「うちのお寺は曹洞宗」わが家の宗教を知るシリーズ 藤井 正雄<3>
「うちのお寺は曹洞宗」わが家の宗教を知るシリーズ <3>
藤井 正雄 1997/12 出版社: 双葉社 単行本: 237ページ
★★★★☆
道元は悪くない。曹洞宗も、まぁまぁ・・・・。だけどなあ、この年表がなあ。
日本の仏教は794年から始まるのか・・・。いやぁ、そうじゃねーだろう。っていうか、それに対してキチン反論できない自分の無知が恥ずかしいが、すくなくとも、聖徳太子とか、法隆寺とか、すくなくとも、唐代の禅僧たちにも触れてほしかったな。
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とあるSNSの友人の記事に書いたメモだが、なんだか落ち着かないので、こちらに張り付けておく。本書とはとくに関連はないが・・・。
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8才の時に父が亡くなって、仏事(弔い事)は割合身近にあった。わが家の菩提寺は曹洞宗系の末寺であったが、戦後、宗派から離脱して、単立寺院となった。宗派はあまり語られないが、使っている経典類は道元系のモノ。僧衣も実に簡単なもので、背広に袈裟を着て法事をしたりする。
思うに、昔は、ランバと呼ばれる墓地は、村々のあちこちにあって、そこは単に墓場であった。必ずしも、仏教とは結びついてはいなかったのではないだろうか。
自分の死後、自分は、このお寺に埋葬してもらおうと思っているが、それは必ずしも、宗教とは関係なく、単に、死体処理の問題かな、と思ったりする。おそらく法名もつけてもらうことだろう。でもそれは、生きている間の私自身の精神性というよりは、残してしまった子孫への、道標のようなもので、お前たちは決してルーツなしの、どこぞの馬の骨ではないよ、という役割を果たせればいいかな、と思う。
いずれ無縁仏になったとしても、それはそれと思う。
彼岸やお盆には、慣習として、墓参りをし、花や線香を手向ける。これはこれで、年中行事として、生活になじんでいる。これはしかし、宗教行事といえるのかどうか。
自分の家に仏壇があって、もし故人があって、その位牌に、日に3度、焼香する、というのは、はたからみれば、ずいぶんと手厚い弔い方だな、と思う。私にはそれほど几帳面にはできないだろう。でも命日や気が向いたときは、線香もあげ、時には般若心経も読んだりするのもいいと思う。
父親の50回忌も終わったから、もう命日も生家の仏壇に焼香にいかなくなった。母親は最近97歳の誕生日を迎えた。彼女が亡くなれば、やはりおそらく私も焼香するだろうし、一般に言われる3七日や四十九日の法事などをして「あげたく」なるだろう。
でも、そのことと、瞑想したり、OSHOを読んだりすることは、たしかに直接的にはつながってはいない。それはそれでいいんだと思う。
月2回の、近隣の禅寺での坐禅会でも、普勧坐禅儀や般若心経を読経するが、ダイレクトにはそのことと、葬式などの仏事はつながっていない。それでいいのだと思うし、また、その辺あたりが、現代仏教の矛盾点(和尚さんたちの悩みどころ)でもあるのかな、と思う。
いずれ、おそらくそれほど遠くない時期に、私も死ぬのであるし、それを覚悟しないわけにはいかない。その時、あまりに粗末な終焉を迎えたくないな、という思いもあるし、いやいや人生どうなるかわからんぞ、という覚悟もしなければいけないと思う。
最近は、だいぶ友人たちも亡くなり始めた。私はすなおに、その遺族の風習に従って焼香したり、仏事に参列するが、あまり丁重すぎるのもどうかな、とも思っている。(ざっくばらんな性格なので)
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