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2018/12/09

「禅林画賛」―中世水墨画を読む 入矢義高他<2>

<1>からつづく

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「禅林画賛」―中世水墨画を読む<2>
島田修二郎・入矢義高監修 1987/10 毎日新聞社 大型本: 497ページ
★★★☆☆

 身近な親戚ながら、彼にはなんとも納得がいかないことがある。その資産をバックに若い自分から固定的な仕事に就かず、むしろ積極的な意味で無職状態を続け、結婚をするとか、地域活動に貢献することもなく、周囲の理解を得られないような人生を送ってきた。

 それにはそれなりの理由と経緯があったのだろうが(一部は私にもわかる)、そのような人生でいいのかと、責めたい気分が湧き上がる。声を荒げて非難することなどしたことはないし、する気もないが、許せない、という堅い想念が湧き上がる。

 彼の生活空間に行けば、あまりにも雑然としていて、いつシャワーを浴びたのだろう、というほどの体臭さえただよう。腐臭とさえ言ってもいいくらいだ。いくら還暦を超えたとは言え、すこしは客人への思いやりも必要だろう。ハゲも仕方ないが、少し残った髪くらい櫛を通せよ。

 度の過ぎた濃いお茶と、いつからテーブルの上にあるのか、というくらい古そうなお菓子を勧めてくれるのはありがたいとして、まだらに伸びきった口の周りの髭と、半開きになっている左側の口端から垂れている唾には、食欲が減退する。もう目をそらすしかない。

 美術館や博物館の年間パスポートを持っているようで、ひたすら外出時は、そのような施設を梯子しているらしいのだが、どうもバランスが悪すぎる。何を聞いても返答はある。何でも知っているようでもあり、どうも一面的でもある。

 そもそも数百年も続いた「名家」でもあり、その家宝ともいうべき、鎧兜や刀剣を手放し、敷地続きにあった自然天然物の管理の責任さえも、完全に放棄している。そんな奴に、あれこれ他人の非難などできないだろう。そう思うのだが、彼の悪口は尽きない。もう聞きたくないな、というほど、どんな人物、どんな事象にも批判的意見を持っている。

 私からすれば、彼は、もっと当家の名代であってほしい。威風堂々として、識見豊かに寛容性を持ち、謙虚にして、その伝統を維持しつつ、一族郎党の守護者であるべきだろう。巷の多忙な人々に代わって、公共の雑務を引き受け、難局にあっては、全体をまとめ上げて、一筋の道を示すほどの力量を見せるべきであろう。

 どうも嫌な奴である。親戚でなければ、完全に無視するか、嘲笑の的にしてやりたい、心の片隅では、そう思わないでもない。されど、一年に数度訪問してみるのは、近くに住みながら他人行儀なのは、どうも具合が悪いし、あんな彼も、いくらかでも改善の兆しが出ているのではないか、と、わずかな望みを持っているからでもある。

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 そんな彼を先日もまた訪れた。よせばいいのにとは思うが、この年末に一度は顔繋ぎしておくのも悪くない、という個人的な判断もある。簡単な手土産を持参して、まずはご無沙汰しているご先祖様たちが祀られている仏壇に線香を手向け、合掌する。

 そしてテーブルに着き、一対一で話をし始めれば、言いたいことも山ほどあるが、そこはそこ、まずは無難なところから話を切り出す。無難なところといえば、まずは趣味の話、あたりさわりのない無責任でいい加減なところから。

 そして出てきたのが、この三冊だった。こちらが仕掛けた問いに、彼が乗ってきたと言えば、そうも言えるが、決して彼が嫌がる分野ではない。むしろ、お勧めの本がないか、との問いに、彼はこう答えたのである。私としては、身を乗り出さないわけにはいかない。

 わたしとしては何とか話の接点を見出したい一心だ。いや、それは彼とて同じだろう。この三冊が置かれている地点なら、二人はいくらでも話が続くであろう。それがお互いの無理のない世界であることに驚く。お互いに楽しいのである。

 あのグータラ親戚と、この私には、何分の一かづつ同じ血が流れている。ましてや同じ地域に住んでいれば、同じ年代の同じ世代という以上に、その趣向性は似たり寄ったりなのだ。これには参った。

 曲がりなりにも旅をし、瞑想し、仕事を持ち、家族を養って、時には地域貢献もしてきたと思い込んでいるわが身として、このグータラ野郎と、60の還暦を超えてみれば、ほとんど同じ意識のレベルに立ち会っているのである。これは一大・大発見と言ってもいいくらいだ。

 逆に立場を逆転してみる。仮に私が彼の境遇だったら、彼のような状態にならなかったか。もし仮に、彼が私のような身軽な立場だったら、それなりのスタイルを取り得たのではないか。二人の立場は本当はそれほど違わない。周りから見れば、一族郎党だ。

 そしてさらに思う。彼が私をどう思っているかは図りしれないが、少なくとも私が長年彼に持ってきたイメージや評価、批評というものは、それほど大きくはないのではないか。少なくとも、目くそ鼻くそを笑う、の例えではないのか。これは大きな気づきであった。

 先ほどの、私の彼に対する評価は、彼からの私への評価の裏返しであり、ひょっとすると、私の私に対する評価でもあるような気がしてきた。いや、きっとそうであろう。この三冊をパラパラしながら、そう思うのである。

<3>につづく

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