけてみようか。このOSHOの「馬祖」も、Vol.1で一回Vol.2で一回、追っかけたきりだった。この機会に、ここに突っ込んでいってみようか。

 この現代語訳「洞山」の主人公は洞山なのだからしかたないとしても、お目当ての雲居道膺(うんごどうよう)は後半からである。しかし全112話のうち雲居禅師の名前が見えるのは17話ほど。洞山の法嗣だけのことはある。 

 巻末には、「宝鏡三昧」と「新豊吟」が付記してある。宝鏡三昧も洞山の作であったか、とあらためて納得。再読要す。

 

<3>につづく

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2018/12/01

「続ざんねんないきもの事典」 おもしろい! 進化のふしぎ 今泉忠明

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「続ざんねんないきもの事典」 おもしろい! 進化のふしぎ
今泉 忠明   (監修) 2017/06 高橋書店 単行本(ソフトカバー): 160ページ
No.4297★★★★★

 ホモサピエンスは二足歩行を始めてから脳みそを発達させてしまいました。分かち合えばみんなで充分エサは間に合うのですが、食べきれないほど以上にエサを集めた方がエライと考えるようになったのです。

 食べきれないエサを、石や金属と交換し、木の繊維を編んだシヘイという薄っぺらいものを集めるようになりました。最近では、目に見えないデンキ信号に変えたポイントや、デンシマネーを多く集めた方が、勝ちと勘違いし始めています。

 デンキシンゴウを増やすために、見たこともない敵とも戦うようになり、地球の反対側のホモサピエンス同志でも争うようになりました。戦いはどんどん激しくなり、地球上の他の動物たちにも大きな迷惑をかけ続けています。

 勝ったほうも集めたデンキ信号をどう使ったらいいか分からなくなり、負けたほうも、エサを勝手に隠されてしまったために、とっても飢えてしまっています。まったく困った、ざんねんないきものの代表ですね。

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