さとりサマーディにて」<38>誕生日
<38>誕生日
正直言って、母親の誕生日なんて、あまり意識したことはなかった。そもそも、日本文化において、誕生日というものがなかった。誰もがみんな正月に一歳年を増やすのだ。だから、正月のことを「お年取り」というのだ。
だからいまさらさとりさんにとって、今日は誕生日だよ、と言われても、ちょっとピンとこないところがあるのだろう。だがそれにしても、「今日は97歳の誕生日だよ」と、耳元で大きな声で話しかけても、「はい」と、短い返答をするだけだ。
「おかあさんは、大正、昭和、平成、そして、来年の新しい年号の時代を生きるんだね」と話しかけても、気のない返事、「はい」。新しい年号は来年の4月にならないと始まらない。そもそも彼女は、そこまで生きているか。
食べることも、歩くことも、トイレにいくことも、風呂に入ることも、寝ることも、寝がえりを打つことも、いまや一人ではできない。24時間、介護がなければ、彼女の生存は保証されていない。一年前とは、かなり違う。
目も見えず、音もわずかにしか聞こえず、体も自由にならない。呼びかけられたら、わずかに反応し、自らの名前を呼ばれたのはわかるし、自分の誕生日も何月何日、とはっきり答えたという。あと何日ですね、と、引き算までしたそうな。
調子いい時と、眠っているような時とある。日中はあまり眠らないほうがいいらしい。だから、昼間はパジャマは着ていない。週に何回かは風呂に入れてもらう。機械がかりで、しかも二人の担当者の手を煩わせる。
誕生日おめでとう、と言ってみる。その口もとに耳を押し付けてみると、何かを言っているようにも聞こえる。かすかだが、「今は、普通でしょ」と言った気がする。たしかに、今や97歳なんて、めずらしくはない。100歳以上の人達が、何万人もいるらしい。たしかに、今は普通だ。
テレビの芸能番組で、今年亡くなった芸能人が列挙されていた。若く亡くなる人もあれば、もちろん長命な人々もいるが、大体は80をピークにして亡くなっているようだ。97歳はやっぱり、長命だ。そこまで生きていること自体、幸福なことであるはずなのだ。
しかし、自分は高齢になって、どのような人生を送りたいだろうか、と思った時、果て、97歳の自分を想定できるだろうか。その時、どんな世の中になっているだろう。どのような体調になっているだろう。家族環境は? 経済状態は? 世界情勢は? 未知数なことはたくさんある。
しかし、確実に、ひとつづつ誕生日を重ねていくことは事実なのだ。彼女は、またひとつ年を増やした。子供としては、やはり、長命であってほしいと思う。彼女が生きている間に、もっともっと幸せなことが続いてほしいと、思う。
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