洞門禅文学集 飯田利行<2>
<1>からつづく
「洞山」 (現代語訳 洞門禅文学集) <2>
飯田 利行 (翻訳) 2001/12 国書刊行会 単行本: 238ページ
★★★★★
当ブログの「把不住」というタイトルのルーツはここにある。唐代禅の高峰・馬祖道一(ばそどういつ 709~788)の弟子筋である洞山良价(とうざんりょうかい 807~869)が、その弟子・雲居道膺(うんごどうよう 835~902)を評した時の一説である。
注2021/02/03
(少しづつ調べて分かってきたことだが、洞山良价や雲居道膺は、決して馬祖道一の弟子筋とはいいがたい。確かに六祖慧能の法脈とはいえるが、馬祖道一と比較するなら、同じ時代に活躍した石頭希遷の弟子筋というべきで、馬祖と石頭は、むしろ方便を異にしたライバルだったというほうが正しいようだ。ただし、この唐代の禅師たちは、セクトにこだわらず互いに交流していたので、いわゆる唐代禅の爛熟期にあった禅師たち、というくくりのほうが、より正確だ。
現代日本の作家にして禅僧である玄侑宗久氏は、この「把不住」とは「理解しきれないこと」と訳しておられる。
この言葉は、他の文献にも出ているともみられ、それを見た江戸時代の禅僧・ 雲居希膺(うんごきよう 1582~1659)は、仙台・松島湾の自らの禅庵を「把不住軒」と命名した。
この地を、友人たちと訪れた2016年6月、この軒名に感銘し、はふじゅう、という読みとバヴェシュというサニヤスネームを重ね、五七語の号としてお借りしているというわけである。
江戸時代の雲居希膺(うんごきよう1582~1659)は、自らの名前に酷似した唐代の雲居道膺(うんごどうよう 835~902)の故事に倣って禅堂の名前にしたわけだが、さて、この唐代の洞山良价の「洞」の字は、「曹洞宗」のいわれの一つとなっているようだ。
江戸の雲居希膺(うんごきよう)は臨済宗の禅僧で、自らの禅堂名の由来を曹洞宗に持っていったということになるが、別段に驚くほどのことではあるまい。諸宗諸派あるものの、禅は禅なのであり、仏は仏なのである。ZENはZENでいいだろう。
私個人としては、どちらかと言えば、臨在宗より曹洞宗に縁があり、昨日から始まった臘八接心にちなむ今朝の早朝坐禅会もまた、曹洞禅寺でのものだった。(今朝はなかなか面白かった。いずれ何かの機会に書こう)
さて、当ブログの今後の展開であるが、ZENはZENであって、中国禅や日本的禅、あるいは曹洞宗や臨済宗などの違いはあまり気にしないできたので、中国禅、ましてや唐代や宋代などという違いを細かく味わってはこなかった。
曹洞禅は道元禅を基本としているものの、現代としてはそこにややゾルバ性に欠けるか、という危惧を持っていた。今後は、この「中国唐代の禅師」というくくりで追っかけてみようか。このOSHOの「馬祖」も、Vol.1で一回、Vol.2で一回、追っかけたきりだった。この機会に、ここに突っ込んでいってみようか。
この現代語訳「洞山」の主人公は洞山なのだからしかたないとしても、お目当ての雲居道膺(うんごどうよう)は後半からである。しかし全112話のうち雲居禅師の名前が見えるのは17話ほど。洞山の法嗣だけのことはある。
巻末には、「宝鏡三昧」と「新豊吟」が付記してある。宝鏡三昧も洞山の作であったか、とあらためて納得。再読要す。
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